親子の家 30

あの時、それは一昨年の9月7日のことだった。

その日は理人が休みで、パソコンの調子が悪いという文香の家に様子を見に行っていた。

 ルーターの設定がおかしくなっていたみたいだよと言って、何事もないように理人は帰ってきた。その晩、文香から電話があった。

――部屋に干していた下着がなくなっている。

まさかと思った。冗談のつもりで理人に訊いて、夫の顔がみるみる血の気を失っていったときの、あの絶望感を智美は忘れていない。理人のポケットから、繊細なレースと刺繍に彩られたサルートのショーツが出てきた。さらに、夫は余罪も吐いた。

理人は通勤途中に干してある下着を盗んでいた。

盗った下着は、和室の畳の下に畳んで隠してあった。

大きさも柄も、素材もバラバラの下着。ショーツもキャミソールも、ブラジャーもガードルもあった。何かこだわりがあるというよりも、下着なら何でもいいと適当に選んだようなまとまりのなさ。

かつて、智美は下着泥棒が捕まったという報道を見るたび、ブルーシートの上に並べられた下着の映像を見るたびにその滑稽さに吹きだしてすらいた。高校時代、部室からユニフォームが盗まれた事件があった時も、バカなことと笑っていた。怖がって涙目になったり過剰に憤る同級生を見下てさえいた。下着など、単なる布切れだ。胸や陰部を隠すだけのもの。それを盗られたからなんだ。着ているものを脱がせられたでもないのに大げさな。

しかし、自分の夫が犯人だということは大きなショックだった。絶望はすぐに怒りに変わった。自分は智恵の中学受験と理恵の小学受験に走り回っているこんな大事な時期に。クソ野郎。だが、娘たちの受験という現実は、智美を冷静に戻しもした。今ここでこの男を叩きだして離婚すれば、私はシングルマザーだ。それはまずい。いくら偏見の目が薄れても、片親は世間体が悪いことに違いはないのだ。怒りを飲み込んだ。申し訳なさそうに何も言わずに俯いて、そのくせ目の奥で、自分は悪くない許してくれと懇願する男を許してやった。しかし、智美は条件を出した。ひとつめは、今の仕事をやめること。会社の生き返りで犯行を重ねていたなら、そこからバレる可能性がある。ふたつめは、次に発覚したら、その時は離婚だということ。理人は大人しく条件を呑んだ。もともとストレスチェックで引っかかっていたということもあり、すんなり休職できた。その間に、智美は動いた。長谷の家に謝罪に行った。

 文香は、意外にもすぐに理人を許した。いや、智美が持参した示談金がきいたのだ。形だけは断って見せながら、最後には懐に入れた。文香の夫が勤める文具メーカーの倒産を知っていたから、こうなることは予想できた。だが、文香の家を見た時だ。違和感がその時から付きまとい始めた。


これだけ整然と片づけられた美しい部屋に、文香はどうして下着を干していたのだろう。


理人から聞き出すと、下着は和室の鴨居にかかった角ハンガーに吊るしてあったという。この部屋に下着を?人が来るのをわかっていて?普通、下着を室内に干すときは浴室に吊るすものではないか?

この女、理人の悪癖を知っていたのではないか?


 ならば、これで終わらない。確信があった。金を渡してしまったのは迂闊だった。

目の前の細面の女は、取り繕ってはいるが、時々妙に育ちの悪い素振りを見せることがあった。

もしかして、この女、まだ私の家から金を集る気か。


 あれから文香が下着泥棒の件で日下部家をゆすることはなかった。

文香の夫も再就職が決まり、生活は安定しているようだ。文香だって、カウンセリングという収入源がある。見たところ、カウンセリングとは名ばかりのバカを相手にしたスピリチュアル商法のようだが。

たがら、もう終わったことだと思っていた。

昼間に電話があるまではそう思っていたのだ。


「少し時間がかかるみたい。でも直りそうですって。助かるわ」

文香だけがソファに戻ってきた。

内向きに丁寧にカールされたショートカット。

左耳には銀色のイヤーカフがきらめいている。

目の詰まったドルマンスリーブのニットはいかにも仕立てが良さそうで、生地には光沢があった。

どこもかしこも、金がかかっている。

「お茶、いれなおしましょうか」

「結構よ」

「そう?」

文香は僅かに首を傾けた。

ソファに星矢が寄ってくる。

文香は星矢の髪を優しく撫でた。

「そうそう。智美さんに聞きたいことがあったの。星矢にも小学校を受験させようと思って、いろいろ調べているんだけど」

既に用意してあったのだろう。文香は冊子の束を星矢から受け取った。小学校受験専門の幼児教室が作っているワークだ。それが何冊かテーブルに並べられる。

「私、何もわからないから本屋さんで目についたものを買って、星矢にやってもらったんだけど、どうかしら?見込みありそう?」

表紙にはしっかりした筆圧と運筆で、名前が書いてある。

「びっくりしたんだけど、お受験の問題って、クイズみたいなのね。わたしもっと算数とか国語みたいなものだと思ってたから、なんだか拍子抜けしちゃった。星矢も楽しんで解いてて、今日も丸々一冊解いちゃったのよ」

文香は得意げに喋り続ける。

智美は黙々とページをめくった。口だけではないのが癪に触る。どのページも正解だ。解答を見て答えたわけではないのだろう。思考の軌跡を辿れるような筆の迷いや消し跡があちこちにある。文香の言う通り、小学校受験の問題はパズルに近い。知能指数の高い子どもを選別するため、必然的に内容は推論を問うようなものが多くなる。そういえば娘の理恵はシーソー問題に苦戦していた。3種類の重さのものをそれぞれシーソーに乗せた時の、シーソーの傾きを問う問題。重さの関係を捉える必要があり、物事を俯瞰して考える力がまだ弱い子どもにとってはかなり難問である。理恵にも根気よく教えたが、理恵は感触を起こし、最後には問題集を破り捨てると押し入れに閉じこもった。智美の口の中に嫌な味の唾が溜まる。その問題も、星矢はほとんどノーミスだった。この子は頭がいい。そしてそれを文香もわかっている。わかっているからこそ、智美に言わせようとしているのだ。受験の専門家である智美の口から、「この子は優秀ですね」と言わせようとしている。再び腹の底で嫉妬の炎が燃えた。

おかしい。今日はおかしい。なんでこんなにも自分を制御できないのか。隅に置かれたパソコンから、「マイクのテストをします」という無機質な女の声がする。

「筆記テストはよくできていると思うわ。これだけなら、どこを受けても困ることない」

ほんとぉ?と優越感を滲ませた文香の声に被せて智美は続ける。

「でも面接も実技もあるから。ここに果物の絵を描く課題があるけど、これはちょっと及第点とはいえないわねえ。円の端が閉じていないし、これだと特徴を掴んで描けているとは評価できない。それから、面接も心配ね。私たちが来た時、星矢くん挨拶をしなかったでしょ?さっき私に話しかけた時も、すみませんとかクッションになる言葉を言ってなかった。よく見られるのよ。そういうところ。子どもの資質というより、親がちゃんと躾けているかって観点から採点されるの」

徐々に文香の顔から笑みが消える。口元が引き攣り出した。

「あら、ごめんなさい。つい仕事の目線になっちゃった。気に障ったらごめんなさいね。でも、そういう基準で採点しているのは本当だから、受験するつもりなら気をつけてね」

今度は智美がにっこりと笑みを作る。

文香はやっと笑えていないことに気がついたようで、一度俯くと、いつもの柔和な笑みを顔に貼り付けた。

「お茶、いれなおしてくるわね」

文香は手がつけられていないカップを手に、キッチンへと向かう。カップが擦れあったカチカチと鳴った。その顔が悔しげに歪んでいたことに、智美は満足した。

いけない。あまり怒らせては、この後のことに差し支える。星矢がテーブルのワークをまとめてから、小さく礼をして文香の後を追う。

星矢が何かを倒したのか、鈍い音の後に小さく驚くような声がした。

 智美は鞄から取り出した封筒を、テーブルの上に置いた。封筒はハンカチで包んである。

理人がソファに戻ってきたので、向こうに行っていろと目で制する。

「私だけで話した方がいい。国分さんの時だってうまくやったでしょ?」

「いや、やっぱり僕もいるよ」

「ちょっと……」

理人は智美の横に腰を下ろした。

理人はやけに強情だった。

「今日、昼間にマンションに来ていた霊能者の人が言ってたんだよ。やっぱり国分亮子が全ての元凶だった。あの女がみんなを不幸にしていたんだよ。あの女は死んだから、もう大丈夫」

理人の目は据わっていた。やけに瞳の色が暗く感じるのは、黒目が広がっているからだ。

「あなた、薬は飲んでるのよね?」

理人に鬱症状が出ているのは事実で、一昨年の件のすぐ後から通うようになった心療内科では、睡眠の安定をはかるための睡眠導入剤と、向精神薬が処方されている。悪癖、いや、嗜癖といった方がいい理人の盗癖については、医者には万引きと曖昧に濁した。解決はしているとも伝えた。医者は理人に心理士によるカウンセリングをすすめ、最初は理人も大人しく通っていたが、「進展がない」ことを理由に3回目で通わなくなってしまった。「カウンセリングを通して何も変わっている感じがしない。それねら家で45分娘と過ごす方がいい」理人はそう言った。お前を娘から離すためにカウンセリングに行けと言っているんだよ。智美はその時もとてつもない疲労感を感じたのだった。あの日から日下部家は洗濯機を取り外した。万が一娘や智美の下着をこの男が盗まないとも限らない。この男は父親という名前の傀儡だ。ただいてくれたらいい。どれだけ気持ち悪いと感じようが、受験が終わるまでの辛抱だ。そう思っていた。その傀儡が、何かまた気色の悪いことを口にし始めた。

「もう大丈夫なんだよ。不幸を撒き散らす女は死んだんだ。僕ら、やり直せる」

「そうね」

智美は言葉だけはそう答えながら、この男の切り時について考えていた。今は仕事が忙しい。年が明けて5月頃に離婚届を貰いに行こう。全て明らかにすれば、こちらに有利な条件で離婚できるはずだ。智恵は私につくだろうし、問題は、また理恵か。あの子は甘やかしてくれる父親に懐いている。面倒だなと思っていると、文香がお茶をのせたトレイを手に戻ってきた。

今度のお茶からは甘い花の香りがする。

さっきのカップとは違うカップをそれぞれの前に起く。そして文香は、トレイに乗せられていた布巾で包んだ何かを自分が座るスツールの横にそっと置いた。

「理人さん。ご苦労さま。直りそう?」

「ええ。やっぱりルーターの問題でした。もう繋がると思いますよ」

「よかった。最近カウンセリングの予約が多くて、繋がらなかったらみなさん困るもの」

文香は優雅な手つきでカップを口元に運んだが、茶を啜る音がやけにうるさい。こういうところに育ちが出るのだ。

「電話でも言ったけど、お引っ越しなさるんですって?」

口火を切ったのは智美だった。

「ええ。まだ建築中なんだけど、完成と同時に入居しようと思っていて。来年の2月くらいになると思う」

文香はカップをソーサーに戻した。

「そう。おめでとう。お子さんは順調?」

藤色のフレアスカートに包まれた文香の腹はまだ膨らみがわからない。

文香はそっと腹を撫でた。

「ええ。次は女の子がいいなと思ってるの。1人ずついると、きっと楽しいでしょう」

これも当てつけだ。理人は「いいですね。うちも次は男の子が欲しいなあ」などと視線を送ってくる。カップから立ち上る花の匂いが鬱陶しい。

「これ、少し早いけど引っ越し祝いと、出産祝いも兼ねていると思ってちょうだい」

智美は、重みのある封筒を差し出した。

「え……。なに、どうしたの?」

智美は一度目を閉じ、そして真っ直ぐに文香を睨め付けた。時計の秒針が、奏でる規則的な音が、張り詰めた空気を震わせている。

「はっきり言うわ。これで金輪際、あの件については忘れてほしいの」

「あの件?」

文香はわざとらしく、揃えた右手を頬に当てた。

「僕が失礼をはたらいた、二年前の件です」

理人がテーブルに手をついて、深く頭を下げた。

「いやだわ。もう終わったことですもの」

文香はそう言いながら、封筒の中身を確気にしている。

「こんなにいただけませんわ」

「いいのよ。長年よくしていただいたから、私からの気持ち」

私たちとは言わなかった。この男は一円も出していない。すべて私の金だ。私が稼いできた、私の勲章によって得た金だ。カサカサと何かが擦れる音がする。

アロマオイルの香りに混ざって、なにか、微かに獣の臭いがする。

なんだろう。この女の隠しきれない卑しい本心の臭いだろうか。文香の背後にレースカーテンだけが閉められたベランダが見える。外はもう暗い。夜は、こんなに暗かっただろうか。

「いただけませんわ。理人さんも頭を上げてください。もし日下部さんがあのことを気に病んでいらっしゃるなら、わたしの団体のカウンセリングをおすすめします」

文香はそっと封筒を押し戻した。

今度はテーブルの下から「メンタルウェルネスハッピーサポート」と書かれたパンフレットを取り出す。そして、あの紅色の石が乗った戸棚からいくつかの小瓶を持って戻ってくる。

「これはカモミール。神経の高ぶりを押さえてくれます。衝動性の高い方ややめられない者がある方に使います。こちらはクラリセージ。気持ちの安定を促し、大地とのつながりを高めてくれます。これがネロリ。深い安定に誘い、無意識との対話を促進する効果があります。まだほかにも使いますが、こういたものの助けを借りてみるのはどうかしら。理人さんだけでなくて、理恵ちゃんにも効くと思うの」

文香は茶色い薬瓶のような形をした瓶のラベルを指さしながら説明する。

この女は何を言っているのだろうか。智美はぎっと奥歯を噛み締めた。

文香は一度目を閉じ、パンフレットをひっくり返した。

「星矢。いつものお水を持ってきてちょうだい。ばあばのご病気を治した時ものね」

はいと返事がして、星矢がワイングラスのようなものを両手で持ってきた。

いい子ねと星矢の頭を撫でて、文香はそのコップをテーブルに置いた。

ワイングラスよりもずっと分厚い、薄青いグラスだった。ところどころに虹色の光沢が見える。歴史の教科書で似たものを見たことがある。正倉院に納められているという瑠璃の盃によく似ている。

「これはローマングラスといって、古代のガラスでできているの。出土されるまでに大地のエネルギーを吸収しているから、中に入れた水を浄化して、精油の効果も倍増させるのよ。すごいでしょう」

グラスには透明な液体が満ちていた。

文香はそこに小瓶を傾けて、一滴の精油を垂らした。

「これはフランキンセンスの精油。理恵ちゃんみたいに気持ちの上がり下がりが激しい子に使うの。ほら、ここにも書いてあるでしょう」

文香はパンフレットを指さした。

「発達障害のお子様の多動・癇癪が消失」と書かれているのを認識した途端、智美はもう耐えられなかった。とても6秒など数えていられない。

「失礼ではないですか?人の子どもを、医者でもないあなたが障害児だというんですか?」

「あら、わたしだけじゃないわよ。理恵ちゃんの癇癪、この階まで聞こえるもの。かわいそう。あんなに泣かせて。あれではエネルギーが安定せずにもっと悪化する。水橋さんも言ってらっしゃるわよ。亡くなった国分さんも心配してたわ」

文香は平然と答え、わずかに身を乗り出した。

「智美さん。あなたもセラピーが必要よ。理恵ちゃんの受験の時、あなた理恵ちゃんに食事を与えなかったそうじゃない?マンションのみんな知ってるわよ」

「あれはあの子がムキになって食事を拒んだからです」

「本当に安定した母親なら、我が子が食事を摂らないことに平気でいられるはずない。見かねて理人さんがこっそりごはんを作ってあげたっていうじゃない」

智美は理人を睨みつけた。

「僕は誰にも話していない!」理人が慌てる。

「水橋さんから聞いたわ」

文香は落ち着いた声で、静かに言い切る。

「智美さん。育児はお金を稼ぐことだけじゃないの。調和と慈愛、それがなければみんな不幸になるのよ。セラピストを紹介するわ。わたしよりもずっと高位の先生。一回のカウンセリング料は3万円くらいだから、このお金はそれを通して家族のために使ってちょうだい」


智美の中で、何かが切れるような、砕けるような音がした。


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