第6話 流した涙のその先で
リタは林の中を逃げていた。
嗚咽を漏らしそうな口元をキッと結び、ただひたすらに前を向いていた。
諦めてたまるかと、この不遇の状況へと文句のひとつも漏らさずに。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
学園の制服、特に厚革のブーツを履いていたのは救いだった。
もし外出用のドレスやヒールのついた靴であれば林の中を駆けることはできなかっただろう。
しかし――。
「おい、こっちに人が通った
「――っ!」
林の中に響いた声に、リタは心臓を跳ねさせる。
つまり鍛え上げられた騎士から逃走し切るのは、贅沢な妄想だった。
「見つけたぞ!」
騎士の声に続いて――ビッ! と、風のしなる音が聞こえた。
瞬間――リタの肩に灼熱の感触が――。
まるで焼けた鉄を押しつけたかのような痛みが突き刺さった。
「ぃうっ!?」
落ちていた枝たちに肌を擦って、身体のあちこちに傷を作る。
特に矢の刺さった肩からは、ドロドロと血が溢れていた。
痛い、痛い、痛い……!
手足が痺れてくる。
涙で視界が霞む。
立ち上がりたくない。
立てばまた弓に狙われる。
痛いのは嫌だ。
でも――!
「わ、私が諦めるわけにはいきません……!」
自分の命はもう、自分だけのものではない。
リタは自分のために命を賭けてくれた魔術師の顔を思い出す。
皇帝になってください、と。
そう願いを込められたルミエラの瞳を思い出す。
逃げてはダメだ。
たとえ、皇帝になれなかったとしても――。
最後まで、諦めることだけはしてはダメだ――!
「はぁ、はぁ……!」
リタは肩を押さえながら走る。
歩くような速度ではあったが、それが今のリタの限界だった。
後ろで「生きてるぞ!」という声が聞こえた。
ビッ! と、再び風のしなる音。
今度はリタの真横にあった木の幹に、ビンっ! と、矢が突き刺さった。
心臓が急速に
恐怖で身体の筋肉が
「はぁーあ、まったく。こんなに逃げないでくれよ、どうせ無駄なんだから」
「――っ!」
いつの間にか目の前に、騎士がいた。
顔の半分を焼かれていたその男は面倒臭そうに頭を掻きながら――。
「余計な時間を食ったもんだ。これじゃ酒場がやってる時間までに街に戻れねぇかもしれないな」
「……!」
男の言った言葉が信じられなかった。
人の命を奪う、その間際――彼は今夜の酒に当てをつけている。
嫌悪感で吐き気が込み上げてきた。
世界にはこんなにも
「――っ」
悔しかった。
こんな男に自分の人生が摘み取られるだなんて。
こんな男のせいで皇帝としての道を断たれるだなんて。
申し訳なかった。
自分を次代の皇帝と指名してくれた母に。
自分を逃すために命を賭けてくれたルミエラに。
だからせめて、俯くことだけはしなかった。
血走った男の目を睨み返しながら顔を上げた。
それは、最後まで自分は諦めなかったと――そう主張する細やかな抵抗。
この心は屈しなかったと、自分の魂を誇りながら命の最後を迎える。
それこそが、自分のために命を賭けてくれた人たちへの礼儀だと思ったから。
「……気に食わねぇ目だな」
ただそれだけの感想を呟き、騎士は剣を振り下ろす。
怖かった。
けど、目は
そうして呆気なく、騎士の剣はリタの首を斬り落とし――。
「リタぁああああああああああああああああああああああああっ!!」
その間際だった。
風の速度で駆け抜けた少年が、飛び蹴りで騎士の首を砕く。
振り下ろしていた剣ごと吹き飛んだ騎士は遠くの木の幹に身体を打ち付けて、地面に転がった。
その首をあらぬ方向へと曲げたまま。
「え……?」
リタの唇から、驚きの
だって、あり得ない。
凍った思考がゆっくりと動き出し、その光景をひたすらに否定する。
あり得ない、あり得ない、あり得ない。
自分の死に際に見た幻想だと言われても仕方がない。
だって、だって、だって――。
どうして、あなたがここに――!?
「……エイトール?」
「おう、どうにか間に合ったみたいだな!」
もう二度と会えないと、そう思っていた友人の顔がそこにはあった。
きっとこれは夢に違いない。
そう思っても、そう思い込もうとしても――。
目の前の少年の声を、瞳を、笑顔を、間違えられるはずがなかった。
エイトールだった。
目の前にいるのは間違いなくエイトールだった。
「ど、どうしてお前がここに――っ!?」
「いやぁ、本当は宝石を渡すだけのつもりだったんだけど――っと!」
エイトールが咄嗟に右腕を水平に伸ばす。
そのまま、バシっ! と、リタに向かって飛んできた矢を掴み取った。
「はっ、え……?」
「おい、殺気くらい隠せよ。こんなん俺じゃなくても止められるぞ」
そんなわけない――と、リタは思う。
飛んできた矢を素手で掴み取るなど、そんな超人的なこといったい誰ができるのか。
奇跡にも近い何かを目にし、放心しているリタの目の前で――。
再び、バシっ! と、エイトールは飛んできた矢を掴み取る。
「――そこか」
そして、飛んできた矢から敵の位置を探ったエイトールは駆け出した。
その凄まじい踏み込みで、地面が盛大に
一直線に
草陰に隠れていたその
現実を認められない、そんな呟きを残していった。
「んー、気配的にもう敵はいないな。良かった、間に合って!」
いつもの教室かのようなテンションでエイトールは笑いかける。
リタはただ呆然と、まるで遠い世界の物語を読んでいるかのように現実を眺めていた。
でも、ゆっくりと、理解がやってくる。
目の前の光景が、その結論を教えてくれる。
エイトールが自分を守ってくれたのだと。
「ど、どうして、エイトールがここに……?」
「さっきも言ったけど、宝石を渡そうと思ってな」
「な、なんで、私を助けて……?」
「いや、そりゃ友達が危なかったら助けるだろ」
さも当然とばかりに言い切るエイトール。
もう頭の中がぐちゃぐちゃで、リタは正しく言葉を発せなかった。
「お、お前は言っていたではないですか。問題を起こせば即刻帰国だって……こんなことをすれば……お前の留学が終わってしまいますよ……?」
自分でも何を言っているかわからなかった。
とにかく何かを言わなければと、そんな焦りから出た言葉だった。
「確かに問題を起こせば帰国って言われてたけどよ、親父とはもうひとつだけ約束してたことがあるんだ」
エイトールは、リタの咄嗟の言葉にもいつも通りの声で受け応える。
無邪気と言っても相違ない、そんな笑顔を浮かべながら――。
「問題を起こせば即刻帰国――でも、友達を守るためだったらこの約束を破ってもいいって!」
「――!」
リタは目頭が熱くなるのを自覚した。
もう何がなんだかわからない。
昨日までは普通の学生だった自分が、いつの間にかこんな林の中で殺されかけていた。
それは十六歳の女の子が混乱するには十分すぎる状況だ。
でも、そんな渦の巻いた思考の中で、ひとつだけ温かい感情があった。
エイトールが助けに来てくれた。
エイトールがまだ、自分のことを友達と呼んでくれた。
そのことが、何よりも嬉しくて、温かかった。
「エ、エイトール……」
「おう……って、なんだ!?」
ぽふっ、と。
リタはエイトールにしなだれかかり、その胸に顔を
焦るエイトール置き去りに、リタはその逞しい胸へと涙を押しつけながら――。
「怖かった……怖かったよぉ……ひぐっ、ぅぐっ、うぁあああああああああ……っ」
「……大丈夫だ、リタ。ここからは俺が守るから」
エイトールはリタの身体を優しく抱きしめ返した。
その震えが止まるまで、その涙が止まるまで。
ずっと、ずっと――。
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