下界人(5)

「うーん、分かりません!」

「えっ、これも?」

「すみません……。」


 私は罪悪感を覚えながら先生に言いました。


 今日は学院社交会前の身辺測定の日です。


 社交会一週間前に、自分を顧みる最後の時間。心身を検査し、社交会を万全の状態で臨むための測定です。


「で、ではこれは……?」

「え、ええっと……分かりません!」

「ええ!?これもですか!?」

「す、すみません!」

「い、いえ。謝ることでは……。」



 主よ、お許しください。

 本当は見えているのですが、でも今はどうしても〝あれ〟が必要なんです。



 先生は難しい顔で検査用紙を睨んでいました。


「こんな短期間でこんなに落ちるなんて……最近何か変わったことはありませんでしたか?何か悩みとか、体の不調などは?」

「あ、いえ。特にそういうのは。」

「そうですか?入学してからずっと視力三・〇だった貴女が、四月の測定から僅か半年程で〇・〇一以下まで落ちるなんて、何かあったとしか思えないのですが……。」

「そ、それはその……あっ!夜中に本を読むようになったので!」


 必死に言い訳を考えていたので、私は閃いた瞬間思わず両手をポンッと叩いてしまいました。


 その様子に、先生は怪しむように目を薄めてじっと私を見つめましたが、諦めたように溜息をついて用紙に視線を戻しました。


「暗い所で本を読んでもあまり視力は落ちないはずなんですが……まあ、心当たりがないのであれば仕方がありませんね。」


 先生を困らせてしまいました。


 本当にごめんなさい。

 でも、これで診断書さえ貰えれば〝あれ〟が手に入ります。


「ありがとう御座いました。失礼します。」


 先生から診断書を貰うや否や、私はすぐさま中央区画にあるレンズショップに足を運びました。


 道中では、知らない学生さん達が私のことを話しているのが聞こえました。


 男性物の服を買っているのを見た、廊下を走っているのを見かけた、料理の授業で作った物を食べずに持って帰っている等々――。


 最近では、立て続けに行動がおかしいと怪しむ人も出始めているようでした。


 普通の学生なら気にも止まらないことでしょうが、次期最優秀淑女であることがこんなところでも足枷になってしまうなんて――。


 こんなことならもう少しお勉強をサボっておくべきでした。


 今考えても仕方のないことに不満を覚えながらも例のブツを手に入れると、私はそそくさと寮の自室へと戻りました。


 その晩も私はいつものようにお弁当とブツを鞄に入れて洞穴に向かいました。


 部屋を出る際に今日こそはクリスちゃんに声を掛けようと思いましたが、こちらに背を向けてベッドに横たわる姿を見ると躊躇ってしまう自分がいて、結局何も言わずに出てきてしまいました。


 今もなお夜に抜け出している事がバレていないのは、いつも見回りで誤魔化してくれているクリスちゃんのお蔭なのに、私は日々広がり続ける溝を飛び越えられず、〝ありがとう〟の一つも言うことが出来ていませんでした。


「ファラさん?」


 洞穴に着くとファラさんは見当たりませんでした。

 一瞬不安になるものの、恐らく先日見つけたにいるのだろう、と私は洞穴を出て森の更に奥へと進みました。


 秋の虫たちの合唱に耳を傾けながら足下に注意して歩いていると、木々の隙間から月明かりが射すのが見えてきます。


 その光に向かって木々の間を通り抜けると、目の前にドウケツの洞穴の三倍はあるであろう大きさの湖が姿を現しました。


「きれい――。」


 他の場所は自然の屋根で覆われて真っ暗なのに、ここだけが月明かりに照らされている。


 湖面には、ほぼまん丸のお月さまが映し出され、虫たちの鳴き声が周りから溢れ出る――。


 それだけで神秘的に思えてしまうほどここは特別な場所に感じます。


「綺麗だよな、ここ。」


 気づけばファラさんの姿がありました。

 横で湖を眺めるファラさんの顔は、月に照らされているせいか洞穴で見た時よりも整って見えました。


「お髭、剃られたんですね。」

「カミソリ貰ったからな。この手で剃るのはかなり苦労したけど。」


 ファラさんはクスッと鼻で笑うと、左手を湖の方に向けてそれを愛おしそうに見つめていました。


 湖を見つけた日、その水で固まった血を洗い流して綺麗になったファラさんの両手に私は包帯を巻いてあげました。

 右手は付け根のところまで指が消失してしまっており、物を掴むのは無理な状態でしたが、左手は辛うじて第二関節くらいまではまだ指が残っていました。


「あれから痛みはないですか?」

「ああ。痛みは全く感じない。物を触った時の感触もないけどな。」


 ファラさんはきっと冗談のつもりで言ったんだと思います。

 けれど、手の触角を失ってしまった――それは想像できない程に苦労を感じているはずです。

 表には出さなくとも、私が考える以上にファラさんはきっとショックを受けていると思います。


「そうでした!私、今日は良いものを持ってきたんです!」


 感傷に浸るファラさんの横で、私は思い出したように鞄から昼間に買った〝あれ〟を差し出しました。


「これは……メガネ、か。」

「はい。これがあれば大分見えるようになるかと思って。ファラさんの場合は視力が衰えたというより、暗い所に何年もいて退化してしまったという方が近いと思うので、これで解決するかは分かりませんが……。」

「物は試し、か。」

「はい。」


 ファラさんは僅かに残った左の指で器用に黒縁のメガネを開くと、そのままスッとかけました。


「どう……ですか?」


 ファラさんは深刻そうな面持ちでじっとこちらを見つめたまま固まっていました。


「ファラ……さん?」



 やはり駄目だったのでしょうか――。



 そう思った時でした。

 ファラさんの目から一筋の雫が頬を伝って零れ落ちました。


 その光景に、私は胸がドクンッと大きく跳ねるのを感じては言葉を失ってしまいました。


「そうか、君は――」


 自分が泣いていることにも気づいていない……いいえ、きっとそんなことなどどうでも良くなってしまう程に、彼は今感嘆しているのでしょう。


「君は、こんなにも綺麗な顔をしていたんだな――。」


 ファラさんの手が私の頬に触れた瞬間、私は理解しました。


 この場所がなぜ特別に感じるのか――。



 ここだけ月明かりが射しているから?

 湖面に写るお月さまが綺麗だから?

 秋の虫たちの鳴き声が風情に感じるから?


 

 いいえ、どれも違います。違いました。


 この場所が特別に感じたのは、この場所を知っているのが私とファラさんだけだから――。



 いったいどれだけの時間そうしていたのか、はっきりとは覚えていません。


 お互いに恥ずかしくなったのでしょうか、気づいた時にはファラさんと私は湖を眺めていました。


「ファラさん、そこの岩に座ってくれませんか?」

「どうして?」

「切ってあげます、髪。そんなに長いと邪魔ではありませんか?」


 私がそう言うと、ファラさんはご自身の髪を手で掬いあげ、ツボを刺激されたかのようにクスッと笑いました。


 湖で体を洗うようになったからか、数日前まで油っぽくベタついて固かったファラさんの髪の毛は、傷みながらもサラサラとした滑らかなものになっていました。


 櫛ですいてからハサミを入れると、思っていた以上にあっさりと切ることが出来ました。


「ファラさん、お聞きしても?」

「ファラ。」

「えっ?」

「ファラでいい。ここまでしてもらっておいて今更〝さん〟付けもないだろ。」


 その進言には、正直戸惑いを隠せませんでした。


 学院に入学するよりもずっと前から人には敬称を付けるようにしてきました。

 それは当たり前のことで、仲の良かったクリスちゃんでさえ、私は呼び捨てにしたことなんて一度もありません。


 ですから、この提案は私の考えの外にある提案でした。


 クリスちゃんにも何度も指摘されたことはありましたが、これだけは私は譲ることはしてこなかったんです。


「確かに……それもそうですね。」


 けれど、この時は何故か私はすんなりと受け入れていました。


 こんな感覚は今まで経験がありません。

 心がときめくような、胸がドキドキするような感覚はガイラさんの時にも感じていました。

 ですが、何と言えばいいのでしょうか。形容しがたい、胸がモヤモヤとしてむず痒くなる、けれど嫌ではない。


 この感覚は初めてでよく分かりません。


「で?聞きたいことって?」

「あ、はい……ええっと――。」


 ファラさんに話を振られて我に返ると、私はようやく冷静になって本題に入りました。


「貴方のことを聞きたいんです。趣味とか、家族とか……それに、何を思ってここまで来たのか。下界のことは沢山教えてもらいましたが、ファラさん……ファラのことは私、まだ何も知りません。」


 止まっていた手を再び動かし、髪を切りながら私はそう口にしました。


 ファラは少しの間じっと切られるがままでしたが、襟足が整ったところでおもむろに話し始めました。


「趣味は、知らないことを知ること……かな。此処みたいに見たことがない場所を見ればワクワクするし、知識が増えれば世界の見え方も自ずと変わってくる。それを実感出来た時が一番楽しい。」

「分かる気がします。私も知らなかったことを知ったことで、最近は学院や国のあり方、その見え方が大きく変わって、疑問を感じることが多々あります。」


 ドウケツの洞穴の存在自体もそうですが、下界落ちに、主教様や王妃殿下のこと。


 知りたくはなかったけれど、知らなくても良かったとは思いません。


「家族は……父さんと、母さんがいた。」

「いた、というのは――。」

「ああ。二人とももうこの世にはいない。母さんは俺が物心つく前に、父さんは八年くらい前に。」

「ごめんなさい。」

「別に謝ることはないさ。人はいずれ死ぬ。父さんと母さんは、それが他よりもちょっと早かっただけだ。」


 ファラは懐かしむように空を見上げていました。

 私も寂しくなった時は夜空を見上げてお母さまを思い出します。

 だから、きっとファラもご両親のことを思い出しているのだと思います。


「あと聞かれたのは……ここに来た理由、か。」


 夜空の星が煌々と輝く中、再びファラは言の葉を紡ぎました。


「八年前の、あれは冬だったかな。掃除屋の爺さんが一冊の手帳を持ってきたんだ。」

「掃除屋ですか?」


 聞き馴れない単語に私は思わず聞き返しました。


「ああ。ドウケツの塔には【上界からの落とし物】を掃除する人達がいるんだ。」


 上界からの落とし物――ファラの言うそれが何を表しているかは、下界落ちの一部始終を見た私には一目瞭然でした。


 ですが、それを敢えて具体的に言葉にすることは怖くてとても出来ません。


「その時の手帳がこれ。」


 ファラは私の様子を気にかけながらも、服の内ポケットから赤いシミのついたボロボロの手帳を取り出しました。


「これは、父さんの手帳だ。次に行商から帰って来たら俺にくれるって、そう言っていたからよく覚えてる。」

「ファラのお父さまの手帳……でもどうして掃除屋さんがそれを?」


 本当は聞かなくても想像できていました。

 けれど、私はそれを信じたくなかったがために、己のエゴのために、ファラに言葉にさせてしまいました。


「その日ドウケツの塔は、血と肉片が飛び散って床や壁が汚れていた。そして、そこに父さんの服と、この手帳が落ちていたんだ。」


 ガイラさんの時もそうでした。

 私はなんて最低な人間なのでしょうか。


 人の心に土足で踏み入り、思い出したくもない過去を掘り起こしては、それを口にさせる――。


 この時ばかりは本当に自分が嫌いになりました。


「この手帳には父さんの手記が書き残してある。俺が上界を本気で目指そうと思ったのは、この手記があったからだ。」


 そこまで言うとファラは立ち上がって、私の手を両の掌で包むように握りました。


「そんな顔しないでくれ。」


 ファラの手は硬く冷たかったけれど、それでも温もりを感じます。


「父さんの手記を見たから、俺は今ここにいる。ここにいるから君と会えた。君は父さんが話してくれた通りの、俺の想像していた通りの人なんだから。」


 優しく微笑むファラの顔を見て、私はようやくモヤモヤとチクチクの正体を、自分の気持ちを自覚しました。



 私は、ファラのことが好き――。


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