301号室 大宮薫

親子の家 23

 葦原とおという変わった名前の男の子は、小学3年生だった。

「学校はどうしてるの?」薫が尋ねると、十は少し口ごもってから言った。

「今は冬休み。普段は行ったり行かなかったり」

「いいじゃん。ボクはもう4年は行ってない」

「マジ?そういうのありなの?」

「ありだよ。だってさ、学校は危険じゃん。怖いものがたくさんいる」

 そうだねと十が同意した。やっぱりこの子も見えるんだ。子どもを連れた霊能者だと智恵に聞いた時から予想はついていた。子どもの霊感は大人より強いのだ。海外のホラー映画だって、最初に幽霊の存在に気が付くのはだいたい子どもだ。年齢が低いうちの方が見えやすいというのは、オカルト界隈では常識だった。

「例えば誰かが学校を休んだ時、空いてるクラスの席に座ってるのがいるよね」

 薫はずいぶん長く足を踏み入れていない放課後の教室を思い浮かべながら言った。

うん、いるねと十は同意する。

「人の形とかしてないけど、人間のふりして椅子に座ってるやつとかいるよ。でもきっとあれって、多分いつも座ってるんだよ。その上に誰かが毎日座るから隠れてるだけなんだと思う」

 薫は頭の中の学校を順番に辿る。どこにも怖いものがいる。

「そうだね。校庭にもいるし、体育館にもいる、プールにも、一番多いのは廊下だなあ。人の行き来の多い所に溜まるんだよ。あいつらは噂されればされるほど長くこの世に留まることができるから。ボクはそういうのを霊の延命方法って呼んでる」

「学校だけじゃなくて、どこにでもいる」十が言って辺りを見回し、続けてこう言った。

「このマンションにもたくさんいるね」

「わかる?」

薫はフェンス越しに階下を見下ろす。ここは怖いもので満ちた箱だ。いたるところに怖いものがいる。

「うん。国分ありさの幽霊もいる。大宮さんも見たんでしょ」

「オカちゃんでいいよ」薫はそう言って、大きく頷いた。

「見たよ。ありさの四十九日明けの日に、初めて見た。人は死んでから50日経つとあの世に行くはずなのに、ありさの霊魂はまだこのマンションに縛り付けられてる」

「どうしてだと思う?」

十が訊いた。猫のような大きな目が、じっと薫を見つめる。

「未練があるんじゃないのかな。お母さんにもっと優しくされたかったとか、もっと楽しいものを見たかったとか、ありさのお骨の話、聞いた?」

 十はこくんと首を縦に振った。薫は嬉しくなった。

「実は、御札を貼って成仏するのを促したほうがいいって言ったのはボクなんだよね。ほら、管理人のおっさんも、みんな素人じゃん。そういう簡単なことにも気が付かないわけ。ボクがアドバイスしたら、その時は聞かなかったんだよ。でもいざあんなことが起きたらボクに頼ってきた。13歳の不登校の中学生にだよ?大人ってバカだよな。大切なことが全然見えてねえ」

薫が肩をすくめると、十はアハハと笑った。

「でも、お骨の事件があって、大人もオカちゃんの言うこと聞いたんでしょ?」

「そう。あれはポルターガイストだ。幽霊が物を動かしたり破壊したりする。ポルターガイストってタイトルの映画もあるよ。あれは呪われた映画って言われてて、出演者が何人も死んでるいわくつきの映画。まあ、ポルターガイストが起こりやすいとされる条件はいくつかあって、その中の一つに低年齢の少女がその場にいるというものがあって、この時点でありさは条件に合っているし、さらに日本でもポルターガイスト現象が目撃された事件はいくつもあるんだよ。有名なのは1999年に起きた岐阜県富加町の団地の事件……」

 十はぽかんとした顔で薫を見つめている。喋りすぎだと薫は後悔した。

しかし、十は怪訝な顔をしたり、引いたりはしなかった。

「すごいね。オカちゃんは何でも知ってるんだね」

「……そんなことない。じ、時間があるから色々調べてるだけ」

こんな風に面と向かって「すごいね」なんて言われたのは何年ぶりだろうか。

「だ、だからボクは御札は角大師護符つのだいしごふがいいって言ったんだよ。でもおっさんはネットの格安霊能者みたいなやつの御札を買ったから、あんなことに、な、なった。ありさはマンションにいついて地縛霊になって、悪霊になった。お母さんに虐待されて痛いことばっかりされたから、同じ目にあってほしくて次の獲物を狙ってるんだ」

 急に言葉が喋りにくくなる。家族と、それから智恵以外と喋るのは久しぶりだったから、いつもの暗示を自分にかけるのを忘れていた。「変な子になれ」薫は頭の中で強く念じた。「変な子でいることに集中しろ」頭の真ん中に焼き付けるように強く念じる。薫はことさら大きく鼻を鳴らしてまた話し始めた。

「本当に強い霊能者はテレビにも出ないんだ。居場所を知られてしまうとヤバい悪霊に狙われるから。だから、メディアに出ていなくて、君の師匠みたいにネットにも載っていない人は本物だと思うよ」

薫はすでにネットで葦原盈という人物について調べていたが、検索フォームには見つかりませんという愛想のない文字が表示されていた。

「ねえ、どうやって依頼を受けてるの?」

 薫はスマホの画面を見ながら尋ねた。葦原盈。また検索してみたが、めぼしい情報はない。やけに接続が遅いなと思っていたら、電波状況が悪い。モバイルWi-Fiに切り替えてみても、電波はと0と1の間を行ったり来たりしてしまう。

から電話が来るんだ」

十は給水タンクが乗った四角い建物の方を気にしながら答えた。

「師匠みたいな人を束ねてる人がいて、その人が電話してくる。それで、師匠は出かけてく」

「他にも霊能者がいるの?」

「オレはあんまり会ったことがないけど、いるよ。適材適所なんだって。得意なケースがあるから、元締めが適当なところに割り振るんだって師匠が言ってた」

「へえ、すっげえ。かっこいいね。十の師匠ってどういう流派なの?神道?それとも仏教系?陰陽道?もしかして、秘術みたいなやつ?」

「……そういうのは知らない」

十は少し困ったように首を振った。

「たまにお祈りみたいのをするけど、だいたいは何もしない。何もしないけど、幽霊はいなくなる」

「めちゃくちゃすげえじゃん。NEO様ネオサマかよ!」

「誰?」

「映画に出てくるすっげえ霊能者。他にもいるよ。比嘉琴子とか、霊能者じゃないけど、工藤仁もやべえんだよ!そいつらみんな流派をもたない!やっぱりホンモノは流派なんかいらなんだ。君の師匠はそんくらいすごいってこと!」

 薫の背筋を興奮が伝った。腹の奥が熱くなる。本当だ。本物だ。この人なら自分をこここから連れ出してくれるかもしれない。

薫は喉の奥から笑いが零れそうだった。やった。ついにこの日が来たのだ。

 給水タンクの向こう側には十の師匠がいる。彼は今、智恵から話を聞いていた。

何の話をしているんだろう。智恵から聞くことなどあるのだろうか。耳を澄ましてみたが、話している内容は聞こえなかった。

 薫はフェンスを掴んだままフェンスの土台に腰を下ろした。しばらく使っていなかった筋肉を伸ばす。関節がバキボキ鳴った。

十は薫から少し離れて、黙っていた。不自然に途切れた会話に文句を言うでもなく、フェンスに背中を預けていた。

 薫は智恵のことを考える。智恵の家が、薫は羨ましかった。薫の家は何でも自由だった。学校に行かないと薫が言った時、父も母も笑顔で「いいことだ」と言った。母は「薫ちゃんが決めたことが正しいことよ」と言って、父は「狭い社会の規範に従うことはない。道は沢山あるし、16になったらうちの会社で働きなさい」と肩を叩いた。薫が夕飯を食べたくないと言えば、「好きにしなさい」と優しく言う。「戸棚にカップラーメンも冷凍庫にお弁当もあるからね」と母は優しい。父親の会社は持続性と自然に配慮した食品造りを謳っていたが、両親は薫にそれを強制することはなかった。好きなものを食べていれば死ぬことはないからと。人は時期が来たらちゃんと成長するからと。そう言って、2人とも朗らかに笑った。

 ボクは怒られてみたかったんだということに気が付いたのはかなり最近だった。気が付いた時は何もかも手につかなくなった。自由という言葉が、薫の上にのしかかってきた。薫は自由だったが、なにもかもを自由にするというのはとても難しいのだ。誰かにレールを敷いてもらいたいと思った。敷かれたレールの上をただ黙々と歩く智恵が薫は羨ましくなってしまった。今の薫は砂漠でありもしないオアシスを探し求めて干からびていく旅人の気分だった。

だから、今日の出来事は薫にとって特別なのだ。今日、ボクは変わるのだと薫はぎゅっとフェンスを握りしめた。腹の奥が、脈打つように感じる。頭にまで血がめぐる。こんな爽快な気持ちは久しぶりだ。

 向こうから叫び声のようなものが小さく聞こえた。腰を浮かす薫を、十が「大丈夫だよ」と止めた。

「大丈夫だよ」

「でも」

「大丈夫。師匠にはちゃんと見えてるから」

意味深な言葉を残して、十はまた向こうを見る。

それっきり向こうは静かになってしまう。冷たい風が、屋上を吹き抜けていく。

 空の色はすっかり薄くなり、千切れた雲がぽわぽわと浮いていた。

もう少ししたら、夕方が来る。夕方が来たら、夜が来る。

 薫は父のことと、そして海辺の別荘のことを考えた。

広い庭とテニスコートのある大きな洋風建築。きっともうすぐそこで定例バーベキューがある。父の会社の社員たちを何人か招いて、庭で肉や野菜を焼くのだ。薄い肉を網で焼くみたいな簡単なものではなく、アメリカでやってるみたいな本格的なものだ。肉の塊をが部位別にいくつも持ち込まれて、それを焼く。骨が付いたままの肉の塊が、手慣れた様子の男たちのよってみるみる調理されていく。脂のはじける音と、炭の匂い、燻製機から立ち上るチップの香り、やがて辺りには肉の焼けていくいい香りとソースの匂いが満ちる。幼いころの薫はこの日をいつも楽しみにしていた。バーベキューには子どもが何人か来た。子持ちの社員はみんな自分の子どもを連れてくる。父の会社の福利厚生は手厚く、両親共に勤めながら育児をする家庭がたくさんあった。社員の多くは、過去に挫折を味わった者たちなのだという。いじめにあって学校に行けなくなり、引きこもっていた者、家庭環境が劣悪だったために犯罪に走らざる得なかった者、前の会社で蔑ろにされ、何年も働けなかった者。彼や彼女たちを父と創設時のメンバーは温かく迎え、そして立ち直らせた。彼らの折れた心をケアし、農業を通して体力と協調性を育て、会社を支える大事な人材へと成長させていく。それは美談としてよくテレビで取り上げられるストーリーだ。今はローカル局の取材くらいだが、そのうちきっともっと大きく取り上げられるようになる。現に、父はとある雑誌で、将来性のある経営者100人に選ばれていた。そんなだから、父に心酔して新しく働きに来る人たちも多い。父はそんな彼らにも絶対にやりがいの搾取はしないと明言している。立派だ。本当に。だから、社員たちも安心して子育てをする。バーベキューに連れてきて、自慢の社長さんよと父を紹介する。

 バーベキューは遅くまで続く。小学生までの子ども達はこの日、夜更かしを許される。大きなリビングに集まって、みんなで遅くまでゲームをしたり、色々なことを話したりした。もちろん怪談もした。もし、今ここにトールマン人さらいおばけが現れて、みんなを連れて行ったらどうする?薫がそう締めくくると、みんなキャーと悲鳴を上げたがどこか嬉しそうだった。だって庭ではお父さんやお母さんが集まっている。怖いことなどないのだ。そして、満腹と遊びの疲れから次第に眠ってしまう。満ち足りていて、楽しい時間だった。中学生になると、バーベキューの夜の部にも参加ができた。焚火を囲んで大人たちと語り合うのだ。参加したくない者は小学生たちと遊んでいてもいい。だが、中学生になった大半が喜んで参加していた。しかし薫はあまり参加したくはなかった。中学に行っていない薫は話題がない。父は無理強いはしなかったが、「社会を知るいい機会だよ」とは言っていた。母は「大人になるための準備だと思えばいいんじゃない」と笑った。

今年のバーベキューには行かないだろう。その頃には、薫はここにいないだろうから。

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