第3話 手に届く距離が、遠い
くそったれな土砂降りの雨は昨日の夜のうちにどこかに行っちゃって、頭の上は嘘のように突き抜けるほどの青空。
出かける番の来ない鈍い透明な傘は斜めに傘立てに突き刺さってる。
天気が良くても、悪くても、次の日はやって来て、僕はいってきますと家を出た。
歩き始めると肩にズシッときて、寝違えたのかもと思う。リュックがやけに重い。
そんなことでさえ、今日、学校に行かない理由になるなら今すぐ学校に電話するのに。
なわけないか。
昨日の続きが途切れることなくやって来た。
校門を抜けると斜めに自転車が目の前を横切ったり、完璧に平行に並んだ女子が僕を阻んで前に進めない。
せっかく勇気キメて来たら来たでこんなんじゃ、気持ちも萎えていく。昨日のことももっとずっと遠い昔に――。
「おーい、奏」
振り向かずともわかる相手の顔を見る。
ズキン、胸が瞬間的に痛む。
男子の中でも背が低めな洋は理央とお似合いで、小さな体いっぱいのジェスチャーで僕を引き止めた。
「なんでここにいるんだよ。いつものとこでさっきまで待ってたんだぞ」
洋は理央の顔を見て「なぁ」と言った。理央は困った時の顔をして、どうがんばっても表情筋が思ったように動かないみたいだった。
歯痒い。
お互いに、目と目が合わない。
ずらしてる分、気持ちがわからない。
「理央、今日具合悪い?」
ひょいとなんの躊躇いもなく、洋が理央のおでこに手をやった。
「やだな、なんでもないよ」
「だってちょっと顔も赤いし」
「やだな、なんでもないってば」
そう言われたらどうしても理央に勝てない洋は手を下ろした。
理央はうつむき加減に前髪をそっと直した。
耳が赤い。彼女の恥ずかしさがやっぱり突き刺さる。
僕は見ている。
観客のように。
ふたりの芝居のような現実を、ただ席に座って眺めている。
朝はいつも学校の坂下のコンビニ前で待ち合わせる。最近見られなくなった赤いポストがあるコンビニだ。
そこに集まってから三人で坂道を上る。
昨日あったこと、見た物、なんだかんだ。
大抵は洋がひとりで喋っていて、理央はくすくす笑ったりしてるけど僕はいつも通り。
なんだよノリが悪いな、とケチをつけられながら教室へ向かう。
洋のクラスはC組で少しだけ手前にある。名残惜しそうに、洋はそこへ吸い込まれる。
僕と理央はE組なので、理央を先に中に通して後ろから教室に入る。
洋と別れてから僕たちは喋ることもなく、安全な自分のクラスの中でも避けるようにお互いの席に向かう。
こんなことでも神様は小さな意地悪をして、理央は僕の斜め前だ。
僕から理央がずっと見えていても、理央から僕は見えない。プリントを後ろに回す時だって、斜め後ろに回すわけじゃない。
ほかにかわいい女の子はたくさんいるんじゃないの? 理央だけ見てるのは不毛じゃない?
そう思っても、はい、目はしっかり理央を追っているのでいつもなんだかどうでも良くなってしまうんだ。
そして、理央を好きな自分を、素直に好きになれない。
そもそも始めはなんだったっけ?
ああ、そうだっけ。
洋がうちのクラスに来た時、ドアのところでふたりはぶつかったんだ。ガタン、と音が鳴るくらい勢いよく。
僕は反射的に立ち上がったけど、理央は洋の肩にどこかをぶつけたようだった。
その頃、理央は僕にとって『円山さん』で、円山さんも『藤沢くん』と僕を呼んでいた。
「円山さん、大丈夫?」と慌てて歩み寄る。僕と理央と洋でドアの辺りは大渋滞だった。でもすぐドア脇に避けると、通りはスムーズになった。
理央は、なんだこの小さな動物は、と思うくらい身を縮めて、ごめんなさい、と小さく言った。よく見てなかったから、と。
洋は混乱から抜け出してなんだかわからないちぐはぐな謝罪を述べて、そして最後に自己紹介した。ちゃっかりだ。
僕はふたりが喋ってる間に水道に行って、持っていたミニタオルを濡らして固く搾った。タオルを持って戻ると、理央はもう笑っていた。
戻ってきた僕をちらりと理央は見た。
僕は思ったようにカッコよくタオルを渡せなかった。
もごもごと口ごもって、ここ、と自分の頬の一部を指さして「赤くなってる」と言うのが精一杯だった。
あ、と理央は顔を赤くして「ありがとう」と僕を見上げた。顔を大きく上げて。
その時、初めて多分目が合った。
ああそう、この子は円山さん。目の円い、きょろっとした目が有袋類みたいでかわいい円山さん。
たまに右後ろの髪の先が跳ねてる。
それを気にして手で撫でつけている。
「円山さん、気にしないで」
ほんとだ、赤くなってるよ、と言う洋にお前のせいだよと思いながら、心配そうな顔で円山さんの顔の至近距離にいる洋を見ている。
見ている。
そればかりだ。
洋が初対面の彼女の頬に手で触れた。
ああ、あんなに簡単に。
僕は簡単なこともできないでいる。不器用だと言えばいいんだろうか?
まあそんな感じで雪だるまが転がるようにゴロゴロと、ふたりはお互いを知っていった。
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