第16話 皇帝の片鱗

 対峙するルビスホーンは、ぶるるんと異様な鼻息を漏らした。

 黒毛に覆われた巨大な体格。

 血を煮詰めたかのような赤い瞳は、見ているだけで心を恐怖に包まれる。

 リタの呼吸は止まっていた。

 それとは対照的に、手足はぶるぶると震えている。

 でも、決してほうけていたわけではない。

 リタの瞳はルビスホーンの口元――。

 そこから垂れ流された唾液へと向けられていた。


(あの唾液が……紫毒花ルビドプリエフの解毒薬の代わりになる……)


 ――か、どうかは正直なところ定かではない。

 それはリタの曖昧な知識が弾き出しただけの、不確かな希望論。

 しかし、今のこの状況においてはその希望にすがるしかない。

 試さなければ、そもそも可能性はゼロなのだから。


 ぶるるん、と興奮したルビスホーンの鼻息。

 口から垂れた唾液が、足元の草にべったりとかかるのをリタは見る。

 それを確認して、リタは口を開いた。


「呼び出しておいてすみません。でももう、お前に用はありません」


 言葉など通じるはずもないのに、リタは声を発する。

 意地と気合いで、恐怖を誤魔化し。

 巨悪たる魔法生物に、虚勢きょせいを張りながら対峙たいじする。

 逃げてはいけない。

 怯えてもいけない。

 私はお前よりも強いんだ。

 だから今すぐここから逃げろ。

 そんな嘘まみれの気迫を込めて、リタは視線でルビスホーンの瞳を射抜く。


『ぶるるるる……っ!!』

「――ぅ」


 しかし、相手はこの愚者の森に住まう凶悪たる巨馬きょば

 戦いを知らない少女が見せた気勢きせいなど、見抜く必要すらないのだろう。

 不快な相手ならばこのひずめで踏み潰し――。

 強靭な歯で頭蓋を噛み砕くのみだと。

 そう言いたげにいなないたルビスホーンに、リタは一歩だけ後ろに退がる。

 だが――。


「わ、私は退けません。だからお前が退いてください!」


 それでもリタは逃げなかった。

 怖い。

 怖くて怖くて仕方ない。

 でも、目の前の巨馬きょばよりも、もっと怖いことがあった。

 エイトールを失うこと。

 あの笑顔がもう見れなくなること。

 それのほうがリタには恐ろしかった。


『…………』

「――っ?」


 と、そこで不思議なことが起きる。

 必死の勇気をかき集めた踏み出したリタの一歩。

 それと共に、ルビスホーンの四本足が一歩後ろへと退がったのだ。


(……私の虚勢きょせいが効いた?)


 と、考えるのは楽観に過ぎるだろう。

 野生動物の感覚は鋭敏えいびんだ。

 弱肉強食の大自然を生きる彼らは、研ぎ済ました本能がそのまま生存に直結する。

 リタのハリボテの虚勢きょせいなど見破って当然だろう。

 ならばどうして、ルビスホーンは一歩退いた?


(もしかして……)


 リタが思い出したのは、幼き日の記憶。

 大好きだった母が教えてくれた、イスカ皇族が持つ不思議な能力。


『いいかい、リム。イスカの皇族には覇風はふうと呼ばれる不思議な力がある』

『はふう……?』

『そう。これは他者を平伏へいふくさせる皇族の力。人の上に立つことを義務付けられた私たちが持つ無慈悲の異能。私たちの声には、視線には、態度には、他者を圧倒させる何かが宿っている』

『そうなのですか? 私は自覚したことはありませんが……』

『それはまだリムが皇族であることに自覚がないからだよ。人の上に立つことを決めた瞬間に、お前はその力に目覚めるだろう。いや――』


 大きな母の手がリタの頭の上に乗る。

 くしゃくしゃと髪をかき混ぜられる。


『お前は優しい子だからね。もしかしたら他者を威圧させるこの力にはなかなか目覚めないかもしれない。でも、覚えておくんだよ。この力は決して誰かを傷つける力じゃない。大切な人を守るため、そのための道を切り開くための手段なんだ』

『……?』

『ふふっ、今はわからなくていいさ。でも、お前に大切なものができた時、力を使うことを躊躇ためらうんじゃないよ。弱ければ何も守れない。後になってから後悔したって遅いんだ。失ったものは戻らないからね』


 追憶から帰還したリタは、カッと目を見開く。

 そうして一歩を踏み出した。

 ザンっ、と強烈な足音をそこに響かせて。


「イスカ帝国第四皇女リムスフィア・アルムス=プルミアーナが命じます!」


 本人の自覚もないところで、彼女の身体には魔力の衣が纏わりついていた。

 金色の王冠と、炎を思わせる豪奢ごうしゃなマント。

 それを幻視げんしさせる魔力の渦に身を置いて、リタは力強く命じる。


「ルビスホーン! 今すぐこの場から去りなさい!」


 ビリビリっ、と大気が震えた。

 戦いを知らない少女が出すには相応しくない威圧。

 それが確かに、リタの身体からは溢れていた。


『…………』


 その威圧を一身に受けたルビスホーンはゆっくりと後退する。

 視線はリタへと向けたまま――。

 しかし着実に、ひずめが地面を踏む音と共に森の奥へと。


(やった……!)


 それを見て、リタはほっと息をついた。

 ほんの一瞬だが、安心してしまった。

 ふわっと、魔力の衣が虚空こくうに消える。

 大気を震わした圧倒的な威圧が消える。


『――ぶるるるるるっ!!』

「――!?」


 瞬間、ルビスホーンはリタに向かって駆け出した。

 こんな小娘にビビっていた自分が信じられない。

 そんな過去を打ち消すようにリタに向かって尖った一本角を向ける。

 きらりと輝くその角を見て、リタの心臓が恐怖で跳ねた。


(そ、そんな……)


 自分が死ぬのはまだいい。

 でもそれでは、エイトールが助けられない。

 今もまだ苦しみながら、自分の帰りを待っている友人を助けられない。

 それはダメだ。

 絶対にダメだ。

 でも目の前の現実は、リタのそんな想いを易々やすやすと貫いて――。


『きゅう!』


 突如、それは現れた。

 ルビスホーンとリタの間。

 今まさに衝突しようとしていた獣と人間の間に――。

 尖った耳を持った、真っ白い狐が。


「え……?」


 リタの口からほうけた声がこぼれる。

 だって、あり得ない。

 現れた白い狐。

 自分の膝下までしかないその小さな体では、ルビスホーンの突進に吹き飛ばされて終わりだ。

 なのに、どうしてだ。

 どうしてルビスホーンは、その狐の前で立ち止まった――?


『……ぶるる』

『きゅう!』

『……ぶるるん、ぶるるん』

『きゅう、きゅう!』


 会話……をしているのだろうか?

 目の前で鼻先をぶつけ合うルビスホーンと白い狐が鳴き声を交差させる。

 当然ながらリタには何を言っているかわからない。

 だが、不思議なことに――。

 狐と鳴き声を交わすたびに、ルビスホーンの敵意がしぼんでいくのだ。


『……ぶるるん』


 そしてついには、ルビスホーンは狐に背を向ける。

 そのままひずめを鳴らし、森の奥へと消えていった。

 残ったのは異様な静寂。

 呆けたままのリタと、その周りを無邪気に跳び回る白い狐のみだ。


「お、お前が助けてくれたのですか……?」

『きゅう!』


 リタが問いかけると、白い狐は「褒めて褒めて!」とでも言いたげに頭を差し出した。

 戸惑いながらもリタはゆっくりと手を伸ばし、狐の頭を撫でる。

 ……不思議だ。

 ここは愚森ぐりん

 危険な魔法生物が棲まう弱肉強食の緑の世界。

 見た目は可愛いこの狐も、もしかしたら凶悪な力を持つ魔法生物かもしれない。

 でも――。


(このは……なぜだか信用できる気がします……)


 その理由は説明できない。

 でも撫でられて、気持ちよさそうに目を細める狐。

 この子のおかげで危機を脱したのは紛れもない事実だ。


「ありがとう、お礼を言いますね」

『きゅう!』


 返事と共に、狐はひょこんっと尖った耳をまっすぐに伸ばした。

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