405号室 水橋千春
親子の家 14
水橋千春はソワソワと膝を動かした。
リビングのソファは3人掛けだが、水橋が横に座るわけにはいかないため、彼女だけ食卓の椅子を引っ張ってきて向かい合っている。座面がソファよりも高く、どうしても盈たちを見下ろす視線になってしまうのだ。
405号室のリビングルームに置かれたソファには、2人の客人が座っている。
向かって右に背の高い男が座っている。彼は葦原盈と名乗った。歳は20歳から25といったところか。
短い髪が似合う形のいい輪郭をしている。太い眉。切れ長の目。顔立ちはつい先月までやっていた連続ドラマの、主役ではないがやたら話題になっていた俳優にちょっと似ている。最終話でマシンガン持って主人公の家族を追い詰めたあの……。名前が出てこない。それにしても変わった色の目だ。注意しないとわからないが、少し青みがかっているような、いや、灰色のようにも見える。ならば灰色かと言われればそれも違う。彼の隣には、葦原十と名乗った少年が座っている。漢数字の十で十。変わった名前だ。小学生くらいに見える。丸い目の、かわいい男の子。苗字は同じだが二人はあまり似ていない。
「ええと、国分さんのことについてお話しすればいいんですね」
そう言いながらも、言葉が口から零れそうになる。水橋は浮かれていた。
やっと自分が役立つ日がやってきたのだ。
「国分亮子さんと親しかったとお聞きしました」
盈が言った。日下部智美の夫から聞いたという。気弱そうなあの人らしい。大事なことは全部人に喋らせるんだから。仕方がないわね、。やっぱり私みたいな人がいないと困るのよ。顔がにやけそうだった。
「国分ありささんのこと、それから亮子さんのことで知っていることがあればお話ししてもらえますか?」
水橋は胸の高まりを感じながら、できるだけ平静を装って口を開く。
「私に話せることなんてそんなにないですよ」
謙遜してみせながらも、水橋の口は滑らかに動き始めた。
部屋の鳥たちが一斉に震えはじめたので、十はぎょっとして辺りを見回した。
小刻みに震える鳥たちの眼窩から、どろどろと黒い水が溢れだす。
鳥たちが蓄えた他人の秘密が、水橋の口から零れ落ちるたびに、水は勢いを増した。
水はせり上がり、涙のように筋を作って床まで流れる。あっという間にフローリングは黒い水の海になった。盈にも見えているはずだが、気にすることなく水橋と話を続けている。鳥は震え続ける。笑っているのだ。私っていないと困るでしょ。鳥の虚ろな目の奥から声がする。
「国分さんが引っ越してきたのは、2年前の11月30日でした。こんな中途半端な時期に引っ越してきた人ってことと、彼女とても若くて、なんていうんですか?ギャルっていうのかしら派手なお洋服を着ていたから目立ったの」
水橋は続ける。
亮子が片手でありさの手を引き、もう片方の手で引っ越しには小さすぎるピンクのキャリーバッグを下げて現れた日、ほとんどの住民が胡乱げな視線を投げかけた。
彼女は、マンションサウスヒルズの住民になるには若すぎた。
ローズピンクのオフショルダーニットに腰回りがぴったりした黒のマーメイドスカート。足元はかかとの高いショートブーツだった。
露出した肩は白く、下半身にぜい肉はない。どう見ても20代。しかも前半だ。
ありさは肩までの髪を二つに括っていて、背中には赤い頭巾をかぶった子うさぎがプリントされたリュックを背負ってた。リュックからは紐が伸びていて、先端の輪っかが亮子の腕に通されていた。迷子紐だ。ありさは亮子の手を急に離すと物珍しそうにあちこちへと飛びまわり、その度紐がピンと張った。
奇妙なのが、彼女たちはほとんど身一つでここへやってきたことだ。
505号室に国分と書かれた表札が出て、そこに新品の家具が搬入されたのはその日のことだった。
「智美さんに聞いたんですが、全部新品なんですって。普通引っ越しって言ったら、前の家で使っていたものを少しは持ってくるものでしょう?ところが、全部真新しいものを宅配の人が持ってくるのよ」
「ずいぶん羽振りがいい話ですね。それに」
盈は部屋を見回した。その仕草は自然で、嫌みっぽさは少しもない。しかし、さっき片付けてよかったと水橋は胸をなでおろした。床に散らかっていた息子が使いっぱなしの筋トレ器具や夫のゴルフ用品は和室に放り込んである。
「素敵なリビングですね。きれいにしていらっしゃる。13畳、14畳はありますよね?こんなに広い部屋に若い女性が、それもシングルマザーらしい国分さんが住めるものなんでしょうか。水橋さんから見て、国分亮子さんの経済状況ってどのようでした?」
「都心のマンションほどではないですが、そこそこします。一人の稼ぎでは難しいんじゃないかって、私たちも思ってたんですよ」
水橋は椅子から乗り出した。声をひそめる。
「夜のお仕事をしていたみたいなんです。たぶん、キャバクラ……か風俗」
最後の方はさらに声を潜めた。盈の隣に子どもがいたことを思い出したのだ。
十は何も興味を示さないようだった。投げ出した足を退屈そうにぶらぶらさせている。その様子がなんとも子どもらしかった。
「小さなお子さんを置いて夜に出かけていくと、日下部さんのご主人も言っていました」
「そう!それでね、それは国分さん本人も気にしていたみたいで、智美さんにドアの音がうるさいって注意された後くらいに、私の所に来たの」
「へえ、信頼されていたんですね」
「やあねえ!そんな大したものじゃなくって!単に智美さんってちょっと怖いのよ。見た目もきついけど、全部私が正しいって感じで話を進める人だから、話しにくかったんじゃない?それで私にお鉢が回ってきたの。いっつも朝エレベーターの所にいるから話しやすかったんでしょ」
大げさな手振りで否定しながらも、水橋は心の中でずっと笑っていた。私は役に立っている。
その日のことも覚えている。エレベーターホールから帰ろうとした水橋を、国分亮子はか細い声で呼び止めたのだった。
「あの、すみません。お聞きしたいんですが」
あまりにもオドオドした声と、化粧をしていないあどけない顔立ちに、一瞬だれかわからなかった。栗色の髪と、ド派手なピンクのジャージから、やっと亮子だとわかる。寝起きなのだろう。髪の毛はシュシュで簡単に括ってあるだけだった。
手に持ったスマホの画面と水橋の顔を見比べている。
「この近くに、子どもと遊べる場所、ありますか?公園とか」
精いっぱい丁寧な言葉を選んで話しているような、ぎこちない喋り方だった。
「通りを越えて、ファミレスがあるところを一本東右に曲がっていくと小さい公園がありますよ。大通りから一本入ってるから、車も少なくて安全よ」
亮子はスマホの画面を操作する。地図アプリを見ているらしかった。
「えっと、大通りの……くぬぎ公園ってところでいいですか」
「そう。娘さんと行くの?いいお母さんね」
水橋が言うと、亮子は「全然」と泣き笑いのような表情を浮かべて肩を落とした。
「あたし、マンションに住むの初めてで、夜とかうるさくしちゃってごめんなさい。言ってくださいね。あたしニブいから言われないと分からないんです」
亮子の言葉には微かな地方の訛りが残っていた。出身を聞くと、瀬戸内海に面する県の生まれだという。亮子の話はお世辞にも上手とは言えなかったが、かいつまむと次のようだった。15の時に唯一の肉親であった母を亡くし、中学卒業と共に遠い親戚を頼って上京したが、わけあってその親戚の所にもいられなくなったので、3歳になる娘のありさと共にここに越してきた。ありさの父親とは死別している。
頼れるものはいないという。心細そうに俯く亮子は、小さな声でこう続けた。
「ありさの様子が変なんです。ううん、ずっとああいう不思議ちゃんなとこある子だったけど、引っ越しの頃からもっとおかしくなった」
「ありさちゃんがね、変な絵を描くんですっていう話だったのよ」
水橋はまた体を乗り出して声をひそめた。
亮子から聞いた話を記憶から拾い上げる。
「おばけの絵を描くんだって。腕の長いおばけとか、黒い鳥のおばけとか、一反木綿みたいなお化けとか、他にもたくさん。子どもが怖い絵を描くのは家庭に問題があるからじゃないかって、一人で悩んでいるみたいだった。それから相談に乗るようになったのよ。ありさちゃんはいつもニコニコしてるし、落ち着きはない子だったけど、私から見たら普通の子だった。きっと引っ越しの疲れなんかで一時的に不安定になってるだけって思ったんだけど……」
水橋は一度思わせぶりに話を切った。
「なにか気になることがあったんですね」
続きを促す盈の声が心地よい。いくらでも話せる気がする。
「ありさちゃんが星矢くんのおもちゃを盗んで、しかもそれを壊したんです」
「星矢くん?」
「707号室の長谷さんのお子さん。4歳だったから、ありさちゃんの1個上で、たまに一緒に遊んでたみたい。ありさちゃんのリュックから壊れたおもちゃが見つかったのよ。そしたらね、亮子さん、ありさちゃんの腕を掴んで、こう、ほっぺたをバチーンって叩いたの。みんなの前でよ」
水橋は右手を振りかぶって当時の様子を再現する。
ギャーッと火が付いたように泣くありさ。蒼白になって立ちすくむ亮子。茫然と壊れたおもちゃを凝視する星矢。一拍置いて、亮子はありさを抱きしめた。その時に水橋は確信した。
「亮子さん、きっとありさちゃんを普段から叩いていたんだわ。もっともこれは、私だけの意見じゃなくて、長谷さんが分析したんだけど。彼女カウンセラーなのよ。オンラインサロンを自宅で開いてる」
「初めて聞きました。その時のこと、詳しく教えてください」
盈の声は真剣だった。それはそうだ。これは、ありさの死因に繋がるかもしれないのだから。推理小説の登場人物になったようだ。水橋は興奮していた。それなら、私は重要な事実を探偵に告げる役目のある登場人物だ。あらやだ、そういうキャラクターってその後殺されちゃうじゃない。ふふ。
あれは、と記憶を辿って、窓の外に鯉のぼりが見えていたことを思い出した。三匹の大きな鯉が、悠々と青空を泳ぐ。吹き流しが優雅にはためく。
マンションのオーナーの計らいだそうで、5月になると駐輪場に飾られる鯉のぼりは、写真を撮りに来る人がいるほどである。
ありさと星矢はマンションの共用廊下で遊んでいた。
何をしていたのかは知らないが、キャッキャという楽しげな声が、7階の廊下に満ちていた。歳が近かったから、気もあうのだろう。空が夕焼けに染まって、鯉のぼりが黒いシルエットになる。その時、水橋は長谷文香の部屋にいた。いつもの相談である。普段はカウンセラーとして相談を受ける側の文香も、水橋相手には愚痴がこぼせるというわけだ。とりとめのない話をしていた。玄関ドアは換気もかねて開けていたから、子どもの様子は見渡せる。
もうすぐ夕飯だと、長谷文香が星矢を呼んだ。
「ありちゃん。またね」
星矢は手を振って、行儀よく深いお辞儀をした。星矢は大人しく温厚な子で、礼儀正しい。うちのバカ息子に爪の垢を煎じて飲ませたいと、水橋は何度言ったことか。
ありさも星矢を真似て、深くお辞儀をした。
その拍子で、背負っていたリュックサックの留め具が外れ、中に入っていたものがバラバラと床に転がった。スケッチブック、サインペン、飴の包み紙、鳥の羽、水色のラメが入ったスーパーボールが、ぼよんと跳ねて、てん、てんと廊下の奥に転がっていく。ガチャンと音を立てて転がったのは、手足の取れたロボットのおもちゃだった。人間でいえば股関節の部分から、何かで挟んだようにねじ切られている。
まず胴体が落ち、次いでバラバラの四肢が落ち、最後に頭が、開いたスケッチブックの上に落ちた。水橋は戦慄した。スケッチブックには、人間にしては腕が長すぎる生き物が、こちらを向いて立っている絵が描かれていた。黒い体、黒い腕、黒い顔の半分を占める――あれは口か?赤いサインペンで塗りつぶされた口の中に、黒いペンで描かれた小さな四角が並んでいる。一番奇妙なのが、そのおばけとしか形容できない存在の下に、もうひとり人間が描かれていることだった。おばけが上から書かれているので見えづらいが、青色の服を着た女の子。
「たいへーん」
ありさは平然と散らばった宝物を集めにかかった。
「ありさちゃん」
固い声がした。文香だった。青ざめている。唇が震えていた。
スケッチブックの上の、ロボットの頭を手に取る。
「これ、どうしたの?」
ありさはスケッチブックをぱたんと閉じる。ロボットの残骸がまた床に落ちる。
「星矢くんがくれたのー」
散らばったサインペンをケースに乱暴に戻しながら、ありさはまっすぐに文香を見た。挑発している。水橋は背筋に冷や汗を浮かぶのを感じた。
「星矢ちゃん、これ……」
文香がロボットを拾い集めて我が子の名前を呼んだ。そして、目を見開いた。
星矢が泣いていた。ひっ、ひっと声を上げている。ぽこっと盛り上がった特徴的な鼻の頭は真っ赤だった。星矢ちゃん!と声を上げて彼女は息子を抱きしめた。
ひっひっ嗚咽が続く。「……りちゃんが……壊した……」
ありさは再びパンパンになったリュックサックを背負い、「スーパーボール」と言いながら廊下の奥に去ろうとしている。
「ありちゃんが壊した!ボクのおもちゃ壊して、ないないした!」
ないないした。仕舞ったという意味の幼児語が、大人びた星矢の口から発せられたのが、彼の強い動揺を表していた。隠していたのだろう。言うなと脅されたのかもしれない。だれに?この子に?
ありさは廊下の暗がりからスーパーボールを拾い上げ、黄色いキュロットの裾で拭いた。この状況をまるで理解していないかのような、身勝手な行動。暗がりでこちらを振りかえる幼女の顔が、やけに暗く見えるのは、水橋の考えすぎだろうか。
「ありちゃーん。ごはんできるよー。スパゲッティ食べよう」
張り詰めた空気の中に、のんびりした声が響いた。
国分亮子。彼女は白いシンプルなカットソーに、デニムのワイドパンツ姿だった。
「もうちょっと落ち着いた服を着た方が悪目立ちしないのでは」と長谷に言われたことを守っているようだった。階段から姿を現した亮子は、廊下に漂うただならぬ雰囲気を察したようだった。
「ありちゃんっ!」
彼女は真っ先にありさに駆け寄る。頬を両手で包み、服を、体を、忙しく調べる。何事もないとわかると、亮子は不安そうな目でこちらを見た。泣く星矢、それを抱く文香。床に転がるロボット。しかもバラバラの。顔面を蒼白にした水橋と目が合う。
「――どうしたんですか」
水橋は今までのことを説明した。こういう時に誰もやりたがらない役目だ。
ありさのリュックから星矢のおもちゃがでてきたこと、壊されていること、「ありちゃんが壊してないないした」の示すだろう意味。
「ありちゃん……」
声は震えていた。亮子のノーメイクの顔が、能面のように表情を失った。
「ありちゃんが、とったの?」
ありさは亮子をじっと見つめた。黒目がちの、大きすぎる黒目が不気味だと、水橋は一瞬思ってしまった。
「うん」
ありさはこくりと頷いて、星矢の方を見て、
にたりと笑った。
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