第五話 誕生日は特別な日だから
Scene5-1
―雅孝―
体が半分ベッドから落ちかけたせいか、ふと目が覚めた。
少し隙間の空いたカーテンの向こうに見える空は、少し蒼くなりかけている。明け方に近い時間なのかもしれない。
いつもと肌触りの違うシーツは、かなり皺が寄ってしまっている。壁側に体を向けると、人肌の温もりが触れた。
「…ん…?」
仰向けに寝ていた慶一さんが、薄っすらと目を開ける。
「ごめんなさい、起こして。」
「朝…?今、何時…」
「まだ大丈夫です、寝ていてください。」
ずりさがった掛け布団を肩までかけてやりつつ、脱ぎ散らかした服の山から手探りで自分の下着を手に取る。
「お手洗い借りますね。」
「…うん…。」
微かに頷いてまた目を閉じた慶一さんの、乱れた前髪をすく。…手触りが少しだけ、似ている気がした。
セミダブルのベッドから起き上がり、下着を身に着けてからなるべく静かに部屋を出る。
明かりの消えた廊下に出て、トイレを探した。
人の家のトイレの場所といのは、知らないと意外と分からないものだ。ここだろうかと見当をつけ、隣の部屋のドアノブを回す。
ばさっ、と何かが扉に当たって落ちる音がした。
「…?」
部屋に入る。どうやらここはトイレではなかったらしい。簡易なシングルベッドと勉強机のようなデスク、それに小さな本棚が置いてあるのが目に入る。
足元に落ちた物を拾い上げる。見ると、卓上カレンダーだった。さっき引っ掛けたのはこれだったらしい。入ってすぐ右手にあるカラーボックスの上にでも載っていたのだろう。今月のページに戻しておこうと思い、紙をめくる。
ふと、手が止まった。
今月のページの、月末に大きく赤丸で印がされている。
『
「…慶ちゃん…。」
その呼び方に心当たりはなかったが、ピンときた。…なるほど、この部屋は同棲していた元恋人の。
今日、俺の仕事部屋に慶一さんが残していったメモの、几帳面な筆跡とは全然違う、柔らかく丸っこい字を指でなぞる。
そうか。もうすぐ、誕生日なのか。
『―誕生日?』
…記憶が
『そ!ちゃんと覚えとけよ―』
5年前へ、遡る―。
***
『誕生日?』
『そ!来週の土曜日だからな。ちゃんと覚えとけよ。』
俺と付き合い始めた頃の
『何か、欲しい物とかある?』
『んー?』
『食べたい物とか。行きたいとこは?』
『ばーか。』
ぱちん、と軽くデコピンされた。
『そういうのはさ、当日まで内緒にしといてサプライズするもんなの!』
『サプライズ…って、どんな?』
『俺に聞いてちゃ意味ないだろっ。』
何も思い浮かばず困っていたら朔也は、そうだなー、と少し考えてから言った。
『…たとえば、ケーキに花火とか?』
『ケーキに、花火?』
『うん、そうだな。それがいい!』
良いことを思いついたとばかりに嬉しそうに笑ったから、一生懸命考えて準備したのだ。
ホテルのスイートを予約して、ホールケーキのルームサービスを頼んで。当日はパノラマの夜景を見ながら、花火を打ち上げてもらった。
『誕生日、おめでとう。』
大真面目な顔で言ったら、これ以上ないほど大笑いされた。
『ちょ…お前、凄すぎ。何なのこれ!』
『え、違うのか?自分で言ったんじゃないか。』
『スケールが違いすぎるよ!』
笑い過ぎて目じりに涙まで浮かべながら、朔也は小柄な体で背伸びして、何か間違ったのかと困惑する俺に抱き着き、耳元で囁いた。
『もう、ほんとに…ありがと、雅孝。愛してるぜ。』
喜んではくれたみたいだけど何かが間違っていたんだろうと思い、その次の年の誕生日前には、今年こそ…と必死で調べた。
それまで使った事の無かったSNSで調べてみたり、本屋の雑誌コーナーで調べたりしているうちに、朔也が言っていた事の正解をようやく見つけた。
『―そうそう、こういう事!』
駅近のイタリアンバルで食事した後、運ばれてきたケーキに刺さった小さな花火を見て、朔也は楽しそうに笑った。
『ちゃんと学習したんだな。えらいえらい。』
からかうように頭を撫でてきた朔也の手を、軽く払いのけた。
『俺、ちょっとムカついてるんだけど。』
『へ?何で?』
『前付き合ってた相手に、こういう事してもらってたって事だろ?』
『…誰の話?』
『だから、俺と付き合う前に。こういう事したのか、してもらってたのかは知らないけど。』
近くの席で、同じように花火の刺さったケーキをみてはしゃぐ女の子達がいたのを覚えている。流行りに疎い俺が知らなかっただけで、世間ではよくある祝い方だったのだ。
だからつまり、朔也も以前の恋人と経験があるのだと思い込んで、勝手に嫉妬していた。
『何言ってるの?』
『あ?』
朔也は、本気で困った顔をしていた。
『俺、誰かと付き合うの…雅孝が初めてなんだけど。』
『…は?』
『ああ、これ?』
ほとんど火花が散り終わって、小さくなった花火を指さした。
『これはさー…俺の憧れだったから。恋人からこんな風に、特別な祝われ方されたら幸せだろうなーって。ずっと羨ましく思って見てたんだ。』
『…。』
『言っとくけどなぁ。俺、ファーストキスだったんだぞ。あんな風にあっさり奪ってくれちゃって。』
少し唇を尖らせて、上目遣いに俺を見てきた。
『自分こそ、俺で一体何人目だよ。』
『…初めてだよ。』
『嘘つけ。』
『まじで。初恋だよ。生まれてはじめて、一目惚れしたんだから。』
『…え。』
茶色の瞳が揺れ動いて、行き場を無くしたようにテーブルの上に視線が落ちた。
薬指にシルバーの指輪をはめた小さな手の上に、そっと自分の手を載せた。咄嗟に引っ込めようとしたのを捕まえて、指を絡ませた。
サイズが分からず勘で買ったシルバーのリングが、互いの指の間で緩く回った。
『…これ、大きかったな。いつかちゃんとしたの、買い直すから。』
『良いよ、大丈夫。これ大事にするから。初めてくれたプレゼントだもん。』
はにかむように笑んだ桃色の唇に、自分の唇をそっと重ねた。一瞬ですぐ離れた後、随分近い距離で目が合ってしまって、お互い照れくさくて笑ってしまった。
***
―記憶の海から、意識が引き戻される。
そっと、元置いてあったらしき場所にカレンダーを戻した。よく見ると、カレンダーの年は去年のものだった。
部屋の中を見渡す。ここはきっと、恋人が出て行った後そのままになっているのだろう。
『…俺、結構本気で好きだったんだよ…』
そう呟いた僅か1時間後、他の男と抱き合って。
自分が体を開くのは初めてだっただろうに、慣れたふりをして意地を張って。
…本当は、寂しくてたまらないくせに。
もう一度、戻した卓上カレンダーを手に取った。日付をしっかり確認する。
どうしたら喜んでくれるかなんて分からないけれど、少しでも何かしてあげたい気持ちになっていた。
今日、初めて見せてくれた笑顔は―とても優しくて、綺麗だったから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます