第6話 戦火
地を揺らすような轟音が迫る中、穹廬では、母が金切り声を上げながら身の回りのものを背嚢に詰め込んでいた。
乳飲み子の弟が、わあわあと泣き叫んでいた。
麟も、夢中で母の手伝いをした。頭の中の冷静な部分が警鐘を鳴らしてはいたけれど、まとも思考はできなかった。
何か手を動かしていなければ、恐怖に狂ってしまいそうだった。
ガラガラと音を立てる何かが地面を揺らす振動と、鬨の声が、どんどんと近づいてくる。
耐えきれず、穹廬の窓から外を覗いた。
思わず声が漏れた。
左右に大きな車輪が付いた台座を、二頭の馬が曵いている。台座には、三人の男が乗っていた。馬に結び付けられた手綱を操る御者と、矛の刃先を横に倒したような長物───戈を持つ兵と、弓を持つ兵だ。弓兵だけ少し位が高いのか、兜を被っていたり、革の具足を付けている者もいる。
まるで巨大な獣のようだ、と思った。
それが地平の彼方まで幾十、いや幾百乗も並んで、只管に駆けている。
───来る。
数乗の戦車(という名を知ったのも、大分後のことだ)が、集団から外れて、麟たちが住む穹廬へと向かって来ていた。咄嗟に、父に貰った剣を腰に括り付けた。震える指先で、どうにか革紐を結ぶ。
「母さん、敵が来る」
分かっている、と母が叫んだ。振り返った両目は血走っていた。びくりと身体が震えた。
馬の嘶く声が聞こえた。麟の家の馬ではなかった。それならば声で分かる。
穹廬の扉が、蹴破られた。
三人の男が立っていた。
母が何かを叫びながら駆け寄り、両膝を突いて地に臥した。頭の後ろで手を組み合わせている。赦しを乞う姿だった。情けないとは思わなかった。
思う間も、無かった。
三人の男が顔を見合わせ、何か言葉を交わした後、一人が哄笑しながら母の背に戈の先端を押し込んだ。屠殺される羊みたいな悲鳴を上げて、母は崩れ落ちた。毛織の服に血が染み出し、血が香った。
恐怖が連鎖したように、弟の泣き声が激しくなった。その柔らかな腹には、青銅の剣がねじ込まれた。
麟は座り込んだまま、呆然とそれを見ていた。
腰の剣を抜くことさえ出来なかった。
男の一人が、無造作に麟の腕を掴んだ。口元がにやついている。強い力で腕を引かれて、外へ引立てられた。汚れた男の袖から、鼻の曲がりそうな悪臭がした。
外には幾人もの斉兵たちがいて、家族の財産である羊や馬を検分していた。
麟の姿を見つけると、好奇の視線が集中した。腕を掴んでいた男が、服の襟に短刀を差し込もうとする。
───辱められるのかな。
男の太い指が、頸筋の薄い皮膚を撫でた。伸びた爪と皮膚の間に、土とも垢ともつかない汚れが挟まっている。生々しい嫌悪に、目が潤んだ。
滲んだ視界の端に、栗毛の弟が見えた。
見知らぬ男が、鈍重な仕草でその背中に跨がった。弟は、馬体を震わせて男を振り落とそうとした。
男が癇癪を起こして、鬣を乱暴に引きむしった。嘶きが聞こえた。紛れもない悲鳴だった。
そのときだった。
身体の奥で何かが切れる音がして、麟の視界が真っ赤に染まった。どくん、と心臓が脈打つ音が聞こえる。
どくん、どくん。
───嗚呼。
狼の血が、全身を駆け巡っている。
右手が、佩剣の柄に触れた。鈍く光る刀身は、驚くほどするりと鞘から放たれた。
耳の奥で、轟々と血の流れる音がした。
五人、殺した。
そこで力尽きた。
男たちが、麟を遠巻きに囲んでいる。
どの顔にも畏れがあった。いい気味だと思った。
でも、ここまでだ。麟は目を伏せる。
首筋を掠めるように、二本の刃が交差していた。
───まあ、いいか。
───母と弟たちの敵は討てたし。
目を閉じて、
「───、──」
両膝を突いた麟の耳に、よく通る、涼やかな声が届いた。
中原の言葉は理解できない。ただ、こちらを囲む男たちの中で唯一銅の兜を被った隊長格の男が、弾かれたように背後を振り返って、その場に平伏した。
顎を持ち上げて前を見た。
水色の空一面を背負うようにして、緋色の長袍を風にたなびかせた壮年の男が、白馬に乗っていた。
長く伸びた顎髭と痩せた頬。落ち着き払った態度に反して、落ち窪んだ眼窩に嵌った目玉だけが、ぎょろぎょろと忙しない。
側に控える騎兵たちは皆、麟を囲む兵とは比べ物にならないほど上等な革鎧を纏い、柄頭に翠玉をあしらった宝剣を佩いている。随伴の歩兵が、紫の旗を掲げていた。
平伏した隊長格が、胴間声を響かせた。
歩兵たちが、稲妻に打たれたかのように、我先にと長物を置いて両膝を突く。立っているのは、麟の首元に戈を突きつけている二人だけになった。その二人も、あまりの緊張に刃先が震えていた。
直感が告げていた。
こいつが首長か。
この白馬の男が、地平の果てまで続くようなこの群れの長なのか。
「───、───!」
白馬の男が、背後に向かって叫ぶ。騎兵が一人進み出た。
「──、──?」
「胡人の娘よ。名前は?」
男が話す言葉を聞いた騎兵が、麟と同じ言語で語りかけてきた。騎兵が、中原の言葉を通訳しているのだと気づいて、背中に虫が這うような不快感を覚える。
草原の民が、斉に手を貸しているのか。
二度、同じ問いを繰り返された。三度問われ、なんだか投げやりにな気分になって、吐き捨てるように名を口にした。
「─Li、Li─」
それを聞いた白馬の男が、発音を真似ようと何度か試して、そのうち首を振った。
「──、───、────」
独り言のようにぼやく。騎兵が、律儀にそのぼやきを訳した。
「その音は、中原の民には発音し辛い。そうだな、音が似ていて縁起の良い文字となると───」
「麟」
男が指を立てて言い、騎兵が訳した。
───お前は今日から麟と名乗れ。生きる意志があるなら、拾ってやる。
そうして麟の師父となる男は、呵呵と笑った。
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