親子の家 43

干してある下着を盗むという行為自体が理人には効果があった。

 下着に性的な興奮を覚えたことはない。盗んできた下着は娘が遊園地のお土産に買ってきたチョコクランチの缶の中に詰め込まれ、見つかりにくい場所に放置してあるだけだ。

 盗んではいけないものを盗むという背徳感とスリルが、その瞬間に脳みそに莫大な快感を生むことに気がついた。すぐにやめられなくなった。

 結婚生活が始まってから、理人の生活はさらに窮屈になったからだ。

 智美の年収に追い付かない自分の収入。それを智美が何も言わないことが逆に嫌だった。最初は魁人の当てつけに、自分の箔付けにと結婚した女が、まったく自分と同じ算段で自分を選んだのだとわかってしまった瞬間、理人の自尊心は砕け散った。

 しかも、智美は地位ある夫として自分を選んでくれたのではない。

 夫がいて。計画的な子作りと育児ができる自分の演出のために結婚したに過ぎないのだ。子どもが産まれて、妻からの言葉のない当たりは強くなった。

 長女の智恵の、努力家のわりに成果が出ない傾向は理人の血のせいだと言われているようだった。理恵の癇癪と我の強さもだ。智美は口には出さない。でもわかるのだ。

 会社帰りに、不用心な家に忍び込むのが日課になった。戦利品は増えていった。


 だから仕方ない。仕方ないんだよ。

 上品な家具が並ぶリビング。無造作に吊るされたブラジャーとショーツ。

 ここは、長谷の家だ。

 長谷はキッチンでお茶をいれている。

 理人は高価そうなショーツをポケットに詰め込んだ。

 仕方ない。仕方ないんだよ。あんな家で育ったから、こうなっちゃったんだ。

 あんな嫁と結婚したから、こんなことになっちゃったんだ。


 頭が半分なくなった亮子が、理人を見下ろしていた。

 頭の中身は床にぶちまけられている。

 理人の足の間を、生暖かくて臭気のある液体が濡らした。失禁したのだ。

 ――あたし、本当に知らなかったんですよ……。

 耳元で声がする。

「だって、あんなに思わせぶりなこと言ってたじゃないか……」

 ――知らなかった。あたし、知らなかった。あなたがしたことなんて、なにも。

 亮子は、床に飛び散った自分の肉片を両手ですくい上げた。

 手の上で、生臭い臭いを放つそれを、亮子は理人の口元に近づける。


 ベランダの件があった翌日から、亮子の視線が気になったのは事実だ。

 あれから急に亮子は挨拶してくるようになった。

 廊下ですれ違った時に、「大変ですね」と言ったではないか。

 なんだよ。大変ですねって。こいつ、知ってるのか。

 不安が広がるのは一瞬だった。

 盗むときのスリルは、その後新しい精神的負荷に切り替わる。

 バレるのではないか。ことが露見したら、待っているのは社会的な死だ。

 もう智美も助けてはくれないだろう。

 そう思うのに、手は止まらなかった。

 下着を手にした瞬間、智美が何とかしてくれるだろうという甘い期待が胸を覆ってしまう。やめられない。やめようと思うと、それを凌駕する現実の苦痛が理人を責めさいなむ。

 だから、理人の苦痛はいつまでも終わらない。

 すぐに亮子に勘づかれたことを智美に相談した。娘の受験が迫っているのだ。今なら最悪のことになることはない。それに。こいつには金がある。また示談金なりを用意してもらえばいいと思った。思ってしまった。

「追い出せばいいじゃない」

 話し合いの最後に、智美は言った。

「マンションから追い出す方が早いわよ。大丈夫。みんなあの女のことよく思ってないんだから、ちょっとつつけば追い出せる。4階の水橋さんをうまく使うから、あなたは何もしないで」

 合理的で、冷血な女だ。

 こんな女と結婚したから、僕は……。


「そのようにおっしゃいますが、日下部さん。あなたは随分奥様のことを信頼しているように見えますね」

 ここは……、ああ、ここは心療内科のカウンセリング室だ。

 淡いクリーム色の壁。小さな窓、理人と向き合った、中年の男。

 今は、長谷の件の後に通うことになった、いや智美に通わされたメンタルクリニックでのカウンセリング中だった。

 最初は「大変でしたね」「お辛いですね」と聞いてくれたカウンセラーは、数回続いた後にだんだんと意地が悪くなってきた。

 どうして僕が悪いと言ってくるのだろうか。

 こいつ、心の専門家のくせに、なんで人を傷つけるようなことを言うんだ。

 もっと僕を労えよ。もっと僕のことをわかってくれよ。

 僕のことをこんなにした親を、弟を、嫁を、悪いって言ってくれよ。


「もう、お腹いっぱい」

 智恵の声がした。

 理人はまた辺りを見回した。

 そうだ、ここは、家の食卓だ。

 IKEAで買った無垢のダイニングテーブルの上に、作り立ての料理が並んでいる。

 テーブルを囲んで、娘の智恵と理恵と一緒に食事をしているのだった。

 智恵の皿には半分以上料理が残っていた。

 ひき肉を煮込んで作ったソースのスパゲティ・ボロネーゼ。

 智恵は料理を食べない。

 理人は気が付いていた。智恵は、理人がやったことに気が付いている。

 智美が話したのだろう。この子は智美にそっくりだ。

 でも、智恵は子どもだから支配できる。

 智美に似た面差しのこの子の顔が歪むのを見るのがこんなに愉快だとは思わなかった。

「お父さん、頑張って作ったんだけどなあ」

 食べなさい。食べなさい。食えと言っているんだ。

 言葉の中に呪詛を織り交ぜる。

「食べてくれないと、お父さん悲しいよ」

 智恵の表情が歪む。必死にフォークを動かして、食べ物を詰め込んでいく。

「そうだよ。お姉ちゃんはもっと食べたほうがいいよ」

 理恵が口の周りを真っ赤にして言った。

 この子は本当に可愛い。何にも気が付いていないし、僕を慕ってくれる。


 頭の中を過去が駆け巡っている。

 今はいつだろう。時間が溶けていく。

 ここは……。ここはマンションの廊下だ。

 時間は……。4時50分……。

 理人は廊下の壁に寄り掛かっていた。

 時刻を見ようとかざした左手と体の間に、真っ赤な頭の傷口を覗かせた亮子が割り込んだ。

 崩れた柔らかな肉片、それが鼻先へと突き付けられている。

「やめてくれ……」

 理人は懇願した。

 亮子は、恋人のように理人にぴたりと寄り添った。

 血で濡れた服が、ねっとりとした感触を伝えてくる。

 その下の体は、ひどく冷たかった。

 亮子は自分の肉片を両手で捧げ持っていた。

「やめて……」

 その意図に気が付いて、理人は悲鳴に近い声を上げた。

 開いた口に、肉片が押し込まれる。

 生臭い臭気、口の中に鉄の味が広がる。

 手の中のものを理人の口に押し込み終わると、亮子は削れた頭の傷口に手w突っ込んで中身を掻きだした。また、両手にこんもりと灰白色の何かが乗っている。

 食道を重く柔らかいものが滑り落ちていく。

 理人は何度もそれを吐きだそうとする。

 その前にまた口の中に肉片が差し込まれる。

 息ができない。鼻の方にまで生臭い肉の臭いが回っている。

 薄く桃色に色づいた涎が、顎を伝っている。

 ――ほら、残さないで。

 亮子が楽しそうに歌う。

 ――一生懸命作ったんだから。

 息ができない。理人は天井を見上げる。

 暗い闇の中だ。もう、何も見えない。


 ――まだ終わらないよ。



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