君に捧ぐ、女郎花と夏の記憶
市川甲斐
プロローグ
背中の方から、強い風が通り抜けていった。それは、私の長い髪を後ろから吹き上げていく。
もうどれくらいその場所にいるのだろう。私はかなり長い間、そこに立ち尽くしていた。そこは、緩やかな丘のようになっている斜面で、辺り一面には黄色い花をつけた植物が生い茂っている。細い茎の先に黄色い小さな花をつけているその植物は、まるで黄色の絨毯のようにどこまでもどこまでも広がっていた。私の横を吹き抜けた強い風が、その細い茎を激しく揺らして、黄色の花が丘の上で大きな波を起こしているようにも見える。私は、その様子をそこでただぼんやりと眺めていた。
「美しい世界、ですね」
突然声を掛けられて、ハッとして振り向くと、そこには銀色の髪をした一人の若い女性が立っていた。彼女は真っ白な衣に身を包み、肌の色もまるでこの世のものとは思えない程の白さだ。私は彼女に一礼してから、空を仰ぐ。そこには真っ青な空に白い入道雲が大きく湧き上がっている。
「私……大きな勘違いをしていました」
「勘違い?」
「私は語りつくせないほどの憎悪を持ってこの世界にやって来ました。しかし、あなたは私の心を深い闇から救い出してくれた。だから私は、たった一つの純粋な自分の願いだけを叶えようとした。……ですが、その願望の先に待っていたのは、もっと大きな絶望と悲劇だったんです」
そう言い終わると、私は静かにその女性の方に顔を向けた。すると、さっきまで辺り一面に輝くように咲いていた黄色い花の斜面と青い空の風景が、見る間に暗闇に消えていく。そして、辺りはあっという間に真っ暗になり、そこには私とその女性の姿だけが残った。その上、目の前にいる筈の彼女の姿さえ、視界が滲んできて見えなくなっていく。
「こんなことに……なるなんて……」
私はそこで俯いたまま嗚咽し始めた。すると目の前の女性が一歩近寄り、私の体をそっと抱きしめてきた。その白い衣から僅かに何かの花のような香りがする。
「あなたのせいではありません。あなたが何もしなかったとしても、いつかそういう日が来たのかもしれません。運命とはそういうものですから」
女性の声が不思議なほど、体の奥深くまで響いていく。私は彼女に抱きしめられたまま、しばらく嗚咽していたが、やがてゆっくりと彼女から離れた。
「すみません……。もう、大丈夫です」
顔を上げてそう答える。女性は私の方をじっと見つめていたが、少しだけ頷くと、前に手をかざして引き戸を開けるようにその手を横に動かした。すると、あっという間に辺り一面が先ほどの黄色の花の斜面の風景に戻った。
「時が来たようです。あなたが、この世界から出るための扉が開かれました」
彼女は私に微笑した。私は彼女が言ったことがすぐに理解できなかったが、しばらくじっと彼女を見つめてから、指で目頭を拭うと、少しだけ頷いた。
「運命とは、残酷なものなのですね。ここから出るための鍵が、こんな結末を招くなんて」
「それでもあなたは、行かなければならない」
彼女は真面目な顔に戻ってはっきりと言った。そうだ。私は扉の鍵を開けた。いや、開けてもらったのだ。どこまでも優しく、永遠に続くと思われた、この牢獄のような冷たい世界を出るための扉を。
「計り知れない憎悪と絶望と後悔の記憶を抱えながら、この世界で過ごす日々はもう終わりです。扉が開いてしまった今、あなたをこの世界に留まらせる訳にはいかない」
彼女が真っすぐに私の顔を見つめる。そうだ。それがこの世界の掟だ。私は自分の表情が強張るのが分かった。しかし、彼女はそれを和らげるように微笑する。
「大丈夫。あちらの世界には、鍵を開けてくれた人が待っていますよ」
「そう……ですね」
私はゆっくりと頷いてから、彼女の言った言葉を心の中で噛みしめる。彼女の言うとおり、この世界を出た先に待っているのは、たぶんもっと単純で、これ以上ない程に純粋な、夢のような世界なのだ。今ここで、その先の事を考える必要は全くない。
私の様子を見て、女性は頷いてから再び真面目な顔に戻った。そして今度は、右手を前に出してそれを円を描くように動かすと、その手のひらの上に小さな球形の光のようなものが現れた。眩しい光がそこから私の瞳に飛び込んでくる。
「さあ、行きなさい。わが娘よ」
私はその光を前にして、目を閉じて、大きく深呼吸する。すると、瞼の裏に鮮やかな光景が見えた。それは、さっきまで辺り一面に咲き乱れていた黄色い花とは違って、もっと地味で儚げな、しかしずっと鮮やかで、そして美しく咲く小さな花。
(あなたの想い。しっかりと受け取ったからね——)
ゆっくりと目を開ける。そして私は、目の前のその球形の光に手を伸ばした。
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