第18話 群青

 ふと思い立って茨木童子いばらぎのどうじが遺した瑠璃の杯を通して月を見る。

 今宵は満月。

 二度目に逢ったとき、望月に向かって彼がそういう仕草をしていたのを思い出したのだ。

 杯を透かした月は、ただ青に染まっている。


 しばらく眺めていると、不意に陰がきざして男の姿が浮かび上がった。

 鮮やかに笑う被髪姿の男。額には大きな角が一本。きっと彼は酒呑童子しゅてんどうじなのだろう。

 太さは私の倍もあろうかという腕。彼の持つ、ほおの木造り、漆を塗って黒光りする鞘に収められた太刀は大振りでずしりと重そうだ。

 気安いさまで、なにごとかを話しかけてきているが、声は聞こえない。

 途端、場面が変わる。

 戦装束の鬼たち。焦燥の影が濃い。革の肩当てやいちい脛巾はばきを身につけ、手に手に弓や刀を持ってはいたが、鎧を纏う者はすくなかった。角を持つ者も、持たない者もいた。

 木造の砦が火箭ひやを射かけられて燃えようとしている。

 女もこどもも、戦える者はみな戦おうとしている。

 すごろく遊びで出会ったあの女童めわらわの姿が視界をよぎった。彼女もまた、油の壺を持っている。砦に取り付いた敵の武者に油をかけて、落とそうというのか。さらに火を落として焼こうというのか。

 これは、源頼光をはじめとした朝廷の征伐軍との戦だろうか。

 さきほど、いちばんに幻に現れた男が、緋通しの鎧を身につけた武者と太刀を交えているのが見える。

 また場面が変わる。

 牛車に矢を射かける者がいる。

 牛車に乗っていた姫童ひめわらわと公家が、転がり落ちるように逃げだそうとしている。

 しばらくは牛車を守る衛士たちが応戦していたが、牛が猛り始めてからは無惨だった。千々に逃げ惑う。

 牛に踏みつけられて公家が死ぬ。

 姫童は木陰で泣いている。

 牛車には珍宝、綾錦のたぐいがぎっしりと詰め込まれていた。

 ――ああ、これは茨木童子の見た光景なのだな。

 そう思った。

 そして、私だ。

 破れ寺で、ぐったりと横たわった私。足元では主殿が餌を啄んでいらっしゃる。

 なにごとかのやりとり。

 私はもちろん、彼と交わした言葉を覚えている。

「ぬしの足元で心配そうにしておるものがあるぞ。まるまる肥えた鶏じゃ、これをさばいてやろうか。首をって血を抜けば美味そうじゃ」

「私の主殿だ。触れれば、汝を殺す」

「おお怖い。したが、威勢の良いことを言うなら、さっさと飲め。格好がついておらぬぞ」

 険しい顔をして見せても、私は起き上がることも出来なかった。行李のしたに隠した履柄守の剣を振るうことなどなおさら無理なありさまだ。

 ――まったく格好がついていない――

 おのれのあまりにみっともないありさまに、苦い嗤いがこみあげてくる。

 私が、瑠璃の杯を干す。

 ――そう、これは私が初めて血を飲んだ日のことだった。

 感傷に耽るまもなく、またしても場面が変わる。

 不意に見知った顔が兆した。

 目尻の紅。日にやけた肌の、女。手に持つのは、線香花火か。


ああ!」


 うかつにも叫んでしまった。惹かれ、探し続けているその面影。

 途端に瑠璃の杯に群雲むらくもが重なる。

 見れば、月に雲がかかっていた。

 不覚にも、涙ぐんでしまう。

 出会えずともよい、噂を拾えずともよい、ただあの女がどこかにいる、それだけでこの旅には意味がある、そう信じて歩んできたつもりだった。

 ――こんなにも、私は彼女に逢いたいのだ。

 はらはらとこぼれる涙を拭って、もういちど雲間の月を透かしてみる。


 瑠璃の杯の底には、青に青を重ねて沈黙する群青があるばかり。

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