第38話 迷い子(後編)
「なるほど。つまり君は何も手出ししてないと主張する訳だね?」
「当たり前だ。俺はちょっと厳しく注意しただけなんだからな」
空が茜色に染まり始める時間帯。元気な子供が帰り道を急ぐ様はのどかで温かい。
だが街角の小さな交番では、外の風景に似合わない物騒な問答が行われていた。
相手からの確認にぶっきらぼうな態度で答えたのは、学生服を着た大柄な高校生。潮山千次だった。
その姿には殴られた跡が幾つもある。通りすがりに誉められない行為を見かけて気紛れに口出ししたところ、口論から喧嘩騒ぎに発展し、結果的にこの状態になったのである。
対面に座る年上の男性警官は書類を見ながら顎髭をいじっていた。顔を苦くして悩んでいるが、目の前の少年に対する不満や悪感情は無い。千次の言葉に納得していないのは立場上の都合のように見える。
「しかしだねえ、相手方は怪我をしていて、君に因縁つけられたと言ってる訳で」
「知るか。自分ででっち上げたんだろ。俺はやってねえんだから」
千次は何を言われても態度は変えず、意見も曲げない。自分が正しいと知っているからこそ。彼は殴られたが、一度もやり返してはいなかったのだ。
とはいえ、警官相手にそれだけで通じる道理は無い。困ったような顔で話を続けてくる。
「それじゃあ、話は終わらせられないねえ。久しぶりといっても、君は今まで色々とやらかしてるから……ん?」
その時男性警官が仕事を中断したのは、近付いてくる騒がしい足音に気づいたからだ。千次も同じく注意を引かれ、二人揃って交番の入り口を見やる。
そこには勢いよく室内に飛び込んできた人物――快活そうな印象の中性的な少女がいた。
息を切らせている彼女は、それを整えもせず叩きつけるような強さで叫んでくる。
「すいません! ウチの部員引き取りに来ました!」
「コーヒーでもどうだい?」
「…………どうも」
月も雲に隠れた寂しげな夜。一本の電灯が照らすだけの暗い公園のベンチに、男が二人。
穏やかな顔で缶コーヒーを差し出す壮年と、苦い顔つきで受け取る若者。そこには正反対の雰囲気があった。
千次は促されるまま、大人しく警官についてきていた。
彼女を知る人物。ただそれだけ。なのに、彼に一体何を求めているのか。あれだけ激しく問い詰めておきながら、自分でも分からない。突発的に生まれた熱はもう冷めてしまっていた。
しかし、どうしても立ち去れない。聞かなければならないという予感はまだあるのだ。自分は彼女を裏切った、救われてはいけない外道なのに。
故の、沈黙。
受け取ったコーヒーもそのままに、じっと地面を見つめる。千次は矛盾した困惑に、ただただ弄ばれていた。
それを察したのだろうか。警官の方から穏やかに話を切り出してくれる。
「さて、まずは……オジサンが誰で、何をどこまで知ってるか、だったね。ま、誰か、って事に関しちゃあそんな大層な話じゃないよ。今より若いお前さんがやんちゃしてた頃も知ってる、ただのお巡りさんってだけさ」
不意を突かれた千次は無意識に顔を上げた。
やんちゃしてた頃。つまり、高校時代。それはそれだけ大切で、だからこそ捨てて忘れてしまった期間だった。
警官の顔をまじまじと見て、記憶を探り、そしてようやく思い至った千次は納得して声をあげる。おぼろ気だが、確かに独特の馴れ馴れしさは昔にも経験していたのだ。
思い出せば警戒は緩む。
「……ああ。だから昔話か……」
「納得してくれたかい。なら……その先の話をしようか」
とはいえ、その馴れ馴れしさは一旦見えなくなった。
固い顔をやや伏せ気味にし、声のトーンも落とす。単に真剣になったのではない。それには悼みの感情が表れていた。
「彼女……エンカウントで亡くなっているね」
「……はい」
「でもお前さんがそうなったのは、それだけが理由じゃあ、ないんだろう?」
「……っ!」
一度は反応を殺した千次も、二つ目の問いかけでは隠しきれなかった。
声にならなかった息を漏らし、目を見開く。明らかな動揺。いざ他人に指摘されると揺らいでしまうらしい。
自分で外道だと言っていた癖に。
内心で自嘲し、薄ら笑いを浮かべた。端から見れば不気味で狂気すら感じる程のものを。
ただ、警官はそんな彼を見ても微動だにしなかった。むしろ千次を落ち着かせるように、ゆっくりと優しさすら込めて言葉を紡いでいく。
「彼女の事件の記録を見たけどね、お前さんの証言はどうにも不審だった。そしてお前さんはその後、明らかに人間相手を想定した特訓をしていた。その時期、『何かに取り憑かれているみたいだった』、『鬼の形相という感じで恐ろしかった』なんて証言もある」
全て心当たりのある事実だった。一度動揺した千次はもう、これ以上揺らがない。話が進む毎に覚悟を固めていく。
そして遂に、結論。警官は話し相手を見ず、前を向いて、確信を持った調子でそれを告げた。
「彼女を殺めたのは魔物じゃなくて、人間だったんだろう?」
「ああ、そうだ。ソイツを、俺は殺した」
真実を言い当てた警官の言葉に、間を置かず千次による淡々とした自供が続いた。
完全に見抜かれていると察した事もある。逃げられないと覚悟していた事もある。
だが、躊躇いなく罪を認めたのは、やはり裁かれたかったからか。
これで迷う必要はなくなる。晴れ晴れとした心地よい気分で、罰を待った。
しかし、罪人に対して警官がしたのは、完全に予想外の行動だった。
「済まなかったね。大人が不甲斐ないばっかりに」
遥かに年上の男が頭を深々と下げたのだ。
しかもその時間は長く、なかなか顔を上げない。背中が発言よりも多くを語っている。
その行為には本気の謝意があった。
だが、千次としては戸惑うばかりだ。
確かに復讐の決意をした理由は、殺人者が法で裁かれない事もある。だからと言って警察や司法を恨んではいないのだ。
だから彼は逆に居たたまれなくなる。
「俺は、ただの犯罪者で、あんたがそんな事する価値は――」
「いや、違うよ。お前さんは犯罪者じゃない」
予想外の否定は後頭部から聞こえた。
呆気に取られ言葉に詰まる千次の前で、ようやく警官は体を起こす。その顔には気安い飄々とした笑顔が戻っていた。
「やれやれ、新聞もニュースも見てないのかい。ま、おれも若い頃はそうだったがな。新聞で見てたのなんてテレビ欄と四コマ漫画だけさ。ほれ、仲間だ仲間」
「……和ませようなんてしなくていいです」
「やれやれ、せっかちだねえ。分かってるなら無駄にしないでほしいんもんだが」
カラカラと笑っていた警官だが、千次が促すと居ずまいを正した。それから気軽な笑みをたたえながらも、真面目な口調で語り出す。
「大人もね、頭の固い人間ばっかりじゃない。刑法は改定されたよ。エンカウント中での殺人も裁判で真面目に議論出来るようになった。そういった事件を捜査する組織も近々出来るだろうね」
「それじゃあ、余計俺は犯罪者に」
「遡及処罰の禁止。ってのがあってね。法が制定される前の行為は刑事上の責任を問われない。だからお前さんは、犯罪者じゃあないんだよ」
千次が無駄な彷徨をしている間にも、世界は大きく変化していたらしい。
実に喜ばしい報せだろう。多くの人間にとっては。
だが遅れてその報せを迎え入れた千次は、むしろ逆に気分が重くなる。この変化は償いの機会が無くなった事を意味するのだ。
一瞬にして憔悴したような顔になり、疲れきったように項垂れた。そして酷く弱々しい呟きを漏らす。
「それは……でも、俺は、駄目なんです。俺は……」
「そうかい。自分で自分を許せないのか。じゃあ、小難しい法律の話なんざ止めて……もっと難しい、人生の話をしようか」
興味を引かれる言い回しと内容に、思わずそちらを見上げる。
そこにはやはり、毒気を抜かれるような顔があった。憔悴した若者を自然に揺すり起こしたそれは、まさに救い。
奈落の底に垂れる救いの糸に感じられた。
「お前さんの例に限らず、どんな人間の罪も決して消えるもんじゃない。だから、その後をどう生きるかが重要なんだろう?」
「分かってますよ。俺は、幸せになってはいけない人間なんです」
「へえ。でもそれはお前さんの意見だろう。他人は、例えば……彼女は、本当にそう思ってるのかい」
「……分かる訳、ないでしょう。死人に口無し。それを生きてる人間が勝手にでっち上げるなんて、そんなの冒涜です」
千次は警官から目を逸らしつつ、キッパリと断言した。その顔が自嘲に歪んでいたのは、既にそれをしてしまった後だからだ。
「確かに勝手にでっち上げるってのはよくないねえ。だがね、お前さんなら分かるだろう。いや、お前さんだけだろう? それを知ってる、人間は」
「だから……俺にそんな」
「お前さんがもう少し若くてやんちゃだった頃」
否定しようとした千次を遮ったのは、やけに強調しながらの神妙な声音。わざとそうしているのか、やけに耳へと響く。
気になって再び横を向くと、二人の視線が交差した。少し印象の変わった、不思議と目の離せない瞳と。
「なんだかんだと問題を起こしてた悪ガキはだんだん問題を起こさなくなって、とうとうある日を最後に来なくなった。それは、お前さんの為に走ってくれる人がいたからだろう? だから……おれがもう世話する事はないと、思ってたんだがねえ」
言葉に過去を意識させられ、寂しげな笑顔に記憶を刺激される。捨ててしまった思い出から、覆い隠していた余計な異物が剥がれていく。
そこからは自ら積極的に過ぎ去った道を辿り、その光景を求めた。歴史ある絵画を修復するように、色褪せた思い出を拾い上げて再生させていく。
そしてノイズが消え失り、千次は回想する。愛おしい、高校生の頃の話を。
問題を起こさなくなったきっかけは、千次に非の無い件で交番に呼ばれた日にあった。
彼が無実を主張していたところ、突然彼女が交番に現れ、探してきた喧嘩騒ぎの目撃者に証言してもらい、千次の潔白を証明したのだ。汗だくで息もあがった、懸命に走り回ってくれたのが用意に想像出来る姿で。
なのに帰り道では平然としていて、千次は困惑し疑問を抱いたのだ。
『いやー、大変だったなあ。でも良かったよ、思ったより早く帰れて』
『……どうして、そんなに、そこまでしてくれた? 俺はお前に迷惑かけたってのに……』
『おかしな事言うなよ。部長が部員を助けるのは当然だろう?』
『んな建前は要らねえ。そもそも……なんで、俺に構った?』
『……なんでって、まあ、前から色々聞いてたんだよ。友達とかから、やり方と口は悪いけど、弱い人を助けてくれた奴がいるってな。でも本人はいつも苦しそうな顔してるって。だから、助けられた人たちの代わりに、あたしがその助けになろうと思ってな』
『……暴れたら結果的にそうなっただけだ。誰も救われてねえ時もあった。そんな奴に助けなんて、許されねえよ』
『なら、あたしが許す』
『は?』
『あたしが許してやる。ずっと園芸部で頑張ってたおまえを見てきた、あたしがな』
『………………はっ。今更……やり直そうなんて、虫がよすぎんだろ』
『別にいいんじゃないか? 虫がよくても。間違いも、失敗も、やり直せるんだ。なんせ、お前が見ても……あの作り直した花壇は悪くなかったんだろう?』
強引とも言える主張を言い切った彼女は爽やかに笑っていた。太陽のような、花のような、温かみのある優しい笑顔で。
その輝きを見た千次は思ったのだ。彼女を決して裏切っはならないと、そう強く。
一度は捨てた過去が鮮明に蘇った。
彼女が与えてくれた答え。千次はこの時に本当に救われ、彼女は彼にとって喪失が堪えられない存在になったのだ。
どうして忘れていたのか。
復讐に取り憑かれていた時は、憎悪が――目的を遂げた後は、自己嫌悪と罪悪感が――塗り潰してしまっていたせいか。
全く酷い言い訳だ。
それこそ彼女に顔向け出来ない。冒涜している。
無駄な事をする暇があるなら、さっさとやり直せばいい。
答えは既にあったのだ。残してくれていたのだ。ずっと近くに。目を逸らしていただけで。
だからもう彷徨うだけの日々は必要無い。
ならば、この先は――
「済まなかったねえ」
物思いにふけっていた千次は、その声で我に返る。
見てみれば、いつの間にか警官はベンチを立っていた。
「つまらない話を長々としちまって」
「はっ!? いや、そんな事は!」
「いやあ、気は遣わなくていい。つまらなくて眠いんだろう? なんせ、涙が出るほどでっかい欠伸してんだから」
「っ!」
見に覚えのない発言で頬に手をやり、ようやく気づく。
千次は泣いていた。とめどなく涙が溢れ、顔や服を濡らしていく。
その滴は怒りも怨みもない、透明感のあるもの。千次は今になって初めて、純粋に彼女の喪失を悲しんだのかもしれなかった。
それは全て、お節介な一人の男のおかげだ。
彼なりの気遣いで立ち去っていくのだろう警官を、千次は慌てて呼び止める。
「待ってくれ! あんた、どうして俺にここまで構った!?」
「どうして? お前さん、おかしな事を言うねえ」
警官は振り返らぬまま、立ち止まらぬまま、背中から語る。
「迷子に道を教えるのだって、お巡りさんの立派な仕事だろう?」
茶化した言葉を最後に、懐かしい顔の恩人は去っていった。
そして残るは、千次一人。
夜風が吹いた。
冷たくも爽やかなそれは涙を乾かし、雲を流して月光を呼び込む。
千次は顔を乱暴に拭って前を向いた。立って歩き出せば、その足取りは力強く頼もしい。
彼はもう、生きた人形でも彷徨う幽鬼でも足掻く子供でもない。歩む道を定めた、一人の男だった。
こうして潮山千次は、復讐の為に身に付け、自分勝手に使った力を、真っ当に役立てられる道を目指し始めたのだ。
彼女のくれた答えを、確かな道標として。
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