一輪の花

「うーん…」



 始業式の日からおよそ二週間。



 実は、自分の席の手前で立ち尽くしていた。

 その視線は、床に向けられている。



 事の発端は、今から十日ほど前にさかのぼる。

 朝普通に登校した自分が見たのは、教室の床の隙間からちょこんと生えた何かだった。



「何これ?」



 その側にしゃがみこんで、まじまじとその何かを観察する。



 形は、小さなたけのこだろうか。

 色は深い緑色をしていて、先の方だけ色が薄くなっていた。



 ふと先日見た青白い粉を思い出したが、その記憶を振り払うように首を振って席に着いた。



 自分が処理しなくても、そのうちこれに気付いた誰かが引き抜くだろう。

 そう思い、その時は放っておくことにしたのだ。



 そうして時が流れて今。

 誰にも処理されなかった謎の物体は、自分の前で綺麗な花を咲かせていた。



 草丈は十センチくらい。

 鋭利なとげを持った深緑の葉は、ひいらぎを連想させた。



 五枚の花弁は先端が淡い青色をしていて、中央にいくほどその色が濃くなり、中央は群青色をしている。



 おしべやめしべまでもが群青色をしていて、たった一輪しかないのに、ものすごい存在感を放っている花だった。



 不思議な植物だ。

 今までに、こんな花なんて見たことがない。



「どうしよう…。見事に花まで咲いちゃったよ……」



 実は困り果てる。



 不思議でならなかった。

 何故今の今まで、この花は誰にも摘まれなかったのだろう。



 掃除の時間にでもなれば、誰かが引き抜いてもおかしくない。

 芽しか生えていなかった時は仕方なくても、成長する過程で誰かがさすがに気付くはずだ。



 それを期待して、自らは触れなかったというのに。



(まさか幻覚……じゃないよね?)



 さすがに、自分の正気を疑ってしまう。



 そんなはずないと思いたい。

 しかしここまで成長している花を見ると、自分が幻覚を見ているのではと疑うじゃないか。



 花を咲かせても引き抜かれないということは、単純に考えて、他の人には見えていないということなのだから。



 その推測に、気分が沈んでいくのを感じざるを得なかった。



「はあ……どうしようかな、これ。」



 憂鬱ゆううつな気分のまま、実は眼下に咲く花を見つめた。

 しばらく考えたがやはりさわる気にはなれず、仕方なく席に座る。



 無視できるものなら、無視したかった。

 しかし花の存在感が強すぎて、嫌でも視界に入ってしまう。



 まったく。

 頭を抱えたくなる状況だ。



 物げに息を吐く実の横を誰かが通り過ぎていったのは、その時のことだった。



「あっ」



 思わず声をあげてしまった。

 自分の隣を通り過ぎていったクラスメイトが、そこに何もないかのように花を踏み潰したのだ。



 そのまま先へ進もうとしていたクラスメイトが、実の声に振り返る。

 彼の足は、花を踏んだまま。



「どうした、宮崎?」

「えっと…」



 訊かれた実は困る。



 花のことを言って、自分が変に思われるのは嫌だ。

 しかし、とっさの言い訳など思いつかない。



「いや……なんでもない。」



 苦しまぎれに、そうごまかした。



 彼はひきつった笑みを浮かべる実に怪訝けげんそうな視線を向けていたが、やがて興味もなくなったのか、何も言わずにその場を去っていった。



 彼が十分に離れたのを確認してから、実は安堵の息をつく。



(あーあ…。花、潰れちゃっただろうな……)



 そのことに微かな期待を抱きつつ、視線を下へ。



「―――え…?」



 それ以上の言葉が出なかった。

 茫然と床を凝視する。



 花は、潰れてなどいなかったのだ。

 踏まれる前と何も変わることなく、堂々とした存在感もそのままに、ゆらゆらとそこに揺れている。



 ありえない。

 まさか、本当に幻覚?



 認めたくない疑問が、瞬く間に思考を支配する。



「………」



 実はゆっくりと立ち上がり、花の側に膝をついた。

 そして、おそるおそる花へと手を伸ばした。



(触りたくない。触りたくないけど……)



 不可解なモノを前に、強く目をつむる。

 本能的な恐怖が、手を動かすまいと抵抗してくる。



 手が小刻みに震えながら、しかし確実に花に近づいていく。

 それに比例して、心臓の音も大きく早くなる。



「!!」



 実の体が一度びくりと痙攣けいれんした。

 次いで、驚いて花を見る。



 手が葉の縁に触れている。

 確かな感触が指の先にある。



「あれ……さわれる?」



 さわれないことを覚悟していた実は、拍子抜けしてしまった。



 花の存在を確認するように、花の色んな部分を触ってみる。



 花弁、おしべ、めしべ、茎から根元まで。

 どこを触っても、花が消えてしまうようなことはなかった。



「………」



 実は真面目な表情で思案。



 こうなったら、この花が存在するのは認めよう。

 けれど、この花が今まで誰にも抜かれなかった事実は変わらない。



 つまり、これが自分にしか見えない幻覚である可能性は払拭できていないのだ。

 花に触っているこの感触だって、幻覚を見ていることが原因の錯覚かもしれない。



(―――よし、抜こう。)



 一度触ってしまったからか、さほど抵抗はなかった。

 とりあえず今は、この花をすぐにでも目の前から消したくて仕方がなかった。



 一度手を引っ込めて、ひと呼吸。

 そして次に、一気に花へ手を伸ばした。



 ―――ボコッ



「あ…」



 実は間の抜けた声を出した。

 その手に花はない。



 花を摘もうとした実の指が葉の先に触れた瞬間、別の手が一拍早く花を抜いていってしまったのだ。



「……拓也?」



 実は花を抜いた人物を見上げる。

 そこでは、転校生の拓也が花を片手に実を見ていた。



「気をつけろよ、実。この花、結構葉が鋭いから……って、あー……おれのせいか? 指先、切れてるぞ。」



「はっ!?」



 指摘され、指先を見る。



 右手の中指に切り傷が走っていて、そこから血があふれていた。

 かなり深く切ってしまったのか、血が手のひらにまで流れている。



「本当だ……」



 実はぱちくりとまぶたを叩いた。

 出血量に見合わず、痛みは全くなかった。



 拓也は大丈夫なのだろうかとその手元を見たが、心配はいらなかったとすぐに思い直す。

 拓也は葉に触らないよう、器用に茎を掴んでいたからだ。



「面白い花だろ?」



 口の端を吊り上げて問う拓也に、実は素直に頷いた。



「うん、初めて見たよ。なんていうの?」

「サルフィリア。確か、どこかの言葉で〝夜の灯火〟って意味だったかな。」



 実は、拓也の新たな一面に軽く目をみはった。



 始業式以来、拓也とはずっと行動を共にしている。

 最初こそ変な感じはしたが、一緒にいると結構気が合ってすぐに打ち解けた。

 今ではもう、名前で呼び合うほどの仲になっている。



 学校での拓也は、物静かで冷静だ。

 しかし引っ込み思案というわけではなく、自分の意見はしっかり言うタイプだった。

 ちなみに、話すと案外口が悪い。



 初めは拓也がかもし出す近寄りがたい雰囲気に声をかけあぐねていた男子も、話してみると意外に普通に話してくれる拓也の態度に好感を示していた。



 女子たちの反応はこちらの予想どおりで、梨央の情報によると、拓也は水面下でかなりの人気を集めているらしい。



 まだ転校してきて日が浅いために告白されるようなことは起こっていないが、それも時間の問題だという。



 ちなみに、拓也は本を読むことが好きらしい。

 最近は話しかけてくる人が絶えなくて学校では本が読めないと、この間ちらりと文句を零していた。



 そう言う割には、話しかけてきた人間には、面倒そうな顔をしながらもきちんと対応している。

 本を読みたいなら読めばいいのに、なんだかんだと律儀な性格のようだ。



 これが今のところ、自分が拓也に関して把握していること。



「へぇ…。拓也って、博識なんだね。」

「そういうわけじゃないさ。」



 感心して素直な感想を述べると、拓也は手を振りながら笑う。



「でも俺は、この花の名前も知らなかったよ?」



 何気ない実の一言。



 途端に、拓也の笑顔が引きつった。

 嫌なことでも思い出したのか、表情が凍りついて目に力がこもる。



「これは……おれが、前に住んでた場所によく咲いていたんだ。」



 搾り出すように、拓也はそう言った。



「ごめん……なんか、嫌なこと思い出させたみたいで。」



 実は眉を下げる。



 他の人から見たら、普通に見えたかもしれない。

 それくらい微妙な変化だ。



 でも……



 拓也の笑顔が、どこか暗い色をたたえたように見えたのだ。



「え? ……いやいや!」



 拓也は一瞬きょとんとし、その後慌てて手を振った。

 なんだかそんな仕草すらも、何かを隠すための演技に見えてしまう。



「なんでもねぇって。気にするな。じゃあ、これはおれが処理しておくから。」



 最後になんともないような顔で笑うと、拓也はそそくさと教室を出ていった。



 後に残された実は拓也の挙動不審な様子に首を傾げたが、未だ止まらない血に気付き、暢気のんきに「あらら…」と呟く。



 これはとりあえず、保健室へと向かった方がよさそうだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る