第2話 金魚
「あんた、そりゃ
水を張った田にゴム長靴履きの足を突っ込んで草取りをしていた初老の女が、私を呼び止めた。
「違う、私の
そう答えると「風呂敷に包んだ雄鶏を主さまとは、変わったおひとだ」と女は笑った。
「けんど、いまどきはなんでもあるがね」
女は腰を叩いて背筋を伸ばし、にんまりと私に笑みかけた。
「戦争に取られた息子が南方で死んだと公報が入ったときゃ、この世の終わりかと思うたし、これであんたの息子は軍神じゃ、喜べと村のもんに言われたときゃ、この世は地獄じゃと思うたけど、死んだと思うとった旦那は指を二本無くしただけでシベリアから戻ってきた。大阪に住んどる弟が、喰わすのが大変や言うて三女を里子に出したんをもろうたんで、まあ、なんやかんや家も騒がしいなったしな」
ニィニィと、蝉が鳴いている。
梅雨が明けたばかりだが、陽射しはもう真夏の輝きをしていた。
「ところで、女を見かけなかったか」
私は長らく決まり文句にしていることを問うてみた。
「目尻に紅い化粧をした、女だ。おおきな犬を連れている」
田仕事の女はこっくりと頷いた。
「あるな。けども、ありゃ戦争が終わってすぐの昭和の地震の次の年やったから、昭和二十二年、いまから八年もまえだの。地震のおかげで村の溜め池の底が抜けてなぁ、男も女も総出で修繕しとった。四月になっても水はどこかから漏れ出して溜まらん。田植えの季節は迫っとる。ここらは夏の水涸れが多くてな、こんままじゃあ、田んぼは駄目じゃと言い合っとったとき、あんたの言う女が村にやってきた」
女は田から
「まだわしの膝くらいに
櫟の下に座り、首に掛けた手ぬぐいで汗を拭いて、女は遠くを見詰めている。
「ああ、すまん。あの女のことだの」
私の背で、主殿がくうくう、とちいさく鳴いている。
「女はただ通りがかっただけのようじゃったな。江戸の昔からやってる、村で一軒の宿に逗留していたが、村のもんは気にも留めんかった。わしは名前も知らん。宿のおやじは知っとったかもしれんが、去年亡くなった。宿帳でも見りゃ残っとるかもしれんが、宿も潰れたしの。食い扶持は自分で用意しとったようだし、宿代や、言うておおけ犬と連れだって山で猪やら鹿やらを獲ってきた。あのころは鉄砲の弾もなかなか手に入りにくうなっとって、罠猟するしかなかったけ、助かったな。わしもいちど、鹿肉を振る舞ってもろうた。宿のおやじは肉の始末が下手で、よう血の残った臭い肉を食わされたもんやが、あんときの肉はきれいに血が抜けとって美味かった」
女は、はたはたと手のひらで膝を叩きながらそう言った。
思い出話をするときの癖なのかも知れない。
「仏さまの花祭が近かったけど、溜め池のことで準備もなんもしとらんかった。なんもせんのもあかんやろなと困っとったら、女が『踊りましょうかね』、そう言うたんで『今年は仏さまにきれいな舞を見せて、そんで勘弁してもらおう』て、そういうことになった。女に村長の娘の持ってた振り袖着せて、寺のお堂で舞ってもろうたんやが、綺麗なもんやった」
女は、にい、と笑った。
「紅い振り袖がひらひらしてな、おしろいに目尻の紅が、そりゃあもう、美しい映えた。村のもんはみんな、
女は懐から煙管を取り出し、一服した。
鼻につく、甘い香りが漂う。
疲れ取りに麻の葉が混ざっているのかも知れない。
「いつのまにか女はいなくなっとった。赤い振り袖はお堂の隅に脱ぎ捨てられとったな。正気づいた村の年寄りが、金魚みたいやったな、と口々に言うた。そんで、みな思い出した。戦争が始まるまえは、村で金魚を育ててたんじゃ。紅いのや、黒いのや、金色のや、ぶっちがえのや、いろいろな。
女は煙管の灰を捨てて、よっこいせ、と立ち上がる。
「かあさん」
田の向こうから十ばかりの歳の娘がひとり、駆けてきた。
「婦人会の臼井おばさんが、明日、町に買い出しに行くから、なんかいるもんあったら言うて、って」
彼女が、弟から養子にもらった娘なのだろう。私に気がついて、恥ずかしそうに、ぺこりと頭を下げた。
「とうちゃんは」
「とうさんはいま学校。勉強、遅れとる子に付き合ってるって。でな、生徒の文房具が足らんから、買えるようなら欲しいって。消しゴムとノート」
「分かった。臼井さんにはあとで書き付け持って挨拶に行く、言うといて」
「分かった」
来たときと同じように駆け去って行く少女の後ろ姿を目で追っていた女は、やがて私に向き直った。
「あの女の話はこんで終わり。そん年は巧い具合に雨が降って、凶作にはならんかった。
彼女の話が終わったのを機に、私も立ち上がった。
田仕事の女にいとまを告げたとき、背で、主殿が「コケ」と鳴いた。
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