【幕間】ハロルド

「あっけなく振られてしまったな」


 心底残念そうに、それでいて余裕のある照れ隠しのような笑みで、第一騎士団の団長は独りごちた。


 まだほんのりと温かい飲み頃の紅茶を残し、子爵令嬢は第二騎士団の従騎士に連れ去られてしまった。


 あんな年季の浅い騎士に先を越されていた。その事実に驚くばかりである。


 冷静沈着に策を講ずることが一番の特技だと自負する、第一騎士団の団長ハロルド・アド・ユグミシットは若干の苛立ちを覚えたものの、思考を即座に切り替えた。


 これは駆け引き以前の問題だ。


 石に気付かず躓いたのは、自身の警戒の甘さか。何者かがそれをもたらしたか。


 もしくは、その両方に彼自身が追い込まれていたか。


「ハロル、食っていいか?」

「構わないよ。傷心から立ち直るには、私でもいささかの時間を要する」


 第一騎士団の団長補佐シァトは許可を得ると、手の付けられていないコンフィット糖菓やチョコレートを次々口に放り込んだ。


 高級菓子を食べ慣れていない小間使いの少年のような頬張り方だ。


 年相応、見た目相応のあどけなさで、もきゅもきゅと顎を動かす。


 甘さを雑に味わい、飲み込んだ後のシァトの口元は、ひと粒ずつの菓子をどう食せばそうなるのかと疑問に思うほど汚れている。


 甘味をすべて補給し終わると、シァトは汚れた口端の砂糖を舌で舐め始めた。


 お行儀が悪いだろう、と普段は先に叱るが今日はそうする意気が出てこない。


 これも振られた所為か。


 取り敢えず、ハロルドはいつも用意しているハンカチで、シァトの口の周りを拭ってやった。


 口元が綺麗になると、シァトは斜め下を見て――彼が考えるときの癖をして――言った。


「じゃあ、傷心になるぐらいなら引き留めて、その花束も渡せばよかったのに」


 言われてハロルドが目を向けたのは、この奥まった位置のテーブル席から、さらに隠すように置かれた花束だった。


 それは紫色の花がつぶさに咲いたライラックの花束。


 ハロルドの心の中で確固たる地位を築く花樹、その若木から摘んだライラックを、彼はまた彼女に渡すことができなかった。


「いや、切り出すにしてもタイミングがな……」

「アルム伯爵領の舞踏会の時も嘘つかまされて、会えなくて渡せなかったじゃん。なんで会えた今日に渡せないの」


 はは……とハロルドは苦笑いを浮かべ、古傷を突かれた気分になった。


 過去、彼はとある伝手から子爵家秘蔵の末娘ロザリンドがアルム伯爵領の舞踏会に出席する情報を入手していた。


 アルム伯爵家の分家に子爵家の長女オリビアが嫁いでいたこともあり、信憑性は高かった。


 だがしかし、花束や贈り物を十二分に用意していった彼を待っていたのは踊る相手のいない舞踏会。


 とはいえ、踵を返しての退出は名誉ある騎士の名が廃る。


 失礼のないよう主催者のアルム伯爵に挨拶をし、伯爵夫人と一曲。妙齢の令嬢からの挨拶はすべて辞退。礼儀上のすべてを済ましたハロルドは肩を落として、明けに帰城した。


 彼女のいない世界など春が訪れない冬だ。


 オペラの名手と謳われる、第三音楽会館ベルフィ伯爵家配下主演男性歌手プリモ・ウォーモの厳かな歌声に拍手で応えずにいるようなものだ。


 ハロルドがどれだけ念入りに下準備をしても、仕掛けたアプローチはいつも邪魔が入った。


 今日などまさにオディールの手を取った王子を目にし、悲嘆したオデットのような心持ちだ。


 何者かの作為を感じるのは気のせいではない。


 それは恐らく十年前から続く運命の悪戯だ。


 危険を承知で挑むこともできるが、この運命の流れに逆らえば、命の保証はない。


 そして、十年前、結果的に彼女を選ばなかったことで救えた命もある。


 その幼かった命はハロルドの弟分のように育てられ、たまに呑気で、たまに気が早い性格となった。そして剣術にかけては……体格差のある相手と三対一で勝利を収められる。


 それがシァト・ラグラス卿。


 団長補佐を務めるほどに成長した騎士だ。


 シァトは窓の外を眺めつつ、不甲斐ない団長をからかうように言った。


「せっかくハロルがキザに決めたのに、女神に睨まれちゃ救いようがねーな」


 視線の先には大教会の鐘楼。


 シァトの、左右で色の異なる瞳は上空にいる何かを追うかのように彷徨っていた。


「シァト。この花束は君にあげましょう」


 ハロルドはさっとライラックの花束を取ってきて、シァトへ差し出した。


 こちらに向いた色の異なる双眸いっぱいに花の色形が映る。


 なかば押し付けるように渡された花束を、シァトは流れで受け取った。


 彼は花束に小さな顔を埋めて花の香りを嗅ぐと、顔を上げた。


「俺、流石に花は食わねーぞ?」


 シァトは真顔に困惑の色を浮かばせている。


「なんと、花にも食用のエディブルフラワーという分類がある」

「へぇ食えるのか」

「そのライラックは食用ではない」

「食えねぇのかよっ! なんだよ、冗談かよ」


 シァトのかわいらしい怒気が音となって聞こえるようだった。


 そのほほえましさにハロルドは気を取り直して、表情から心悔しさを拭い去る。


「花瓶にでも飾ると良いだろう。日々の生活に彩があってこそ、我々は人間となる」

「そーなのか? でも、花の方がオペラ歌劇やバレエ、座って観るよりマシだな」


 ハロルドの趣味はこの部下に好まれていない。


 そんな事実にひっそりと彼の心は抉られつつも、第一騎士団の赤く華美である騎士服を翻し、職務遂行の地へ足を向けた。


「さぁ、戯れはおしまいだ。我々はヴェルザンディ皇国の第一騎士団、悪を切り裂く最も鋭い剣――暇である訳がない」

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