第2話 撃癒師、ドラゴンと対決する

 幾度目かの咆哮が放たれた。

 人の耳で捉えることのできる音域を遠く離れたそれは、地震のような地響きと大気の振動を伴って訪れる。

 その効果が届く範囲に生息する、ありとあらゆる生きとし生けるモノを消滅させてしまいたい。


 そんな狂ったような意思が具現化した恐ろしい衝撃は、その破壊力でカールの張った結界をあっさりと消滅させてしまう。

 しかし、穴倉の入り口を閉ざす冬の猛獣からも貯蔵物を守り抜くための分厚い木材の扉は、結界のおかげか破壊されることはなかった。


 薄くひび割れたかもしれないけれども、カールの存在がドラゴンにバレるまでには至らなかった。

 哀れな被害者たちを、その炎で焼き尽くされた犠牲者たちを見捨ててでも、カールは生き抜けるチャンスに恵まれていた。


 ……炎が天高く大気を誘い、呼び寄せられた雷雲がそれを冷やし、土砂を巻き上げた竜巻が河川を逆流させて、風向きを変えるまでは。

 カールはその場を動かなくて済んだのだ。


 異変に気付いたのはそれからすぐだった。

 ドラゴンの唸り声が雷雨と見分けのつかなくなるような土砂降りの雨の中、バサリ、バサリと不穏な羽音がしたからだ。


「――っ?」


 それは人家ほどの背丈を持つドラゴンの動かした翼の音だった。

 コウモリの羽のように薄くべったい羽が巨体を宙へと浮き上がらせる。

 見た目は鈍重なそれは見かけによらず軽快な動きで、空を目指そうとしていた。

 穴倉の扉の隙間から外界を恐る恐る伺っていたカールは、オレンジと灰色と薄い墨色の世界の狭間に揺れ動く巨体を目にしてしまう。


 視界の果てにあったはずのそれは、数回、天に弧を描くようにして旋回すると、自分の破壊した成果に満足したのか勝利の雄たけびを上げる。

 耳の鼓膜を犯し、脳まで至るその恐怖の響きは、カールの心に畏怖を植え付けるには十分だった。


 足がカタカタとすくみ、震えの止まらない全身を抱きしめるようにして、少年は暴虐の黒い塊に見つからないように必死に声を押し殺す。

 胸の奥底から例えようのない恐怖の塊が湧いて出た。

 喉の奥を圧迫し全身の毛穴という毛穴から脂汗が噴き出る。

 左腕の銀環を右手でつかみ、その二の腕にかみつく自分がいた。


 恐怖が痛みを忘れさせる。そうでもしなければ、発狂してこの場から走り出してしまいそうだった。

 大声で悲鳴を上げ、ドラゴンとは反対の方向にある西の山裾へと、助けを求めたことだろう。

 しかしそれはできない相談だった。

 カールは、そこに住む誰かを知っていたからだ。


 こんな不燃で辺鄙な場所に住む誰か。

 年老いた母親と、まだ若くも自分よりは年上の少女。

 母親は老齢に達していて満足に身動きをすることもできないような、そんな病気に犯されていた。

 少女に懇願され街で出会ったあの男に頼み込まれ本来ならば引き受けるはずのない仕事を引き受けてしまった。


 たった銀貨二枚。

 今回の治療に必要となる金額はその程度のもの。

 だがあの貧乏暮らしの母娘には、そんなはした金すらも大金になってしまう。


 無償の治療。訪ねてきた時にたまたま口にした一杯の水。

 移動で乾いた喉を潤したその一杯が、支払われた治療費に当たるといえば、そうなのかもしれない。


 ――僕の不手際で、あの母娘を犠牲にするわけにはいかない。


 そう思い、恐怖に必死に耐えた。

 耐えながら扉の隙間から外の世界を眺めた。

 天空から飽きる事なく地上に向けて放出されるドラゴンブレスは、人家がない地域とはいえ畑に出ていた農夫や街道を往く旅人たち、河を船で行き交う人々や漁師たちに遠慮なく降り注がれる。


 目の前に見える景色の中で、動くものはもはや、煙と雷とドラゴンの影だけになってしまっていた。

 そしてカールは気づいてしまう。

 その黒い影がたったひとつの点だったそれが、やがてゆっくり大きな物体となり、こちらに向かってやってくることに。


 気づいてしまったのだ。


「僕……を?」


 まさかそんなはずはない。

 気づかれたはずがない。この場所をあのドラゴンが知り得るはずがない。

 確証のない希望的な観測が空虚な心の中に踊り狂う。


 おかしな考えばかりが飛び出して自分の頭がとうとうおかしくなってしまったかと悲しくなる。

 生きて家に帰りたいと切実に願った時とめどなく溢れ出る涙で霞んだ視界の向こうに、肉眼でもはっきりと視認できるほどに大きくドラゴンの巨体が迫った時。


 カールは死を意識した。

 そして考えなくてもいいはずなのに彼の心は余計な一つのことを思い出していた。

 そう。あの母娘のことだ。

 ドラゴンの影が向かう方角の先にあるのは、多分……。


「大変だ……」


 治癒師としての本能がそうさせたのか、それとも、武術家としての血がその現実を見過ごさなかったのかもしれない。

 くだらない義侠心が、それまで目の前に行った仲間たちを見捨てていた臆病な心が、ほんの少しの誰かを救うことによって自分も救われたいと考えてそうさせたのかもしれない。


 迷える者を救え。

 病める者を癒せ。

 あらゆる病魔をその拳で打ち滅ぼせ。


 撃癒師になるために費やした十年の時間が、争いから逃げ出したいと願い戦うことを諦めた少年の心に、再び火を点す。

 小さく砕け散ったはずの勇気が、無辜の民を救うために、いま甦る。


 恐怖から逃れるためには切れていた涙は、熱い感情の奔流となって少年の頬を伝い落ちる。

 あの影がこの丘を越える前に――。


 あまりにも深く神すぎてハートのついた右手から口を離すと、そっと扉を押す。

 ギィっと軋んだ音出して荒れ狂う暴風が少年の全身に弾丸のような雨粒を叩きつけた。


 一撃で。

 肉体に駆け巡る恐怖を強い心の力で押し殺す。

 押さえつけねじ伏せて、少年は足を踏み出した。

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