虚実
親子の家 16
水橋が口を閉じると、部屋中の鳥たちがすうっと彼女の体に吸い込まれていく。
「亮子さんはありさちゃんを叩いた」「虐待に違いない。だって長谷さんが言ったもの」「あの親子が越してきてから変なことが起こる」「ありさちゃんは変な子だった」「虐待されている子は情緒が不安定」「虐待されている子は人のものを壊す」
「日下部さんが言ったもの」「ありさちゃんが死んだ」「ありさちゃんが幽霊になった」「みんな幽霊を見てる」「亮子さんは見てない」「ありさちゃんは亮子さんを恨んでる」「野本さんは役に立たない」「大宮さんの所の子が言ったもの」「幽霊になってお母さんに復讐した」「御札、遺灰が部屋中に」「まだありさちゃんはこのマンションにいる」
鳥たちの暗い眼窩から呟きが聞こえる。
盈が言い当てられたのは、すべて鳥が囁いていたからだ。盈が言ったよりも多くのことを、鳥は眼科の奥から伝えている。
鳥たちの半透明な体は、黒い水に漂うほどに真っ黒に染まっていった。
そして水橋が話を止めた途端に、水が排水溝へと吸い込まれるように、水橋の体の中へと吸い込まれていく。水橋の顔が、体が、黒く染まる。水橋の頭が丸みを帯びた鳥の頭に変化する。首が伸び、唇がせり上がり、嘴に変わっていく。眼球が溶けるように消失して、そこに真っ黒な穴が開いた。
いまや、水橋は巨大な黒い鳥になっていた。
水橋は鳥使いじゃない。鳥そのものだったのだ。十は目の前の奇妙な鳥を見つめた。他の人にはちゃんと人間に見えるのだろうその形は、怖いというよりどこか滑稽で、同時になにか切ないような気持ちを呼び起こさせる。
人の秘密を集めてばら撒いていくという彼女の悪癖は、長年を経て彼女自身を変貌させてしまった。マンションを飛び回るのは彼女の子ども達だ。いつしか子どもたちは、水橋が聞いた覚えのない噂までをも収集し、それを母親に伝えていったのだろう。そうしてそのうちのいくつかがマンションの外にも現れるようになった。おそらくは水橋が行ったことのある場所になら鳥はどこにでも現れる。現れて、誰かの話した秘密を本人に伝えるように作用する。そういう怖いものになった。
水橋は玄関まで盈と十を見送り、眼球のない暗い
505号室のドアが閉まるガチャリという音が薄暗い室内に響いた。
二人は505号室に戻ってきていた。
和室の片隅に置かれたスーツケースの中には、ワンピースを着た国分亮子の幽霊が納まってるのだろう。
「家っていうのは――」
リビングと和室の境の柱に凭れた盈が口を開いた。
ジーンズのポケットを探り、潰れたガムの包装から一枚引き抜いて口に入れ、盈は続けた。
「家っていうのはある種の結界だから、他人の家にはあの鳥は出入りできない。家は住人のテリトリーだから余所者は入れないんだ。あの鳥には聞かれたくない」
あの鳥というのは、今も廊下を飛び回る鳥のことなのか、それとも水橋自身なのか。両方だろうか。
「マンションって変なところだね。自分の家は壁とドアで区切られていて他人が入れない。でも外の廊下やエレベーターはみんな使う。マンション全体が自分の家でもあるでしょ。自分と、自分じゃない人たちとの境界が急にあいまいになる気がする。変だよ」
十は玄関のドアに耳をつける。この扉の外もマンション住民にとって「家」である、しかし自分だけを守ってくれる家ではない。
「そういう場所だから、怖いものが伝染しやすい。今までのことを整理しようか」
盈は和室に入ると、畳に座った。
十もその向かいに腰を下ろす。
水橋の話では、この部屋にありさの遺灰がばら撒かれていた。
「2年前の11月最後の日に国分亮子はありさちゃんと一緒にこのマンションに引っ越してきた。翌年の2月までは小さなトラブルはあったが、住民との関係はそれなりに良好だったと考えていい。野本さんの話とも一致する。交流があったのは、505号室の日下部家、405号室の水橋家、707号室の長谷家。ただ、日下部家とはそこまで親しくない。子どもどうしの交流があったのは長谷家。子どもの名前は星矢。年齢はありさちゃんと近いというから、おそらく今6歳か7歳くらい。この子との問題が明らかになったのは2年前の5月」
「おもちゃを盗んで壊したってやつだよね。変だと思うんだよ。欲しくて盗んだんならなんで壊すわけ?壊したら遊べないじゃんね」
「何かの拍子に壊してしまったからそれを隠したくて盗んだ。盗んだというよりも発覚を恐れてとっさに隠したのかもしれない」
「うーん?そうかな。なんか変な感じするんだよな」
十は水橋の話を思い出そうとした。壊れた玩具。それはいつありさのリュックに入っていたのだろう。水橋の話では直前まで星矢とありさの2人は楽しく遊んでいるようだったというから、おもちゃが壊れたのは遊ぶ前ということになる。そんなに何日も壊れたおもちゃを隠していられるものだろうか。
「嘘ついてるのがバレたら一番やばいのって、お母さんだと思うんだよ」
十はずっと気になっていた疑問を口にしてみる。
「ありさは亮子さんにおもちゃを壊したのかって訊かれて、そうだって言ったわけじゃん。普段から叩かれてるんなら、絶対隠すと思うんだよ。バレたら怒られんのがわかってるわけだからさあ」
「そうか?」
盈は不思議そうに顔をしかめた。
「どうせ怒られるなら本当のことを言って最小限の被害に留めたいって思うかもしれないだろ?」
「思わねえって!子どもはそんなに頭が回らないの!まず怒られたくねえもん!オレだって絶対隠すよ」
そうかなあ、と盈は首をひねっている。この人は時々壊滅的に人間というものを分かっていないのではないかと思うことがある。十ですら思い当たるような、人の心の機微というものに疎すぎる。
「そう。3歳の子なら絶対そう。それに、自分の親にかっこ悪いとこ見せたくない。子どものオレが言うんだからそうです。そんで、そこから考えて、ありさは怒られるとは思ってなかったんじゃないかとオレは思う。おもちゃを壊したことも、盗ったことも、悪いと思ってなかった。怒られるようなことだと思ってなかった」
盈は十の話をじっと聞いていたが、何かに気が付いたように眉を動かした。
「最近のおもちゃってそんな簡単に壊れるか?」
「師匠、オレの話聞いてた?」呆れてそう言った十を盈は手で制す。
「聞いてた。それを踏まえての話だ。おもちゃを壊した、おもちゃを盗んだ、それを悪いことと捉えているかということを別々に考え直してみた方がいい。そう考えると、水橋さんの言ってたことにおかしな点が出てくるんだよ。彼女はおもちゃは捩じ切れたように壊れていると言った。つまり、壊すという目的でそれをやっている。多少乱暴に扱ったくらいじゃ、そんなバラバラにはなるはずがない。うっかり壊したという仮説は無理がある。でも、あえて壊した奴がいるなら話が別だ。あえて壊して、でも、それを知られたくなかった」
あの場所には2人の子どもがいた。
ありさと、星矢だ。
「星矢が壊した?」
「そうすると辻褄が合う。自分で壊したなら、遊んでいるうちに壊れても騒ぎにならないだろう。星矢くんが壊して、ありさちゃんのリュックに隠した。持っててとか言って預けたのかもしれないな」
「そっか。星矢のお母さんもあそこにいたんだ」
そう、と溢は頷いた。
「星矢くんはおもちゃを壊したことを母親には知られたくなかった。だからありさちゃんを利用した。壊した理由は特になく、やってみたかったんだろうな。小さい子がおもちゃを壊してみるっていうのは、そんなに異常なことじゃない。好奇心の範疇だ。ただ、やっちゃった後に後悔したんだろう。咄嗟に考えて、ありさちゃんが背負ってたリュックに隠した」
「なるほど」
辻褄は合うし、ありさの反応も頷ける。
ありさは「取った」の意味がよくわからなかったんだろう。星矢におもちゃを持っていてと頼まれて、受け取った。だから亮子に「盗ったのか」と問われて「取った」つまり受け取ったと素直に答えてしまった。ありさの笑顔の意味は、確認だ。星矢に持っていてと言われたのだから、その通りにしたよという意味で星矢に微笑んだ。
「そっか。大人はありさを悪い子だと思ってたから、全部変に見えたんだ。これって、師匠が言ってた暗示ってやつ?」
「それに近い。俺が使うのはもっと意図的で強いやつだけど、暗示そのものは日常生活の中でほとんどの人がかかっているものだよ。なんとなくそうなんじゃないかと思い込むと、自然とそういう風に世界を見るようになる」
盈が必要な情報を引きだしたいときなどに暗示を使うことを、十は以前に彼から聞いていた。呪文も特別な道具も必要ない。ただ相手と目を合わせるだけ。盈いわく、ずっと昔に盈の師匠だった人から教わった術なのだという。だから、盈と対面で話す住民たちは、盈を邪険に扱うこともなく、知っていることを話してしまう。
暗示も万能ではないから、喋りたくないことを喋らせることはできない。さらにその人が真実だと思っていることしか喋らせることはできないとも言っていた。
「大人はありさを悪い子って思い込んでたんなら、幽霊になった後も悪い幽霊だって思い込んでたんじゃない」
「だろうね」
盈が肯定する。
「幽霊になったありさちゃんを住民が目撃する。それを悪霊だと思う。直接目撃していない住民もそうだと噂する。悪霊っていうのはイメージしやすいからな。たくさんの人が幽霊のことを話題にすればするほど、幽霊はその場に縛り付けられる。だから目撃談が増えていく。見えやすくなるんだ。唯一の救いは、ありさちゃんが自分が死んだことに気が付いていないらしいこと。自分が幽霊であることに気が付いている霊だったら、悪意のある噂を吸って、本当に悪霊になる」
「じゃあさ、御札の件を師匠はどう考えてるの?」
十は和室を見渡す。この部屋に御札がまき散らされ、骨壺が砕けていたという。飛び散った遺灰、怒り狂っていることを示すように撒かれた御札。
室外機の下から見つかったのは、おそらくその時に撒かれていたものが紛れ込んでそのままになっていたのだろう。
ああ、それか、と盈は言って、喉の奥で笑った。
「やり方が露骨なんだよ。あれは人間の仕業だ。やっぱりこの家はおかしい。人間と幽霊が複雑に絡み合ってる。おそらく、その絡まりを解かないとありさちゃんは消えない」
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