第27話 家族
「なあ、今日も来たよ。お見舞いも持ってきたんだ。喜んでくれるかな」
「ママ。わたしね、ピアノのはっぴょうかい、がんばったんだよ」
病院の清潔なベッドに横たわる妻へ、私とまだ幼い娘が話しかける。
しかし、眠る妻は無反応。ピクリとも動かない。
分かっていた事だが、それでも胸が締め付けられる。娘も泣くのをこらえているような顔をしていた。
妻はもう、何年もずっと目を覚まさない。意識が無く、医療機器に頼った状態で生きている。
階段で足を滑らせ、脳を酷く損傷してしまったのだ。
医者も手は尽くしているものの、未だ回復の兆しは見られないらしい。
それでも私達は望みを捨てず、こうして定期的にお見舞いに来ている。
たが、ここ最近はあの「世界の変化」でゴタゴタしており来られていなかった。
エンカウントに関連した情報の把握、様々な制度の開始。なにより、魔物という危険から娘を守るだけで精一杯になっていたのだ。
その変化の影響で、病室前にも護衛だという若い男性がいた。病院が患者の為に雇っているのだろう。
エンカウントの際、あまり人数が多くても危険だが単独でもやはり危険。常に二人以上でいるのが安全というのが定石になりつつある意見だった。
護衛の彼と少し話したところ、あまり多くは語らなかったが好人物に思えた。妻の様子についてはあからさまに避けていたが、それも私達への配慮だろう。
そんな激動の日々もようやく落ち着き、今日は待ちに待った久しぶりの再会だ。
だから私達は以前のお見舞いよりも積極的に話しかる。近況を報告し、二人暮らしの大変さと寂しさを語る。例え返事すらないとしても。
そうしていれば、いつか目を覚ましてくれる――だとか、そんな意味は求めていない。
ただ、こうして家族三人、同じ時間同じ空間で過ごせるだけでよかった。それだけで幸せを感じられる。無論回復してくれる事が一番だが、生きていてくれるのなら希望はあるのだ。
勿論不安や恐怖はある。
いつか、目を覚まさないまま旅立ってしまうのではないか。
そんな悪い想像を押しとどめ、なるべく明るく話しかけ続ける。その方が妻も喜ぶだろうから。
これは胸にポッカリ空いた空白を埋める、家族行事だった。
ところがそこに、忌ま忌ましい邪魔が入ってしまった。
憎き邪魔者の正体はエンカウントだった。
病室から魔界へ。白い清潔な部屋から暗く気味の悪い場所へ。
この落差は、妻の症状を初めて聞いて絶望に叩き落とされた時のよう。
太ったコウモリのような魔物を、私は憎しみの込もる目付きで睨んだ。
それから味方の陣営を確認する為に辺りを見回すと――
「あ……」
私は言葉を失った。
夢か奇跡か。
信じがたい衝撃のあまり表情は固まり、もっと近くで確認したいのに一歩目すら踏み出せない。
もし幻だとしたら。そのような恐怖が証明を避けているのか。
まるで人形のように立ち尽くし、呆然と目の前を見ていた。
エンカウントについては未だ謎だらけである。
巷で常識とされている情報はほとんどが推測。確かな手がかりは、あの日魔王が語った内容だけだった。
――一方的な殺戮は我々とて望んでおらぬ。
――戦士の姿を与える。
魔界での体は本来のものとは別。身体能力は高く、生身が怪我をしていてもエンカウントでの活動に支障はない。
これは判明している内でも基本的な事実。
だが、その本質は魔王の慈悲ではなく、どんな状態の人間だろうと例外なく戦いから逃がさない為の枷。悪趣味な呪いであり、本来なら忌避するような、悪意により生まれたものだ。
だがそれが、悪意とは真逆の奇跡を起こしたのだった。
呆然とする私を叩き起こすように、地を蹴る音が鳴る。
私のように信じられないと疑わず、事態を素直に受け入れていた娘のものだ。歓声をあげ、全力をもって「彼女」へと抱きついていく。
「ママ!」
「大きくなったわね、ちーちゃん」
私達と同じく鎧を着こんでいるので初めて見る姿だったが、見間違えようもない。
そこには妻がいた。
目を開け、両足で立ち、優しく微笑むもう一人の家族が。
「来てくれてたのね。二人とも」
「うんっ!」
「あ、ああ……」
娘と違い、私の返事はぎこちなくなってしまったが、それも仕方ないだろう。もう二度と聞けないかもしれないと思っていた声を聞けたのだから。
だが非情に残念な事に、喜んでいる場合ではなかった。
「ママ、あのね、わたしね……」
「待つんだ。魔物がいる。のんびり話す余裕は……」
嬉しそうにはしゃぐ娘を止め、敵を警戒する。
折角の再会。堪能したいのは山々だが、そうもいかないのだ。悔しい思いで奥歯を噛み締める。
せめてもう少しだけでも。名残惜しさに、妻と娘の並ぶ姿を脳裏に焼き付けようとする。
「ああ、安心して下さい」
そこに、爽やかな声が割り込んできた。
その主は病室の前で見た護衛の男。失礼な事に長らく無視してしまったが、ずっと近くにいたのだ。
彼は魔物がいる方向を油断なく見据えながら、思わぬ提案をしてくる。
「僕が一人で抑えます。どうぞあなた方は家族の再会を」
「な……いや、そんな無理をさせる訳には……」
「いえ。僕なら平気ですよ。これも仕事の内ですから。では」
そう言った若者は一人で巨大コウモリめいた魔物へと駆けていった。自信に満ちた、頼りがいのある表情を残して。
有り難いが、申し訳ない。限られた再会の為とはいえ、彼を危険にさらしては……。
葛藤しつつも見送るしか出来ない私の肩に、ポンと優しい感触。続く声で、妻が肩に手を置いてきたのだと気づく。
「ここは甘えましょう。大丈夫よ。あの人は強いもの。ずっと助けられてた私が保証するわ」
「……むぅ、そう言われても……いや、ずっと助けられてた?」
「ふふ。ヤキモチ? この年になってもまだしてくれるのね、嬉しいわ」
柔らかく微笑む妻は、数年前に見たままだった。温かく優しく見守る、母としてのそれだ。
目にした私と娘までつられて笑みが溢れてくる。そして。もっとこの時間を過ごしたいという欲も。
『僕が一人で抑えます。どうぞあなた方は家族の再会を』
ここは、あの優しい青年の気持ちと言葉を信じ、遠慮なく受け取ろう。
「色々と言いたい事はあるけど……まずは聞かせて。どんな事があったか。私のいない間の、家族の話を」
「うん! いっぱいあるんだよ、ママにはなしたいこと!」
護衛の彼の気遣いに感謝して、私達三人家族は会話に花を咲かせた。
「
戻ってきた病室で愛しい名を呼ぶ。
しかし返事は返ってこない。ベッドにはやはり、目が開く事のない妻がいる。
何も変わらない、静かな病室。
これでは、あちらの世界での出来事は全て夢だったのかとも思えてくる。あるいは寂しさのあまり自分で作り出してしまった幻ではないかと。
だが、そんな心配は、
「パパ。ママ、げんきだったね」
「ああ。そうだね……」
娘の笑顔が振り払ってくれた。随分と見ていなかった、影のない純粋な笑顔が。
あの幸せな時間は確かに現実としてあったのだ。
確信した私に、今日ここに来た時にあった不安や恐怖の気持ちはもう欠片もない。
これからは確かな理由を持って、生きていける。
だから――
私は、魔王に感謝する。
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