第13話 撃癒師、黒狼と出会う

「駄目よ。出て行ったら危ないでしょう」


 母親らしき人物が子供に声をかけて窘める。

 だが、どこか強めに言えないような印象だ。もしかしたら、主人の娘と侍女、とか。そういう関係かもしれない。


「えーっ、だって! あんなの初めて見るよ! もっと見たい!」

「駄目です、イライザ」


 子供は注意などどこ吹く風と受け流し、甲板の縁から身を乗り出して、危なっかしい。

 イライザ、とその名を呼び注意した女性もまた、黒い尾に黑い耳をしている。同族には違いないようだ。


「わーっ! すっごい。大きいよ、ねえ見て。ケリーも! ほら、船よりも大きいくらい長いよっ」

「イライザ! そこから降りなさい。怒りますよ」


 子供は六歳ほどで白いワンピースを着ていて、それが黒髪や尾によく映えている。

 胸元で締めるタイプのもので、そこに赤いリボンが大きく付いてた。


 ケリーと呼ばれた方は袂が大きくふんわりと作られた若草色のワンピースを着ている。


 歳の頃はサティナと同じくらいに見えるが、獣人は一定年齢まで成長すると老けることがないから、そこは推し量れない。

 こちらは黒の花飾りを刺繍として胸元を飾っていた。


 身なりからすれば裕福な商人の若妻とその娘というところか。

 黒狼族は計算が得意で、数字に強いと聞く。カールの務める宮廷でも、算術師として幾人かを王子たちの教育係に雇うほどだった。


 そして、二人して紅色の鮮やかなベルベッドの耳被りを、それぞれどちらか片方の耳に被せていた。

 獣耳カバーと表すれば分かりやすいかもしれない。


 金糸がふんだんなく使われた刺繍の縁取りは、遠目にも見事なものだ。

 そこから銀鎖で繋がれた小指大の宝石が幾つもシャラシャラと音を立てている。

 陽光を反射して甲板にきらめきを発するそれは、たぶん、水中からもいい目印になったのだろう。


「イライザ! いけません!」

「わっ、いきなり引っ張らないでよ、ケリー! 危ないでしょう」


 甲板から半分以上、身を乗り出していた少女をどうにか引き戻したケリーは、生まれて初めて、それを目にすることになる。


「――っ。いけない」


 魔力の波動が急激に増した。

 ケリーとイライザの耳飾りを珍しいそうにじっと目で追っていたサティナから二人に目を戻すと、カールは叫んだ。


「え?」


 その意味が分からず、サティナはカールの方を見やる。

 河の中で集約された魔力が瞬間的に膨れ上がると、強い作用とともに爆発的な推進力を、それに与えていた。


 魔力の余波がとめどなく押し寄せる。

 しかし、甲板にてその異変に気付いたのはカールだけだろう。

 端から端まで約十メートル近く。


 駆け寄り、二人をもっと甲板の中央に引き寄せるより、魔法の方が早い、とカールの脳裏は告げていた。

 詠唱をしている時間が惜しい。


 修行時代に何万回と肉体に叩きこんだ動作が、無詠唱魔法の発動を可能とさせる、魔力紋章を空中に描き出す。

 瞬きよりもはやく、数個の円にしか見えない紫色に光る紋章を描き終えたカールはただ小さく「招来」とだけ叫んだ。


 それは彼が知覚できる船の周り、甲板で状況を理解していない人々を、一気に中央のマスト付近へと転送させる。

 サティナは空気ごと何かに吸い込まれる感触に襲われた。


「はっ? ……ェェえ―ーいったっ!」


 カールと共にいたサティナもそれにより、空間移動をさせられた一人だった。

 自分が座っていたはずの椅子が消え失せ、重力の支配から逃れて一瞬だけ中空に制止した後、ころんっと甲板の上で後ろに転んでしたたかに、お尻を打つ。


「うぐぐぐっ……酷いです、カール? カール!」


 どすんっと落ちた自分の重さが、なんとなく恨めしく感じる物音だった。

 それにしかめっ面をしたサティナは、さっきまでそこにいたカールを視線で探す。

 だが、彼の姿は見えないでいた。


 いるのは、同じように転送されてきた、周りの人たちだ。

 いきなりの転送。そして、船を襲った強い衝撃に、まるでボールが転がるようにころんころんと彼らは前に後ろに左右にと転がっていた。

 人が面白いように転がってる。


 サティナは一度だけ後転すると、その鍛え抜いたバランス感覚で、さっと立ち上がる。

 そして、ようやく欲しいものを見つけた。


「旦那様!」


 彼はあの場所にいた。ついさっきまで自分達が食事をしていたあのテーブルに。

 そこにしゃがみこみ、何かから庇うようにして胸の中に誰かを両手で抱いている。

 二本の黒い尾に、見かけた顔が二つ。


 それはあの黒狼の女の子と注意を呼び掛けていた女性だった。

 数メートルもない距離を一気に飛ばされたのだ、とサティナは理解した。


 周りにいる人々も同じように、彼が引き寄せたはず。

 人々の後ろには甲板に数か所ある、船内への入り口が開いていた。


「サティナ! 先に中へ!」


 カールがそう叫んだときだ。

 ッズズズゥウウゥ……と河が唸るような音を立てて、黒い影が陽光を遮った。

 いきなりの夜の訪れは、人々の混乱を誘うのに十分だった。


 悲鳴が上がる、泣き出す子供に、大人までわー、キャー叫んで船の中に続く入り口を目指した。

 内側からは最上階に待機していた水夫たちが外を目指し、外からは本能的な恐怖に駆られて船内に逃げ込みたい人たちが殺到する。


 混乱した時の集団心理というものは恐ろしいもので、弱いものは蹴飛ばし踏みつけて彼らは自分の欲求を満たそうとしていた。

 甲板にいた船員たちが、人々を落ち着かせようと声を張り上げる。


「静かに落ち着いて! 大丈夫ですこの船には欠陥がありますから問題ありません! どうか落ち着いて静かになさってください!」


 警笛が三度ならされた。

 ボウっーと腹の底に沈むような重たさは、色めき立った人々の心をあっさりと抑え込む。

 ヒステリックに犯されていた人々ははっと我に返った。


「大丈夫です安心して! もう大丈夫です。我々があなた達に安全な航海を約束します。どうか落ち着いて船内に戻ってください」


 それでも一部の人々は中に強引に割り込もうとするが、やってきた武器を持つ水夫を見て、いそぎ大人しくなった。

 サティナはカールの方が心配になり、彼に駆け寄りたい気分だった。


 それにあの二人。なんで抱きしめているのよ、とどこか嫉妬めいた感情も心に沸き上がる。

 距離にして数メートル。船は大きく傾いてそちらに流されそうになったものの、山奥で育ったサティナには、傾斜はあまり意味をなさなかった。


 甲板に突き出ている突起物を、断崖絶壁の岩壁を登る時と同じ要領で、さっ、さっと支点にして、飛び石を渡るような身軽さであっという間にカールとの距離を詰めてしまう。


 今度は撃癒師が驚きで目を丸くする番だった。


「これは一体どういうことでしょうか?」


 と、ちょっと嫌味を込めて半目になり、問うてみる。

 カールは頬を引く付かせて「危なかったから」とだけ答えた。


 二人の合間に気まずい空気が流れる。

 その時には、揺り戻しは終わっていて、獣耳を伏せ、目を瞑ってカールの腕の中に揺さぶりに耐えていた二人の獣人が、申し訳なさそうにこちらを見上げていた。


「これはどういう……?」

「川から何か浮いて来そうだったから。魔法でつい――」


 そう説明すると、二人は周りを見渡して納得したようだった。

 目の前にある巨大な黒い壁に絶句するも、カールとサティナの微妙な空気が勝ったらしい。


「あのーお兄ちゃん。出ていい……?」

「すっ、すいません! この子ったら!」


 ケリーは謝罪しながら、イライザを立たせると、さっとカールの横に立った。

 そこに甲板に整列した水夫長の声が響く。


「乗客を安全に素早く船室に案内しろ! 武器を持てるものは武器をもって甲板に立て。アリゲーター狩りだ!」


 ライフルよりもう少し大きいもの。どちらかといえば先をゴテゴテと魔石で飾り立てたそれは、神官が持つ錫杖のようでもあったし、魔法使いが使うねじれた棍棒の先に魔石を取り付けたような、そんなものにも見えた。


 一人だけ襟の色が違う水夫は、上級の現場責任者なのだろう。それを合図に、十数人の水夫たちはその杖を手にしたまま、船の甲板へと向かいそれぞれに走り出した。


「アリゲーター?」

「ヘイステス・アリゲーター……この川に住む魔獣の一種ですわ」


 体長数メートルのものが最大だと聞いている、とサティナは零す。

 船のマストを超えるぐらい巨大なそれを見るのは、地元民のサティナでも初めての体験らしい。


 それは蛇のような胴体に四本の短い脚が付いていて、たまに後ろ足で立ち二足歩行をする種もいるのだという。

 長い尻尾でバランスをとりながら短いらして川底に立ち、同じく短い手で船体に触れようと頑張っている巨大なワニ。


 それはどことなく不気味でどことなくシュールな光景だった。

 

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