親子の家 35

これが今から8年前のことだ。

新たな暮らしが始まると、輝明は急に子どもを欲しがった。文香が、カウンセラーの資格が取れるまでは我慢してほしいというと、やはりあの子どものような目をした。捨てたりしないわよ。文香は慈愛を込めてほほ笑んだ。もう史花おかあさまはいないもの。あなたがお義母様の面影を見ることができるのは私だけ。

文香が離れていくのを恐れているのか、輝明は稼ぎのほとんどを文香に渡していた。

家は予定より手狭になったが、文香の未来は明るかった。文香は家を整えた。美しい家具を、上質な食器を、リネンを。文字通り、家は家族のよりどころだ。自然で上質なものが家族を整える。家を整え、空気を入れ替え、隅々まで美しくすることで、幸せな家族になるのだ。ひとつだけ輝明の実家から持ってきたものがあった。姑の使っていた鏡台だ。縞模様のような木目が美しい柿材の鏡台。その鏡をのぞくと、頑なだった姑が漏らした「ありがとう」が胸の中によみがえる。

所定の講習を終えるとポジティブウェルネス協会からカウンセラーの認定が下り、晴れて文香はカウンセラーとなった。アロマオイルや研修費でかなりの金額が飛んだが、些末なことだ。これから必要な年数の経験とカウンセリング実績があれば、エキスパートとして登録できる。初めて自分の手でつかんだものの重さに文香は酔いしれていた。

 1年して星矢が産まれた。協会が認定する施設での水中出産だった。暖かい水の中で、陣痛と痛みに耐えて仰いだ天窓に輝く星の光が、この子の誕生を祝福していた。星矢という名はここからつけた。かわいい子だった。協会が発行する冊子の、自然分娩啓発の写真モデルとしても選ばれた。混合ワクチンが自閉症を誘発するから、ワクチンは打たなかった。代わりにアクアヒールを飲ませた。アクアヒールは万能である。ワクチンよりもずっとたくさんの病気から子どもを守ってくれる。おかげで星矢にはアレルギーもなかった。偏食もない。賢くて静かな子に育った。星矢が幼稚園に入ったので文香は自宅でのオンラインカウンセリングを始めた。

評判は上々だった。売り上げの半分を協会の維持費として納入するから、実入りは多いとは言えないが、自分の力で稼いだ金だ。事務よりもずっとやりがいがある。

 星矢の発音の異常に気が付いたのは、あの子が2歳になる頃だった。

幼稚園で吃音を指摘された。様々な香油を試したが、改善しない。しかたなく文香は3歳になるときに市が運営する幼児のための言語教室へ通った。子どもが指導を受けている様子を親はマジックミラー越しに見ることができた。

そこには、明らかに知的障害があると思しき子もいた。椅子に座れず、教具を投げて暴れまわったり、だらしなく涎を垂らして寝転がる子も。

これと同じだっていうの?星矢が?私が自然にお腹を痛めて、それからも細心の注意を払って育ててきたこの子が?妊娠中はカフェインも取らなかった。毎日サプリを飲んだ。母乳で育てた。母乳の出が良くなるように、ハーブクリームでマッサージも欠かさなかった。食事だって気を使った。冷凍食品など食べさせたことも、スナック菓子も食べさせてない。それなのに。胸がざわついた。何らかの烙印を押された気がする。

 ああ、この人たちは協会の方法を知らないからだ。だからこんなに子どもが悪化してしまったんだ。それに気が付くとすぐに気持ちが切り替わった。うちは大丈夫。

 星矢は優しい子だった。だからこそ、ちゃんと喋れないのが不憫でもあった。幼児教室では遊びのようなことをやってばかりで、改善に繋がっている気がしない。指導員も素人に見える。メディカルハーブの知識もなければ、ヒーリングの手法も知らない。こんな人に星矢を預けていいんだろうか。苛立ちが募った。

幼児教室に通い出してから、星矢が乱暴なアニメに興味を持ったのも悩みの種だった。幼児教室では、ご褒美の時間と称してみんなでアニメを見る時間があった。そこでは、古い海外のアニメが上映され、子どもたちは食い入るようにスクリーンを見つめていた。猫とネズミがケンカをしている。殴りあったり、蹴りあったりしている。星矢は家で乱暴な言葉を使うようになった。見せないようにしていたヒーローが殴り合う朝の番組を見たがるようになった。おもちゃどうしを戦わせ、闘いごっこをするようになった。まだ4歳なのに。

 その日、文香が台所で夕飯の支度をしていると、人形を片手に持って走り回っていた星矢が足にぶつかった。あれだけリビングで遊べと言っていたのに。はずみで手元が狂い、指先に痛みが走った。

「ママ……」

星矢が茫然とこちらを見ていた。手の甲が生あたたかい。

指先から流れた血が、滴っていた。

「星矢ちゃんがいい子じゃないから、ママ痛い痛いになっちゃった」

何だ、こうすればよかったんだ。

星矢の顔が歪む。恐怖と、パニックと、絶望。

文香は血で濡れた指で星矢の顔を包み込んだ。星矢がびくりと震える。

ぬるりと化粧のように、星矢の顔に線が引かれる。赤い線は、すぐに赤茶色に乾いていく。

「星矢ちゃんがいい子にしてくれたら、痛い痛い治るんだけどな……」

星矢の喉がヒュっと鳴った。

目をいっぱいに見開いて、星矢は何度も震えながら頷いた。

 こうすればいい子になってくれる。文香はそれからもその方法を試した。

星矢は、どんどんいい子になっていった。

その星矢が変わってしまったのは、あの親子のせいだった。国分亮子と国分ありさ。

子どもを放置する親。星矢に残酷な遊びを教える子ども。

水橋から、星矢とありさが虫を殺して遊んでいると聞いた時には怒鳴り込んでやろうかと思った。だが、気が変わった。

あの親子は内外のエネルギーが狂っているのだ。だから子どもが障害児になる。

だから、ありさが星矢のおもちゃを壊した時にも過剰に反応しなかった。

救ってあげなければ。文香は毎日ポジティブウェルネス協会の冊子を送り続けた。

 苛立っていない。私は苛立ってなんていない。エネルギーが崩れてなんかない。輝明の会社が倒産したことにも、クレジットカードの引き落としがされる口座の金が尽きたことにも。下の兄が電車に飛び込んで死んだ連絡が来たことにも。兄が父を殺していることを触れ回る文書が誰かから届いていたことにも。その犯人が夫の浮気相手らしいことにも苛立っていない。だって、輝明はすぐに次の勤め先を見つけたし、今まで以上に家にたくさんお金を入れてくれるし、当面のお金は100万円も手に入ったし、星矢はあれからいい子になったし、ありさも亮子も死んだ。全部引き寄せの法則だ。私は、引き寄せたのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る