②
その日の夜、紫野さんから電話があった。
会社が夏休みに入ったから、28日にまたパーティーをやるという話だ。あたしたちが寝室に使っている部屋はそのままでいいとのことだったが、他の部屋を掃除しておいてほしいとお願いされた。私も着いたら手伝うから。そう言って電話が切れた。この頃にはもう、あたしは夢のことを忘れていた。ありさも掃除のお手伝いと言ってあちこちを雑巾で拭いてくれた。夢中になって水をこぼしたりして仕事を増やしてもくれた。おかげでよけいなことを考えなくてよかった。
掃除は1日で終わってしまったから、バーベキューの時に出そうとハムとチーズのパンを焼いた。みんなが食べなかったらあたしたちの朝食にしたらいい。
28日の朝、大宮さんと紫野さんがやってきた。
ありさはあのお気に入りのワンピースを着ていた。もうボレロはいらないくらい暑かった。
「元気だった?」大宮さんの質問に、大きくピースをして見せていた。大宮さんはすぐに仕事の電話を掛けると言って2階に引っ込んだ。
「準備が嫌で逃げたのよ。肉を切るときにたくさん働いてもらいましょう」
紫野さんが分かり切ってるというように、笑いながらため息をついた。そして、薫と大きな声で呼んだ。
「
紫野さんが車の後部座席に声をかけると、中から、のっそりとあの金髪の子が出てきた。襟足くらいまであるまだらに染まった金髪だ。黒い服に、爪も黒く塗っている。こういうテイストの子なんだなと思って見ていると、薫さんは面倒くさそうに頭を下げた。14歳だと聞いている。
「ボク、ゲームしたいんだけど」
鞄からゲーム機を出しながら言う。自分のことをボクっていうのか、ちょっと変わってる。
「ありさちゃんと遊んであげて」
大宮さんの言葉に、ありさが子どもらしい空気の読めなさで「あくしゅ」と言って手を差し出した。
げー、めんどくせえと言いながらも、薫さんはありさとしっかり握手してくれた。
「なんで爪が黒いの?なんで暑いのに黒い服なの?なんで髪の毛が黄色なの?」
ありさがまとわりつく。久しぶりの他人の姿に興奮しているのだろう。
「知らない」
面倒くさそうに相槌を打ちながらも、薫さんはありさと一緒にリビングの机でスケッチブックを開いた。
「ありちゃん!」
あたしは慌ててそれを止めようとした。遅かった。スケッチブックに描かれたたくさんのおばけがあふれる。見られてしまう。また、変な子だと思われてしまう。
薫さんはそれを見て、一瞬目を見開いた。紫野さんとそっくりな細い一重の目を。
しかし薫さんはニッと笑った。
「いいじゃん。ありちゃん。才能あるよ」
「さいのうってなに?」
「かっこいいってこと」
ありさは得意げに笑った。
「ボクも見えるんすよ」
薫さんがこっちを見た。
「ボクも
アパートの世古さんが言っていたことが、頭の中に再生された。
――この子はケンキだね。
「ケンキって何ですか?」
あたしが尋ねると、薫さんはありさのカラーペンを一本取って、スケッチブックの余白に見鬼と書いた。
「よ、読んで字の通り、鬼を見る力を持った人のことです。幽霊のことを昔に中国で鬼って呼んだんです。霊感とか、霊能とか呼び方は様々ですが、見鬼っていうのが一番かっこいいでしょ。ボクはそう呼んでほしいな」
薫さんの言葉は、ほんのちょっとだが言葉の出始めに詰まるような発音だった。星矢くん。あの子の顔が頭に浮かぶ。
「幽霊が見えるんですか?」
「そうなのよ」
答えたのは車から荷物を運んできた紫野さんだった。
「うっせーな。ボクが答えてんだよ」
「うっせーとはなんですか」
紫野さんは薫さんの頭を小突く真似をして、「小学校の頃はいろいろ見えてて、ここに血まみれの女がいるとか、ここにドクロの陰があるとか、大変だったの」
「今だって見える。ここには何もいないけど」
ふてくされたように、薫さんはそっぽを向いた。
「いるもん!」
急にありさが大きな声を上げた。
「ここ、うであしおばけがいるもん!」
「うであしおばけ?」
薫さんが眉を寄せた。
「あっちにいる」
ありさは離れの方を指さした。薫さんの顔色がさっと青くなった気がした。
「ありさちゃん。見たの?」薫さんが訊く。ありさがこっくり頷く。
「いるの。ありちゃん見たもん」
「ふうん。じゃあ、ボクが退治してあげるよ。塩ちょうだい」
薫さんの顔色はもう元に戻っていた。
あたしはテーブルの上の食卓塩を手渡す。「これでいい?」
「もっとでかいやつ。袋の塩あったじゃん」
「これは今夜使うの。薫、前にファブリーズでもいいって言ったじゃない。靴箱のとこにあるからそれ持ってきなさい」
薫さんはしぶしぶとそれに従った。ありさが続く。
「ありちゃんから目を離さないでね。いい?薫ちゃん!」
「ちゃんはやめろ」
「じゃあ返事くらいしなさいな」
それに返事はせずに薫さんは出ていった。ちゃんとありさと手を繋いで、歩幅を合わせながら。
紫野さんがあたしに「ごめんなさいね」と謝る。
「変わった子でしょ。でもあの子みたいに変わってても生きてけるから」
あたしはちょっと安心していた。変わっているが、薫さんはすごくいい子だと思う。
「いい子ですね」
「いい子なのよ。小学生の時に可哀想な目に遭って、それから学校には行けてないけどいい子なの」
まるで自分に言い聞かせているように、紫野さんは繰り返した。
バーベキューが始まる少し前にふたりは帰ってきた。ありさは「うであしおばけはもういないんだって」と嬉しそうだった。
別荘には続々と社員の人たちが到着していた。今日は特に多い。20人くらいいるだろうか。その中に知っている顔を見つけて、あたしは駆け寄った。
「井口さん」
「あ、この間もいらっしゃいましたね」
井口さんは私に笑いかけた。唇にオレンジ色のリップを塗っている。水色のワンピースが爽やかだった。
井口さんは4月のバーベキューで、夜の部に参加していた人だ。箱のイメージについて、大宮さんが話した日の参加者だ。今日は眼鏡をかけていなくて、髪がちょっと短くなっているがすぐにわかった。隣にあの時に参加していた袴田さんもいた。袴田さんは何度か送ってもらったので、あたしとは顔見知りだった。
「すいません。あの時自己紹介してませんでした。あたし、国分といいます」
「井口です」
「袴田です。もう知ってますよね」
袴田さんは照れたように頭を掻いた。ちょっと見ないうちにすっかり痩せたというか、引き締まった気がする。井口さんは袴田さんの隣に並んだ。袴田さんが言った。
「実は僕ら、来月結婚するんです」
「この人、タキシード着たくて筋トレしてるんですよ」
井口さんが笑う。
「おめでとうございます」
あたしは小さな手を叩いた。こんないいニュースを聞いたのは久しぶりな気がする。そういえば、こうやって大人の誰かと会話するのも久々だ。
「ほんと、社長には感謝しきれません」
袴田さんがガラス戸の向こうを見た。庭では大宮さんがバーベキューの道具を組み立てている。バーベキューでは働いてもらうとの紫野さんの言葉の通り、さっそく仕事に駆り出されているようだった。
「僕、前は介護業界で働いてて、そこ超絶ブラックで、身体もメンタルもやられちゃったんです。弱ってた時に、もう何でもいいやってなって冷やかしでここに履歴書を送ったんです。求人にアットホームで暖かい職場なんて、今どきバカでも騙されないようなことが書いてあったから、どんなヤバいとこか見て、なんなら面接で暴れてやろうかな。それから死のうなんて本当にバカなこと考えてたんですよ。そしたら社長、面接で僕の話、親身に聞いてくれて、僕、あの日から立ち直れたんです」
声がだんだん大きくなる。袴田さんの目は潤んでいた。あたしは、あの日の幸田さんを思い出して、氷を入れられたみたいに背中が寒くなった。話していることは全然違う。でも似てる。熱を出した時みたいな目とか、早口とか。
井口さんが袴田さんに続いた。
「あたしもなんです。あたし、前の会社で奥さんのいる上司に言い寄られて、泥沼みたいな関係になって、会社から追い出されたんです。袴田さんと同じ。親も頼れないし、貯金もなくなって、やけになって農業でもなんでもやってやるって思って面接を受けたら、面接官が社長で……社長はあたしの生活とか援助してくれて、袴田さんはいい人だからって紹介までしてくれて。本当にここに来てよかった」
それはつまり、井口さんは今のあたしと同じ状況だったってことだろうか。あたしは頭が追いついていなかった。おそらく、大宮さんと肉体関係があって、それを袴田さんも承知の上で結婚するということだ。あたしだって常識を知らないけど、でも、これは変じゃないかという疑問が頭をぐるぐる回り出した。
ふたりが本当に幸せそうだったのが、さらにあたしをぐちゃぐちゃに混乱させた。
「社長が見染めた人と一緒になれるなんて思ってませんでした。社長のご威光をいただくってことですから」
「あたしの中身も評価してよね」
井口さんが肘で袴田さんをつつく。2人は幸せそうに微笑みあっていた。
「そうなんですか」なんとか絞り出す。あたしは周りを見回した。なんだか急に、この和やかな雰囲気が怖くなった。
ここは、あたしの知っている世界じゃない気がしてきた。
あちこちから、「社長」「社長」と聞こえる。大宮さんを褒める言葉、それがやたらに目立つ気がする。気にしすぎだ。きっとあの二人が変わっているだけ。ただ、紫野さんが言っていたことが今更ながら理解できてきた。ここの人たちは本当に大宮さんに惚れているのだ。
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