506号室 日下部智恵
親子の家 9
それでも注意深く聞けば、隣の部屋で2人が話しているのがわかった。
さっきエレベーターで一緒になった背の高い男の人と、妹の
隣の部屋を開けるのが見えたから、彼らがオカちゃんが言っていた「霊能者」だろうか。普通の大学生みたいだった。
あの男の子はなんだろう。智恵はまた、オカちゃんの家で見た怖い映画を思い出した。オカちゃんは勉強に飽きるとすぐ部屋にある大きなテレビで映画をつける。飽きるまでの時間はとても短くて、休憩の合間に勉強をやってるみたいだ。オカちゃんの部屋のテレビはネットに繋がっている。正確には大きなテレビをパソコンのモニタの代わりにしていた。リビングで使っていたやつが古くなったから貰ったのだと言っていたが、テレビがない智恵には羨ましかった。オカちゃんの部屋は、登録してあるサブスクリプションサービスへ映画が見放題だった。ただし、そのサービスは怖い映画しか配信していないもので、智恵が見たい連続ドラマもアニメも見ることはできない。
あの映画では、盲目の女の子の霊能者が出てきた。真っ赤な服を着て、丸いサングラスをかけた、可愛いが不遜な態度の霊能者。彼女の目は見えないけれど、幽霊だけは写すことができる。しかし結局彼女もバケモノに負けてしまうのだ。
「霊能者っていうのは、ホラー映画のスパイスだから負けないと意味ないんだよ。この家はやべえぞってことを視聴者に知らしめる役割があるからね」
オカちゃんは流れるように語る。発表や音読はつっかえつっかえで辿々しく、私以外の人に話しかけられたらひどく吃るくせに。正負の数の計算や、中1レベルの英単語はも何もかも分かってないくせに。それでもそういう、幽霊とか妖怪についての知識は物凄くたくさん持っている。
「こんなに色んなこと覚えられるんだから、オカちゃんも勉強したらもっとできるようになるよ」
私はオカちゃんを勇気つけようと思ったのだが、オカちゃんは馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「ボクにはこれが勉強なの。だってボクは霊能者になるから」
そう。オカちゃんは幽霊が見える。
「智恵ちゃん。ご飯ができたよ」
部屋の扉がノックされたので、智恵はパッと壁から離れた。丁度隣の部屋で何か大きな音がした瞬間だったので、心臓がドッと大きく鳴った。
「はーい」
智恵は何でもなかったふりをして、そしてできるだけ元気よく返事して、食卓に向かった。
イケアで買った無垢のダイニングセットには理恵が既にいて、大きな皿をキッチンから運んでいた。皿から漂う干しエビの香ばしい香りと、爽やかなライムの香りが混ざり合う。どこか南国の屋台のような、食欲をそそる香りだった。それなのに、智恵の胃はぎゅうっと悲鳴をあげる。
波打った模様のある白い陶器の皿は、父親のお気に入りだ。何を入れても美味しそうに見えるからと彼は言う。食卓に載せられたのは、エスニック風の焼きそばだった。皿から溢れんばかりに盛られている。ニラと香草の青々しさも、玉子と絡まって黄色くなった麺の上で跳ねるようにぷりぷりした海老の赤さも、日本ではあまり使われない珍しい香辛料も全てが引き立て合って、料理店のような出来栄えだった。しかし、やはり智恵の胃は縮まって撤退抗戦を試みていた。
ぷくぷくした顔の理恵が無邪気に「うまそー」なんて言いながらエビを1匹つまみ食いしているので居た堪れなさが這い上ってくる。
「お父さん、他に運ぶものある?」
智恵は流しにいる父親に声をかけた。
IHコンロの横にまだいくつか皿があるのを見て、それを運ぶ。イカとオクラを炒めたらしいものからも、ふわりと香辛料の香りが立ち上る。焼きそばとは違う種類のもののようだったが、互いが互いを邪魔せず引き立て合うように注意して選ばれたものであることが窺われた。
――しゃらくさい。
そんなことを思ってしまった自分が悲しい。
こんなに美味しいものを毎日作ってくれているのに。どうして私はこんなに捻くれてしまっているんだろう。
「智恵ちゃん、ありがとう」
「お姉ちゃん、早く早く」
父が食卓についた。すでに待ちきれないと言うような顔をした理恵が箸を配る。
智恵は食卓の隅に置かれたポットから、3人のコップに水を注いだ。ポットの中にはミントが浮いていて、数枚の葉は底に沈んでいた。植物には水が不可欠だけれど、それだって水没させれば死ぬ。
「智恵ちゃんはよく気がつくなあ。さあ、いただきますしよう」
父は笑った。耳の下まで伸びた、パーマの取れかけた髪。丸メガネ。智恵のお父さん、なんだかジョンレノンに似てきたね。これはオカちゃんの言葉。
いただきます、とみんなで声を合わせた。誰よりも先に自分の取り皿に焼きそばを盛り始めたのは理恵だった。幼稚園の頃、小学校のお受験前にはストレスでご飯が食べられなくなりガリガリに痩せたのが嘘みたいに、今はよく食べる。丸顔がさらに丸くなり、顎の下にちょっと肉がついてきた。
父はそれを目を細めて見ている。
「スーパーに行ったら、有機ライムが出ていたんだよ。だから今日はパッタイ。タイの焼きそばなんだけど、ナンプラーは使わずに普通に醤油で作ってみたから食べやすいと思うよ」
「美味しい!あたし玉子大好き!今日学校が半日でよかったね!」
理恵が口の端に卵をつけたまま言った。
口の中にまだ物が入っているのに、かっこむようにまた箸を動かす。
ほお袋をパンパンにしているハムスターみたいで、行儀は笑いが本当に可愛らしい。
智恵は注意深く焼きそばを取り皿に盛った。海老、玉子、ニラ、振りかけられた香草。それから副菜のイカとオクラ。細められたままの父親の目が、いつしか智恵の箸の動きに向いていることに気がついている。その目がまた理恵を向くまで、皿に焼きそばを取り続ける。一箸ごとに、空腹のはずの胃がぎゅうっと縮む。
「よかった。智恵ちゃん、今日は食べてくれるね」
口に運んだ海老の味が消える。丁寧に背ワタを取り除いて、酒を振って、ニンニクと油を馴染ませて焼いた海老。たぶん、冷凍でも養殖でもない。きっと高価な海老。家から車で15分くらいの所にあるオーガニックマーケットで買ってきたのだろう。美味しいのだろうが、なんだか砂を噛むみたいだ。
お父さんは私を監視している。私が、理恵みたいに太らないことを訝しんでいる。
お決まりの次の句がくる。そう思うと胃がひっくり返りそう。無理して口に入れたオクラがネバネバとまとわりつく。海老もまだ呑み込めない。
「女の子は少しふっくらしていた方が可愛いよ。痩せていると、ギスギスして見られるからね」
その言葉をお母さんに言ったいいのに。
いけない。そんなこと思っては。智恵は言葉が出てこないように、ライムをたっぷり絞った焼きそばを詰め込む。
母親の智美はスレンダーで背が高い。自分の体型管理ができない人間が人の成績の管理なんてできっこない。母ならそう言うだろう。彼女は中学受験対策の予備校講師で、算数を教えている。一昨年もその前の年も最優秀講師の表彰を受け、指導の研修をするために東京までよく呼ばれている。今日も休みだったのに、10時頃に予備校に呼び出されていったらしい。受験が近いから仕方ない。2月の勝者を一人でも多く出すために、やれることは全てやると母は意気込みをよく口にしていた。
2月の勝者。それは智恵もそうだ。
小学校までは公立で、いろいろな家庭の子がいるのを知っておきなさいというのが母の方針だった。確かにクラスには色々な子がいた。授業中に叫びだす、少し障害のある子も、体育の時間に校庭の隅に霊があると言って倒れる子も。
お金持ちも、毎日同じ服を着てくる貧乏な子も。頭が悪い子も、いい子も。必死で努力して頭がいい子でいる子も。
その頃の智恵は、お母さんは世界で一番頭がいいのだと信じていた。日本の最高学府を卒業し、仕事でも優秀な成績を上げ続ける母。母のようになりたかった。
母は智恵を予備校に通わせなかった。母の作った学習予定表に従って、智恵は4年生から受験勉強を始めた。スケジュールの中には休憩や遊びの時間もちゃんと取られていて、辛くはなかった。辛くはなかった、と思う。家族での遊びといえば、よくわからないボードゲームで、外出といえば科学館と博物館だったけれど。
母のすすめる学校を志望校とした。母が言うのだから、自分にはそこが一番合っているのだろう。
違和感が生じたのは、今になって思えば妹の小学校受験だった。
「理恵はおっとりしてるでしょう?公立だといじめられかねないから」
母はあっさりと妹を智恵が志望している学校の初等部に入れると言った。母との休日の科学館や博物館には理恵もついてくるようになった。
「どうしたの、智恵ちゃん」
箸が止まっていたことに気がついて、智恵は狼狽えた。口の中に残ったままの海老を、焼きそばをミントが浮いた水で飲み下す。臭みなどないように丁寧に下ごしらえされているはずの海老はなぜかひどく生臭い。
「ごめんなさい。今週の小テストのこと考えてて」
言い訳しようとして、被さってくる父の声が、ひどく沈んで震えさえ混ざった声が突き刺さる。
「美味しくなかった?お父さん時間はたくさんあるから、2人に喜んでもらおうと思って頑張ったんだけど」
「美味しいよ」
小さい声しか出なくて、これはまずいと智恵は思った。言い直す。「すごく、美味しい」
「すんごいおいしー」
理恵が頬っぺたを膨らめて頷いたので、助かった。
智恵は大皿の焼きそばを箸で自分の皿に移す。たくさん。たくさん。
皿の白い底が見える。パクチーとニラと、香辛料で汚れた皿が。
オカちゃんの家で読んだ雑誌には、マフィアの拷問に、自分が埋められる穴を自分で掘らされる話があった。この状況はそれに似ている。この家で、私は自分で自分の墓穴を掘っている。あるいは、ヘンゼルとグレーテルだ。でも魔女はいない。
智恵はまた水で焼きそばを飲み込む。胃が痛い。痛い。涙が滲みそうになる。智恵は「美味しい」と言って、無理に口の端を持ち上げた。
「よかった」父親が笑う。この人はなんで笑っているんだろう。
家には魔女はおらず、私たちはどれだけ肥えても食べられることはない。
それに、家には魔女を焼き殺す暖炉もない。
やっと焼きそばがほとんどなくなって、智恵ははち切れそうになった腹をそっと押させた。気持ちが悪い。早くオカちゃんの家に行きたい。
「また作ってね。ところで夕飯は何?」
「もう?理恵は本当に食いしん坊さんだ」
父親に両手で頬をぎゅっと押さえられ、理恵はキャハハと笑う。
幸せな家族の形。胃が痛い。食べたものが食道の方にせり上がる。
うつ病でシステムエンジニアの職を休職して、料理に目覚めた父、代わりにバリバリと稼ぐ母、可愛くて愛される妹。智恵は、そのどれもに馴染めない。
「あっ!もう12時30分だ。オカちゃんに勉強教えに行かないと。その後はバイオリンのお稽古に行くからそのままいくね」
智恵は今時間に気が付いたように声をあげる。
「理恵も行きたい!」
「お姉ちゃんはお勉強教えに行くんだから、だめだよ」
冷蔵庫の開く音がした。
父親が銀色のトレイを持っている。トレイにはいくつかのカップが載っていて、智恵は今度こそ吐いてしまいそうだった。だめ。強く念じる。智恵は頭のなかにその姿を描く。
「約束は1時だよね。みんなでプリンを食べてから行ったら?」
父はいつもこうやって選択肢を示すけど、イエスという返事しか許してはくれない。お腹がいっぱいだからいい、と言ったら、きっとまた「頑張って作ったんだけど」と言うのだろう。
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