眠らぬ夜空に陰る朧月

叶けい

第一話 平気なふりをしているだけ

Scene1-1

…君がいれば、何もいらない。

心がちぎれそうなくらい、愛していた…。



―慶一―

一人分の少ない洗濯物を干し、ベランダから部屋に戻るとタイミング良くトーストが焼けた。

マグカップにコーヒーを注ぎ、トーストを皿に載せてダイニングテーブルに置く。椅子を引いて座り、テレビのスイッチを入れてからトーストを一口かじった。

テレビ画面の中では、リポーターが梅の花が満開だと嬉しそうに話している。気温はまだ真冬と変わりない日が多いが、少しずつ春が近づいているようだ。

熱いコーヒーを飲みながら、誰もいない向かい側の席を見つめる。


5年近く同棲していた恋人の名木透人なぎゆきとが、部屋を飛び出して行ってから随分と月日が経った。

食器棚には、まだ二人で暮らしていた頃に使っていた透人用の食器が残ったまま。彼が使っていた部屋も、片付ける気が起きずにそのままになっている。

一度着替えなどの荷物を取りに来たらしいが、俺に会うのを避けたのか、帰宅するとダイニングテーブルの上に透人用の合鍵だけがぽつんと置かれていた。

勝手な行動に怒るべきだったのか、それとも悲しむのが正解だったのか、今となっては分からない。

ただ、心の中に空しくぽっかりと穴が開いたような気はしていた。

引っ越せば良いのに行動を起こせないのは、心のどこかで、もしかしたら透人が帰ってくることを期待しているからかもしれない。

そんな事、あるはずないと分かっているのに―。


コーヒーを飲み干し、テレビを切って食器をシンクに片付ける。洗い物を済ませたところで、ふと壁にかかったカレンダーが目に入った。

そういえば、今日からもう3月か…。

2月のページをめくる。4月始まりのカレンダーなので、3月が最後のページだった。

視線が、月末のある日に釘付けになる。

けいちゃんハッピーバースデー!』

几帳面な文字で書かれたそれを、そっと指でなぞった。

きっと、カレンダーを掛け替えるなり書き込んでたんだろう。…もう、祝ってくれる事は無いのに。

しばらく見つめた後、着替える為に自室へ足を向けた。


―雅孝―

アメリカの支社から届いていたメッセージを返信し、一段落ついたところで胸ポケットのスマホが震えた。

「…はい、やなぎです。」

『―お疲れ様です、主任。今よろしいでしょうか?』

「ああ、どうした。」

一つ年下の有能な部下、五十嵐いがらしが困った様に言う。

『実は、”Luce(ルーチェ)”に問題のある客が出入りしているとの話が…』

”Luce”は西麻布に店舗を構えるカウンター式のバーで、去年から俺がオーナーとして管理を任されている。

「問題ってどういうことだ。」

『最近よく出入りするようになった客で、泥酔して他の客に絡むようなんです。出入り禁止にするか、それとも…』

「分かった。今夜、様子を見に行く。五十嵐も来い。」

『承知しました。』

失礼します、という声とともに通話が切れる。

スマホを胸ポケットにしまい、席を立ってガラス張りの壁越しに外を見下ろす。

何台もの車が行き交うレインボーブリッジが眼前に見える。小春日和の陽光に反射する水面は穏やかで、浜辺を散歩している人々も少なくない。


都内の一等地にオフィスを構えるこの会社は、祖父が起業したものらしい。最初は小さな酒屋から、今では海外にも支社を作り、ホテル事業を中心に財を成している。

俺はいずれ、この会社を背負って立つ事になるのだろう。望むと望まざるとに関わらず。


席へ戻り、黒い革張りの椅子の背を引く。腰を下ろしかけ、ふとデスクの引き出しを開けた。

濃紺のベルベット生地に覆われた、小さな指輪ケースの蓋を開く。―細いシルバーのリング。

手に取り、内側に刻まれたアルファベットを見つめた。未練がましいのは承知の上だが、どうしても処分出来ないでいる。

『―お願い、分かって。』

泣き出しそうに震えた声を、今でも覚えている。

『恋愛するには、俺の体はもう、しんどいんだよ――』

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