第18話 船医と撃癒師

「遅い」


 船医室の重い扉を開いたら、待っていたのはその一言だった。

 窓が破損し、浸水した際には防水扉としての機能を果たすその扉は、普通のそれよりも断然、重い。

 そしてかけられた第一声はもっと重かった。


「あ、いえ。その、手伝いに……」

「聞いている。宮廷治癒師殿」


 迎えた相手は聞いていた通りの女性。

 燃えるような赤毛と挑戦的な緑の瞳が印象的な、まだ年若い少女だった。


 錆色のワンピースを着ており、その上から船医らしく白い僧侶が首から掛けるようなたすきをかけている。

 一目で彼女が船医だとわかる証だった。


 カールよりも上。しかし、サティナよりは年下といったところか。

 猛犬のような気もするが、何かの動物に似ている。


 それが眉尻の下がり具合からもアライグマにそっくりだと気づき、カールの頬は失礼だと分かっていても緩んでいた。


「あ、はい。カール・アルダセン……宮廷撃癒師です」

「撃癒? 治癒ではなくですか」


 治癒に限らず、魔法の最高位に位置するスキルの一つ撃癒。


 それは、聖女が使う神聖魔法並みの回復力や怪我の完治を促す。

 あらゆる病魔を根絶し、撃破し、死者の魂すらも死神から取り返す。


 殴ってなんでも解決する殴打治療の最高峰だ。 

 医術に携わる者ならその名を知らない者はいない。


 船医が訝しむのも無理はなかった。


「撃癒です。これを」

「本当だ……!」


 身分を示す、銀環を見せる。

 宮廷魔導師の証でもあるそれは、カールの若さに見合わない、渋みのある光沢を放っていた。

 船医は二度ほど、カールとそれの間に視線を彷徨わせる。


「そちらは?」

「申し遅れました。あたしはローザ。ローザ・マリオッドと申します。アルダセン様」


 身分を明かすと人の態度はころっと変わる。

 それはローザと名乗った赤髪の彼女も例外ではなかった。


 腰かけていた椅子から立ち上がる彼女は、カールよりも頭一つほど上に視線が合った。

 サティナよりは低い。


 なんとなく銀髪の新妻が頭に浮かんで、カールはそれを大事に胸に仕舞いこんだ。

 ローザは片膝を曲げ、着ていたワンピースの裾を両手でそっと抑えた。


 両足が広がっているから、その裾はふんわりと持ち上げたように見える。

 貴族女性の所作だった。


「ようこそ、当船へ。船医を仰せつかっております。お見知りおきくださいませ」

「こちらこそ、よろしく。マリオッド医師」

「どうか、ローザ、と。マリオッドなどともったいないお言葉です」


 貴族の作法をする割に、爵位の名乗りを上げないのは、そういう身分ではないからだろう。

 それ相応の教育を受けなければ、医師の国家資格には受からない。

 教養ある女性、というところが彼女に対するカールの評価だった。


 医務室は他の部屋より広く、甲板をくり抜いてガラスの天窓がいくつも設えれている。

 そこに白いカーテンを垂らし、採光としているようだった。


 ぐるりっと見渡しただけでも、奥行きは広く、長方形の部屋の両際にはベッドが床に固定されている。

 その数は片側だけで、五つほどあった。


 どれにも呻く人々が横たえられていて、いま治療の真っ只中という雰囲気に溢れている。

 その合間をせわし気に行き交うローザと同じようなたすきをかけた女性が四人。

 黒い侍女のような恰好をしていて、看護をする者たちだと察しがついた。


「……満床ですね。どこから手伝えば」

「どれも軽傷です。看護師たちに任せておけばよいかと」

「でも――」


 寝ているのは皆、高級そうな衣服に身を包んだ人々ばかりだ。


「外に重症患者がまだまだいるのです。しかし……」


 ここには貴族の方々しか来れないのだとカールは悟る。

 ローザにしてみれば、軽傷の彼らの世話など、簡単な回復魔法や治癒術を扱える看護師たちで事足りるのだ。


 それよりも重症患者が部屋の外に待っているのに、助けに行けない悔しさを噛み締めているように、カールには思えた。


「そこの椅子をしばらくお借りしていれば、良いですか」


 カールの意図を読み取ったのか、ローザがはっと顔を上げる。

 期待が籠った目が向けられていた。


「お願いできますか!」

「もちろん、ああそれと彼女たちも連れていっていただいて、構わないですよ」

「いや、しかし。それでは患者が……」


 不満を、と小さく他には聞こえないような声でローザはぼやく。

 ベッドの上で、貴族たちは小間使い代わりに看護師をこき使っているのだろう。

 苛立ちの原因はそこか、とカールは天を仰いだ。


 本来ならば、こういった不測の事態には、貴族が率先して事に当たり、場の解決をはからないといけないのに。

 怠慢にもほどがある。傷や怪我から来る痛みによる不満があるのは理解できるけれど。


「いいです。僕が許可します。宮廷治癒師の最高位、撃癒師が保証します。問題ありますか」

「いえ、いいえ! とんでもない!」


 感謝します! と叫ぶとローザは部下の看護師たちを統率して、医務室を後にする。


「おい、待て! どこに行こうというんだ、わしらの治療をほっておいて! こら!」

「貴様、船医の分際で自分勝手に行動しおって! お前たちは我らの治療に専念すればいいのだ、おい、待て!」


 出て行った彼女たちを呼び止める貴族もいたが、カールは冷ややかに見下しながらその枕元に立った。


「医務室では静かに願いたいですね」

「何だ、貴様! 子供は引っ込んでろ!」

「おやおや。子供ですが、一応、治癒師でもありまして。さて、誰から殴打治療を受けたいですか?」

「治癒師? そんな年端も行かない年齢で治癒だと? 笑わせるな!」

「いえ、これでも正当な宮廷治癒師なんですよ?」


 そう言い、カールは腕の銀環を差し出した。

 先頭のベットに寝転がっていた中年が、それを訝し気に見、読み上げる。


「宮廷……撃癒……師? あの撃癒か! なんでも治すと噂の」

「おお、そんな偉大なる治癒師がこんな若輩者とは!」

「いや待て、聞いたことがある。確か史上最年少で治癒師になりあがった者が、撃癒を極めた、と」


 噂の一人歩きは怖い。

 しかしこの時、そのひとり歩きが役立ってくれた。


 人々は色めき立ち、それまで不遜なことを発言する少年を侮蔑を込めた目で見ていたのに。

 今度はいきなり、色眼鏡でカールの事見始めた。


「いやいやそれならもっと早く言ってくれたらこんな失礼な物言いをしなかったものを」

「僕言いましたけどね」

「なあすごいじゃないかそんな高名な医師がここにいてくれるなんて。まさしく神の導きだ」

「神が望まれたかどうかは別として、あなた達の治療は僕が引き受けますよ」


 爽やかにカールは告げた。

 人々はもう安心だと顔をほころばせる。

 そこには何の不安もないように見えた。


「それでは誰から殴ってきましょうか」

「え……? 何を言ってるんだ」

「殴るなんてお前、破壊するんじゃないんだぞ。治療するんだぞ?」

「大丈夫ですよ。撃癒ですから。殴って治す治療ですから。安心して気を失ってください」


 不気味を通り越して、爽やかな笑顔でカールは魔力込めた拳を、患者たちの患部へと振り下ろす。

 やがて、医務室には殴打治療で怪我や傷を癒された患者たちの悲鳴が轟いた。

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