第16話 騎乗
「わあぁ! わあぁあぁぁ! わああぁあぁ‼︎」
「うるさ」
「麟、速い! 凄い! 速いわ! 何これ⁉︎」
「馬だってば!」
叫び返しながら、麟は、緩みそうになる口元を引き締めた。手綱を握る手が、湧き出る歓喜に震えている。
自身の心拍が、内腿から伝わる馬の鼓動に重なっていくようだ。熱を帯びた頬が、向かい風に吹きさらされる感覚が心地いい。
気を抜くと、玲姜よりも大きな声で叫んでしまいそうだった。
「だって、こんなの、馬車と全然違うわ!」
「───ふ」
だから落ち着け。笑うな。自分に言い聞かせながら、深く息を吸う。
馬に乗るということと、馬車に乗って運ばれる、ということは、全く別のことだ。単純に速さが違う、ということだけに留まらない何かが、決定的に違う。馬に乗っているときだけ、自分の心にある空洞のようなものが少し埋まって、完全な形に近づく。ずっと、そんな気がしていた。少なくとも、麟にとって馬に乗るというのは、そういうことだった。
中原に馬車で運ばれたときは、寂しくて仕方がなかった。狼は、孤高のようで、決してそうではない。群れで生きる生き物だ。麟は、群れを失った狼だった。
営丘に連れてこられて、唯一の楽しみが、馬の世話をすることだった。貴人は移動に馬車を使う。師父も当然、自宅に厩戸を併設していた。世話を命じられたのは、むしろ幸運だった。中原の言葉を学びながら、合間をみては厩戸にいた。
今思えば、師父は、麟に馬の世話をさせていたのではなく、馬に麟の治療をさせていたのだろう。馬と触れていたから、少しずつ、心の均衡を取り戻せたのだと思う。
馬だけは、ずっと、麟の友だった。
今でも、馬に乗ることが好きで好きでしょうがない。
だから。
「麟!」
背後を見た玲姜が、鋭い声を発した。見ずともわかる。麟が駆る馬とは別に三騎、馬蹄の音がしていた。
邪魔をしないで、と思った。こんなにも良い気分なのだから、どうか放っておいて欲しい。
───なんて。
吸い込んだ息を吐く。現実の問題に対処する必要があった。
相手は三騎。正直、予想よりも多い。とっさに裸馬を乗りこなせる手練れが三人もいるとは思っていなかった。見方を変えれば、それだけ玲姜の捜索に本気だということだ。
「さすが斉の傾国。人気がおありで」
「あ。その言い方、嫌い」
「そう」
さて、どうしたものか。こちらは剣で向こうは長物。そもそも玲姜を抱えている。騎乗戦は避けたい。とはいえ馬を降りても、遮蔽物のない平原では逃げ隠れできない。
こういうときに、アレが出来ればな───と、思ったその瞬間に。
むに、と片頬を掴まれた。玲姜が、肩越しに振り返っていた。
「……え、っと」
「なにか、私に出来ることは?」
「は?」
「だから! 私に出来ること!」
そんなものは無い、と言いかけて、ひとつ思いついた。いやしかし、これは無謀の類いではないだろうか。
「麟」
「なに」
「なんだってするわ。今なら、なんでも出来る気がするの」
夜天の星を反射する瞳の奥に、ぱちぱちと赫い火が灯っていた。竦んでしまいそうに強い視線に射抜かれる。
「相信我(私を信じて)」
信じる?
この、何も知らない世間知らずのお姫様を?
どくん、と心臓が脈打つ音がする。なんだこれ、と思った。
頬が熱くなる。呼吸が浅くなる。なんだか言葉になる前の衝動が、喉を突いて溢れてしまいそうだ。
それを丸ごと呑み込んで、言った。
「わかった。手綱を預けるから、真っ直ぐ馬を走らせて」
炭色の目が大きく見開く。渡されたものの重さに瞳が揺れて、けれど、力強く頷く。
自分で自分のことが信じられないと思った。こんな決断をする日が来るなんて。
馬蹄の音が大きくなる。追手が、こちらを制止しようと、胴間声を夜に響かせている。
「この───!、よく聞きなさい、───、──‼︎」
怒鳴り返すように、玲姜が罵声を飛ばした。(中原の言葉に限っては)上品な語彙しかない麟の知らない単語だったけれど、まあどう考えても罵詈雑言の類だった。
思わず笑みが零れる。頼もしいな、と思った。父の太い腕に抱かれたときに感じていたものとは、少し違う。安堵ではなく、弾けるような高揚が満ちていく。
誰かにこんな気持ちを抱いたのは、初めてだった。
今度は麟に向けて、玲姜が声を張る。
「どうすればいい⁉︎」
「背を伸ばして。内腿に力を入れて躰を支えるの。なにより、怯えないで。乗り手が怯えると、馬も走らなくなる」
「わかった」
「追手のことは忘れて。前だけ見て走って」
「好(了解)」
「後ろの連中は」
私が何とかする。
そうして麟は、手綱を離した。
空いた手で、背負っていた猟師の弓を脇に挟む。狩猟用の小型のものだ。揺れる馬上で、背嚢に突っ込んだままの矢筒からどうにか矢を三本取り出して、二本を口に咥えた。三本目は指先で挟む。
馬を止めるわけにはいかない。それで一騎を落としても、残った二騎に追いつかれるだろう。駆けながら、三騎を射落とす。それしかなかった。
一度、玲姜の背を見る。手綱を掴む手が緊張に張り詰めていることが、ひしひしと伝わってきた。
息を止めて、躰を捻る。その勢いのまま、構えて弓の弦を引き絞った。向かい風が、汗をかいた背中を冷やす。
矢を支える指先が、落馬の恐怖に震えていた。
逃げだすように放った矢は、明後日の方角へ飛ぶ。
無人の野に、矢が落ちた。
ひととき手綱を緩めた追手たちが、また馬腹を蹴って加速した。後ろ向きに放つ矢など当たる訳がない。そうタカを括られたと思った。
一旦姿勢を戻して、詰めていた息を吐く。一緒に弱音まで零れてしまいそうだった。思わず口を開く。でも。
玲姜と触れ合っている腰の辺りから、体温が伝わってくる。
手綱を渡してから、馬はずっと真っ直ぐに駆けていた。玲姜は、一度も背後を振り返っていない。託された二人分の命と尊厳を賭けて、懸命に手綱を握っている。
ようやく、その意味を正しく理解できた気がした。
思い返せば、初めて焚き火を囲んだときからずっと、玲姜は「こう」だったのだ。
今も変わらず、麟でさえ信じ切れないでいるものを、信じている。
───信じることが、一番難しい。
そのとおりだ。本当に、そのとおり。
だから。
咥えた矢をつがえる。指先は、もう震えない。
鳥の泣き声のように細く甲高い風切り音が、夜を翔ぶ。
馬上の影が一つ、どう、と音を立てて地に落ちた。乗り手を失い、後脚で立ち上がった馬が嘶く。
放つ瞬間、当たると分かっていた。二本目をつがえる。命中した。三矢で二騎。出来過ぎだな、と思う。
三騎目が、脚を止めた。距離が空く。薄ぼんやりとした雲に隠れていた月があらわになり、馬上にそびえる姿が見えた。
銅の兜を被った大男だった。さすがに具足は身に帯びていないが、その兜には仰々しい羽根飾りがついていた。小隊長格が身につけるものではない。
まさか、と思った。もしそうなら、どれだけ執着しているのだ。
「──、───!」
男が何かを叫んだ。先ほどの胴間声と同じ声で、やはり意味は分からない。
初めて玲姜が振り返った。眦が吊り上がり、頬が好調している。
「最っ低‼︎」吐き捨てて、また前に向き直った。「くたばれ!」
概ね、何を言われたかは想像がついた。薄い背中に寄り添うようにして、手綱を掴む玲姜の手に手を重ねる。冷たい手。けれども、彼女に触れている躰の前面は、夏の陽射しを浴びているように熱い。
兜の男が馬を降りた。何かを喚きながら、弓を構える。弓弦を引き絞る立ち姿に、芯が通っている。腹立たしいが、構えは上々だった。矢が放たれる。
「っつぁ!」
ふくらはぎに、熱した炭を押し当てられたような激感が走った。
馬を狙っただろう矢は、逸れて麟の皮膚を掠めていた。袴がぱっくりと割れて、覗いた皮膚に血が浮いている。
「麟⁉︎」
「掠っただけ。そのまま走って」
二射目は飛んでこない。距離を考えれば、もう無理だろう。見る間に指先ほどまで小さくなった男を尻目に、ようやく麟は詰めていた息を吐く。
「玲姜、まだ追ってきてる?」
「いや、諦めた、みたい」
それから五里は駆けただろうか。玲姜から受け取った手綱をようやく緩めて、馬を降りた。行く方には浅い河川がせせらいでいる。馬で渡れるだろうが、夜は避けたい。街道沿いの立木に綱を結んだ。
出来るだけの労りを込めて背を撫でると、首を下げて嘶く。名前が必要だな、と思った。
振り返ると、河辺の草の上に玲姜が座り込んでいた。
「最後のあれ、多分昆申だわ」
「やっぱり。まさか将が自分で追ってくるなんて」
隣に並んで座り込みながら、一応理由を聞いた。飛んできた罵声の内容で分かったらしい。曰く、「お前は俺の女だ的なことを狒々以下の品性で言われた」のだそうだ。
どうやら、最初に狙うべき相手を間違えたらしい。一番近い相手から狙った結果ではあるが。
「追ってくると思う?」
「どうかな。陥落させたばかりの那から、そう長く離れられるとは思わないけど」
「残念。次はやっつけてやるのに。麟が」
玲姜が、当たり前のように信頼を口にする。難しいよ、と口にしかけて、やめた。彼女が出来るというなら、出来るのかもしれない。
ひと欠片の根拠もなく、でも、そう思った。
「足、大丈夫なの?」
矢が掠った足を見下ろす。
走りながら、袖を切って傷口を縛り付けていた。擦り傷だし、殆ど血は止まっている。歩くといくらか痛むが、支障を来たすことはないだろう。そういうことを告げると、玲姜は全身から空気が抜けたように脱力した。
そして。
「ふひ」
唐突に、白い喉から、息が抜けるような音がした。ひ、ひひ、と不気味に頬が痙攣している。やがてそれは、堪えきれないとばかりに高らかな笑声へと変わった。
「ざまぁみろ! あの──で、──の、───野郎‼︎」
「うるさい」
そういう麟の口元も、つられて決壊寸前だ。今にも快哉が溢れてしまいそうだった。
いや。
「、ふ」
やっぱり無理だった。一度だけ後ろを向いて、追手の影がないことを確認して。「ふ、ふふふふ」
麟も決壊した。
一度溢れたらもう止まらない。腹筋が悲鳴を上げるまで笑い転げて、最後は引き攣るような呼吸音だけが夜に紛れた。
そうしてようやく、危機を脱した安堵が、疲労となって全身に溶け出した。
「寝ようか」
「うん」
そのままごろりと転がる。視界一面に星界が映り込んだ。
玲姜が、擦り寄るように腕を絡めてくる。河辺で微睡む初夏の夜は、やはり少し肌寒い。麻布だけを挟んで伝わる柔らかな体温がくすぐったくて、けれどありがたかった。草いきれと汗の匂いに混じって、桃のような体臭が香る。
やがて、二の腕に乗った小さな頭から、寝息が聞こえた。
寄り添う側も、寄り添われる側も温かいのだ。そういう当たり前のことに、今更気づいた気がした。
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