たかが子爵家

鈴原みこと

プロローグ

 少女はメイド服に身を包んで、姿見の前にいた。


 貴族屋敷の一室。使用人専用として使われている部屋に、今は彼女ひとりだけ。


 早朝。一の鐘午前六時の報が鳴るにはまだかなり早い刻限。

 彼女の始動は他のメイドたちよりも早い。令嬢の侍女、という特殊な立ち位置が理由の一端としてはあるが、この日は特に早かった。


 鏡の前で、まずは服装に乱れがないかを確認チェックする。この屋敷の仕事着は濃紺のうこんのロングワンピースにフリル付き白エプロンを合わせたものになる。通常は頭飾りホワイトブリムも付けるのだが、彼女は他のメイドたちと役割が異なる。区別をつけやすくするため、頭飾りホワイトブリムを付けないのが彼女の正装となっていた。


 襟元えりもとで結んだリボンが曲がっていないことを確認したあと、長い褐色かっしょくの髪をハーフアップにしてお気に入りのバレッタで止める。


 鏡の前でくるりと回ると、その反動でふわりとスカートが舞い上がり、裏地にほどこされた白い綿織物モスリンがちらりと姿を見せた。背面はいめんで結んだエプロンのストラップがきれいなリボン型になっているのに満足して、廊下へと出る。


 向かうのは二階。彼女が仕える令嬢の寝室だ。

 今日は大事な予定が入っている。その主要人物をこれから起こしに行かねばならない。彼女の責任は重大だった。


 使用人専用の階段を上って二階の廊下に出る。昨夜り続いていた雨はすっかり上がったようで、窓から射し込む朝陽あさひが廊下を明るく照らしていた。さすがに夏は陽が昇るのも早い。壁の上部に点々としつらえられたランプには火がともっているが、今の時間は必要がないくらいだ。


 とはいえ、それを消すのは別の者たちの役目。彼女はまっすぐ目的地へと向かう。ローヒールのショートブーツが床を弾いてコツコツコツと軽快な音を響かせる。


 屋敷は大きくて立派な造りだが、その内装は簡素かんそな飾りが多く、貴族的な華やかさに欠けていた。

 廊下の壁紙はアイボリーを基調としたダマスク柄で統一されており、屋敷全体の雰囲気を上品に引き締めている。各所に飾られている花瓶の花は落ち着いた色で可愛らしくけてあり、壁に掛けられた絵は素朴そぼくな風景画が多かった。

 そのシンプルで落ち着いた雰囲気が気に入っている。


 広い廊下を途中で左に曲がり、そこから二つの部屋を通り過ぎた先に目的の場所はあった。


 辿り着いた部屋の扉をじっと見つめる。使用人の部屋とは違う両開きの大きな扉だ。

 緊張はしていない。それは彼女と無縁のものだ。ただ、ぬぐいきれない小さな不安がその胸中にはあった。


 小さく息を吐きだすと、意を決して扉を叩いた。コンコン、と乾いた音が辺りに響く。


「失礼いたします、お嬢様。起床のお時間でございます」


 部屋のあるじに声をかけて扉にそっと手を触れると、使用人部屋のそれより少しだけ重さのある扉を静かに押し開けた。だが、いつもは感じない若干じゃっかんの抵抗力に違和感を覚える。


 扉を開けてすぐ、やわらかな風とともに、雨上がりの独特なにおいが鼻先をかすめて、少女は異変に気がついた。

 部屋には人の気配がなく、さらに正面に見える窓が開いている。


 一目で状況は把握はあくできた。布をつないで作ったロープが、ベッドの天蓋てんがいを支える柱から窓の外へと伸びている。

 脱出方法は容易に知れた。


「最近おとなしくなさっていたから、油断したわ……」


 ぼそりとつぶやく少女の脳裏のうりぎるのは、この屋敷をとりしきる執事の言葉だった。


 ――お嬢様は明晰めいせきな頭脳をお持ちだが、好奇心が先にたつと途端とたんに記憶力が怪しくなるのが困りものですな。


 それは揶揄やゆするような口調だったから、笑って応じた覚えがある。しかし今はそんなかつての自分に文句を言ってやりたい気持ちがした。

 あのとき、どうして自分は呑気に笑っていたのだろうか。その弊害へいがいを自分がこうむる可能性は十分に予測できたはずなのに、想像すらしなかった。

 自分のバカさ加減に腹が立つ。


 窓際まで移動すると、風をその身に受けて力なく揺れる布製ロープの姿が、少女の黒い両眼に映った。

 風に押されて揺れ動く布すらも自分を嘲笑あざわらっているように見える。


 自然――彼女の口角こうかくゆがんだ形に持ち上がった。


「ふっ、ふふふ……」


 いきどおりが抑えられないのに、その口からは笑いがもれていた。


 窓辺を通りすぎるおだやかな風が、少女の頬をやさしくなでていく。しかしその表情は、ほの暗く塗装とそうされていた。


「今日ばかりは許しませんことよ、ウリカお嬢様」


 引きつった笑顔を浮かべながら独白どくはくする瞳の奥で、静かな怒りの炎が揺れていた。

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