第2話 続く想定外
「ちょいとあんた、もう少し速度緩めな! 積み荷が崩れちまうよ!」
「そうは言っても、約束の時間に遅れちまうだろうが!」
「それが何だってのさ! 積み荷が崩れて、商品に傷がつく方が大事だろう! 擦り傷一つだって負わせるなって言われたのを忘れたのかい!」
馬車が止まり、食堂で聞いたのと同じ、けれど圧倒的に柄の悪い喋り方になった二人の声が、垂れ幕越しにはっきり私の耳に届く。
薄く目を開け御者台の方を窺えば、垂れ幕が捲られ、ランタンの光が荷台に差し込んだ。商人夫婦の妻の顔がぬっと現れ、ランタンを掲げながら、積み荷の無事を目視で確認する。
その表情は、私に見せてくれた柔和さはどこへやら、剣のある顔つきが意地悪そうに歪み、金のためなら何でもやると言わんばかりの、絵に描いたような悪党そのものへ変化していた。
そのあまりの変貌振りに、実は彼らは、私が食堂で出会った人物とは別人なのではないかと、一瞬自分の目を疑ってしまったくらいだ。
熟年の犯罪者の役者ぶりに、思わず身震いしてしまう。これは、騙される方は悪くない。断じて悪くはない筈だ。
流石は騙すことに長けた犯罪者、あの親切な顔の下にこんな素顔が隠されていたなんて、そんなの見抜ける筈がない。
「……どうだ?」
夫の掛け声に妻が荷台へ足を踏み入れて、何故か私ではなく、向かいの大きな麻袋の方を真っ先に見た。
余程高価な何かが入っているのか、立て掛けるように置かれた大きな麻袋はずんぐりむっくり太っていて、その形状から、一瞬、私の脳裏を美術品と言う言葉が過る。
まさか、どこぞの貴族の屋敷から盗み出した彫刻品が、中に入っているのだろうか。
私の嫌な想像を肯定するように、人攫いの妻は麻袋の口を酷く丁寧な手つきで撫でて、商品の無事に安堵しているようだった。
「ふぅん……積み荷は崩れちゃいないようだ。商品も無事だね。こっちの娘も、しっかり薬が効いてるよ」
「そりゃあ、よかった」
「よかったじゃないよ。全く、あんたは乱暴なんだから……。次にあんなに跳ねたら、今度こそ積み荷が崩れちまうよ!」
声が垂れ幕の向こうへ戻り、荷台が再び暗くなる。
ほどなくして動き出した馬車に、私はようやく息をつき、体中から力を抜いた。それでも、またいつ荷台を覗かれるかと思うと、おいそれと動き出す気にはなれない。
息を潜めて様子を窺い、二人の会話に耳を澄ませる。
「しかし、向こうも無茶を言う……。いきなり荷運びの依頼を寄越したと思ったら、ついでに娘を一人攫ってこいだと。俺らを、そこいらの便利屋か何かと勘違いしちゃいねぇかね?」
「そう言いなさんな。ちょうどいいのがふらふらしていて助かったじゃないさ。みすぼらしくても娘は娘。のほほんと一人旅するような馬鹿くらいが、言うことを聞かせやすくて向こうも助かるってもんだろう」
「違ぇねぇ。べらべら身の上話までするお人好し……随分と世間知らずな田舎娘だったなぁ。可哀そうに」
「はん! 奉公先でろくな待遇が得られないくらいの役立たずでも、あたしらの役には立つんだ、娘も本望だろうさ」
堪らず二人が笑い出す。その下品な笑い声を聞きながら、私は心の中で盛大に呻いた。二人の会話が、ぐさぐさ胸に刺さって地味に痛い。
確かに、結果だけなら私はとんだ馬鹿だろう。それでも、一言だけ言いたい。私は決して、世間知らずの田舎娘ではないと。役立たずの下女でもないと。今回は、たまたまちょっとお金をケチってしまったことからこうなったけれど、本来ならば、こんな目に遭うことなんてないくらいには知恵はあるのだ。
こうなったら、何が何でもこの二人の元から逃げ出そう。そして、私が馬鹿な田舎娘ではないのだと、二人に思い知らせてやろうではないの。
気合いも新たに、私は短剣をその手に掴み、まずは両手の自由を得ることにした。
後ろ手に縛られたまま、手元を見ずに縄を切るのは難しい。話が弾む御者台の動きに注意をしつつ、焦らず慌てず速やかに、縄に短剣を滑らせる。
程なくして両手の戒めを解くことに成功した私は、続けて足の縄も切り、最後に猿轡を取り去って、ようやく自由を取り戻した。あとは、この積み荷の山を乗り越えて、荷馬車の外に向かって飛べばいい。
旅行鞄が見当たらないのが痛いところだけれど、元から大したものは入れていない。自分の命の次に大事な母の形見は、こうして手元にある。私自身が五体満足でここから逃げおおせられれば、きっとどうにか生きていけるだろう。この場所がどこかは分からなくとも。きっと、多分。
「…………」
一瞬過った不安に蓋をして、短剣の刃を鞘に仕舞い、再びブーツの中へと収納する。ちらりと背後を振り返り、二人がこちらに気付いていないことを再確認して、私は外を目指すべく木箱に両手をかけた――その時である。
視界の端でもぞりと何かが動く気配に、私は木箱に両手をかけたまま、動きを止めた。
「…………」
荷台には今、私以外に人はいない。人攫い夫婦の会話からもそれは明らかだ。「何か」が動くなんて、そんなことあるわけがない。
つ、とこめかみを嫌な汗が伝う。
まさか、走行中の荷馬車の中に鼠でもあるまい。犬猫や家畜の類もあり得ない。かと言って気の所為だと思いたくとも、確かにそれは私の視界の端で動いていた。
私は緊張でごくりと喉を鳴らし、ゆっくり首を巡らせた。無意識に目を眇めてしまったのは、無駄な足掻きと知りつつも見たくないと言う私の気持ちの表れだろう。
けれど、そうやって目を向けたところで、私の両目は見間違いようもなくそれが動いているのを確認しただけ。
「…………」
気付いてはいけないものに気付いてしまった――そんな思いで沈黙すること十数秒。私はひっそり息を吐いた。
生憎、私はこんな状況であっさり見捨てていけるほど、人でなしには育っていないのだ。人でなしの親の下で、十六年間も暮らしたけれど。
せっかく仕舞った短剣を取り出すと、私は意を決して、身構えながらも近づいた。先ほど真っ先に無事を確かめられた――謎の大きな麻袋へと。
間近で見つめる麻袋は、これでもかと縄を巻き付けて頑丈に口を縛られていた。高さは、私の腰よりいくらか低い。あちこちに丸みを帯びた凸凹があり、その全体像は、よくよく見れば、膝を抱えて座る人間に見えなくもない。
それが、藻掻くように動いているのだ。
「――っ!」
最も考えたくなかった予感が当たってしまって、私は息をのんだ。
現にこうして私自身が攫われている以上、全くあり得ないとは思わない。けれど、それでも流石に驚きは禁じ得なかった。
まさか、自分以外にいたなんて。しかも、麻袋の大きさからして、中身は恐らく私よりも幼い子供だ。
じわりと怒りが湧き上がる。短剣を握る手に、自然と力がこもった。
今の今まで動く気配がなかったのは、この子も眠らされていたからだろう。それが恐らく、先ほどの揺れで目を覚ました――そう考えれば、突然動いたことも納得できる。
子供が目覚めて動いてくれて、助かった。もしも眠ったままだったなら、私はきっと気付くことなく一人でこの馬車から脱出していたことだろう。それは、子供を見捨てることと同義だ。
今、袋の中の子供はどれだけ恐ろしい思いをしているだろう。今まで色んな目に遭ってきたこの私ですら、一瞬絶望が頭を過ったのだから、幼い子供のそれは如何ばかりだろうか。中の子供のことを思って、私は顔をくしゃりと顰めた。
気付いてはいけないものだなんて思ってしまって、ごめんなさい。
攫われた恐怖も、逃げ出せない恐怖も、これから売られる恐怖も、小さな子供一人に押し付けるところだった。
物音を立てないように慎重に袋に身を寄せ、耳をそばだてる。間近に寄ると、確かな人の呼吸音がはっきり聞こえた。か細く、けれど乱れはない。音が聞き取りづらいのは、きっと口を塞がれているからだろう。
試しに、足と思われる部分を軽くつついてみる。途端に袋がびくりと反応し、聞こえていた息遣いが更に細まった。けれど、それ以上の動きはない。
袋の中の子供は、自分の状況を正確に理解している。そう確信して、私は耳があると思しき部分へ顔を近づけた。ごく近くでないと聞き取れないほどの、微かな声で一言囁く。
「……そのまま動かないで」
袋の中から、息をのむ気配があった。
「私が今から、あなたを助ける」
きっぱり言い切れば、わずかの間を置いて、麻袋の中で首が微かに縦に動いた。
それを見て、私も覚悟を決める。この子を助けて、二人で逃げる。なんとしてでも。
(どうか、私に力を貸してください、お母様……)
短剣を今一度握り締め、母に祈って深呼吸。
御者台の二人は、いまだに会話を続けている。先ほど実際目で見て確認したからか、攫った人間が目を覚ましているとは思いもしていないのだろう。
私は中の子供を傷つけないよう慎重に、なるべく御者台からは目立たない場所に、短剣の刃先を突き入れた。馬車の走行音に合せて刃先を進めると、半ズボンを履いた子供の足が袋の中から見えてくる。
次いで見えたのは、暗がりの中でもはっきり分かる、上等な靴と服。一目で貴族と分かる代物だ。これは確かに、傷一つでもつけようものなら、依頼主からどやされるだろう。
ついでのように攫われたらしい私などとは、比較にならない高価な商品。彼らが真っ先に確認したのも頷けると言うものだ。
「もう少し、じっとしていてね」
裂いた袋の隙間から覗く、吊り上がり気味の不安げな瞳にそう言って、私は子供――少年の手足の戒めを手早く切った。最後に猿轡を外してやれば、少年の口から微かに震えた吐息が漏れた。
手入れの行き届いたさらりとした黒髪に、賢そうな光の宿る暖色系の大きな瞳。滑らかな肌は健康的で、しっとりまろい。
麻袋の中から出てきたのは、将来の美貌が約束された、人形のように美しい少年だった。
ついでに言えば、恐怖に震えながらも素早く周囲を確認し、真っ先に現状把握に努める程度の聡明さをも併せ持っているようだ。こんなに小さな頃から頭脳明晰眉目秀麗とは、きっと将来は世のご令嬢方が放っておかない男性になるに違いない。
こんな幼気な美少年を攫うなんて。攫って、莫大な身代金をせしめようとするなんて。いや、これだけの美少年なら、それより最悪な展開もあるかもしれない。例えば、どこの誰とも知れない変態に売り払われる、だとか。
そんな暴挙、許されてなるものか。
「……あ……ありがとう、ございます」
少年の見目麗しさに直視を避けつつ、気合いも新たに拳を握っていた私に、吐息に混ぜるように小さな声量で感謝の言葉がかけられた。
声変わり前の、子供特有の高い声。強張りながらも、安堵に緩んだ微かな笑み。
それを目にした瞬間に、私の中の遠い記憶が頭の片隅を駆け抜けた。
(……私は、この子を知ってる。見たことがある。ここではないけれど、確かにどこかで。いや、でもまさか、そんなこと。だって、ここはあの場所では……)
ぞくりと背筋を走った悪寒に、私ははっと御者台を見た。
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