第3話 恋に落ちた日

 アンナにそう言われ、うなだれたのをヘイカーは思い出していた。

 当時は影響の少ないうちにさっさと魔法を外したいと思っていたが、今ではそんな気は薄れている。雷の魔法を覚えていると心地いいのだ。今のところ、これといったリスクも見当たらないし、特に気にならなくなった。

 ただこの先一生覚えておくことになるなら、使いこなせるようになった方がいいと、センター地区の中学に通うことをアンナに薦められた。剣や魔法に特化していて、そのまま士官学校にスライドしていく者が多くいる学校だ。

 目の前にいるロイドも同じ中学に進学し、なんだかんだと仲良くやっている。


「ごっそさん! 帰るわ。まだ配達が残ってっし」

「ああ、じゃあまた明日な」

「おう」


 ヘイカーは焼き菓子を食べ終えると、隣のクルーゼ家に向かった。

 ここは昔からのお得意様で、アンナはこの家から紹介を受けて、北水チーズ店からチーズを買い始めたのである。

 ちなみに北水チーズ店という店名は、父親のエイベルがノースウォーターストリートに店を構えたことから名付けたものだ。母親はこの店名もダサいと言い切っていたが、ヘイカーは素朴なこの名前が好きだった。

 母親のダナはエイベルと離婚した後、サウス地区に『トレインチェ・ドゥ・フロマージュ』という立派な店を構えている。多くの職人を雇い、大量に仕入れることで材料を安く手に入れ、チーズを安価で売り出すことに成功している。かなりの儲けが出ているらしい。

 しかし作る職人の腕に左右されて味は一定していないし、使う材料からして北水と比べると一段落ちる。一般大衆向けとしては成功と言えるだろうが、味という点では北水チーズ店は絶対に負けない。

 その北水チーズ店は、店舗を持たない紹介制の少し特殊な店である。基本的に一週間前に注文、それを配達という形をとっている。

 チーズを作る職人がエイベルとヘイカーだけなので、どうしても数が制限されてしまい、多くの人に行き渡らないのが実情だ。なので確実にチーズが買えるトレインチェ・ドゥ・フロマージュに客を取られた時もあったが、結局はその客のほとんどが北水に戻ってくれた。味の違いのわかる人には、わかってもらえるのだ。


「ういーす、北水チーズ店ース」


 だらけた挨拶でドアノッカーを叩くと、美しい顔と声の持ち主が姿を現した。この家の女主人、リゼット・クルーゼである。いつもは執事のクージェンドが対応してくれるのに、珍しい。


「あ、れ……クージェンドさんは?」

「お孫さんのお遊戯会だそうで、今日は休みをとってもらったのよ」


 リゼットとは、よくアンナの家で会う。家族同然の付き合いだそうで、幼い頃に両親を亡くしたリゼットは、娘同然の存在だとアンナやカールは言っていた。

 そのアンナに育てられたせいか、彼女の態度は少しピリッとしていてヘイカーは少し苦手だ。


「そうすか。じゃ、これご注文の品……と、これは新作お試し品」


 そう言って、ヘイカーはバッカというチーズの味噌漬けをひとかけら渡した。ちなみに他店では、バッカをモッツァレラと称して販売している。トレインチェ・ドゥ・フロマージュもそうだ。

 別に詐称しているわけではなく、作り方が同じで材料が少し違うだけだから、という理由でそう呼ぶのであろう。しかしヘイカーの父エイベルは、それを良しとしない。モッツァレラはモッツァレラ、バッカはバッカとして販売している。

 バッカをモッツァレラと呼ぶのは、マーガリンをバターと呼ぶのと同じだ。その味は、雲泥の差である。


「うん……美味しいわね」


 リゼットはすぐに口に運び、そう呟いた。その笑顔を見て、ヘイカーは胸を詰まらせる。


 あ……れ?

 リゼットって、こんな顔で笑う奴だったっけ?


 柔和な表情を見て、ヘイカーの心臓がどくんと鳴った。

 リゼットはヘイカーに対し、こんな笑顔を見せてくれたことは今までない。アンナから不法侵入した時の話を聞いて、良い印象を持ってくれていなかったせいもあるだろう。

 ヘイカー自身もまた、苦手意識から少し避けていた部分もあった。


 だから、知らなかった。アンナがこんなに女神のように微笑む人物だったとは。


 リゼットの顔を穴が空くほど見つめていると、リゼットはヘイカーの顔を見てまたもくすりと笑った。


「口元に、なにかついているわよ」


 リゼットはそう言って、ヘイカーの頬をグイと撫でた。アンナの家で食べた焼き菓子が頬についていたのだろう。

 ただ、それだけだ。

 ただそれだけで、ヘイカーの顔は熱くなった。


 一瞬だった。

 一瞬でヘイカーはリゼットに恋をした。

 恋に、落ちた。

 それをヘイカーは、はっきりと自覚した。


 リゼットはヘイカーより八歳年上の二十一歳。ミハエル騎士団に入団している。治癒魔術を習得していて、アーダルベルト団長の治癒騎士として腕を振るっている。

 そんなリゼットを好きになった。遠い存在などとは思わなかった。ヘイカーにとっては、自分と同じくアンナの家に出入りしている、同種の人間だと思っていた。

 二人を隔てるものなど、なにもない。と。


「どうした、リゼット」


 しかしそう思った瞬間、リゼットの後ろから一人の男が現れた。

 こちらも北水チーズ店の常連、ロレンツォという男である。


「いえ、試食していただけよ。すぐ戻るわ」

「わかった」


 ロレンツォはすぐに顔を引っ込めた。リゼットは財布を手に取り、代金を支払おうとしてくれたが、ヘイカーは呆然として反応することができない。


「ヘイカー?」

「今の……ロレンツォ……なんで……」


 ヘイカーがそう聞くと、リゼットは少し顔を赤らめて、はにかんでいる。

 そんなリゼットの顔を見るのも初めてだ。かわいい。かわいいが、そんな顔にさせたのはヘイカーではない。紛れもなく先ほどの美青年の仕業だろう。


「リ、リゼット……ロレンツォと付き合ってんの?」

「ええ……あまり人に言わないでもえらえる? 恥ずかしいから……アンナ達は知ってはいるけれど」


 ヘイカーは愕然とし、落胆した。

 リゼットが今までと違った柔和な笑みを見せてくれたのは、ロレンツォと付き合い始めた影響かもしれない。

 リゼットからチーズの代金を受け取ると、ヘイカーは肩を落としてクルーゼ家を後にした。


 ヘイカーの初恋は、十秒と持たず失恋した。

 その悲しみはいつまでも燻り続け、リゼットを諦めるまでには至らなかった。


 ヘイカーはその日からずっとリゼットを気にしていた。

 ロレンツォと幸せそうに歩くリゼットの姿を見かけるたび、心が逆撫でられた気分になる。

 よりによって、なぜロレンツォなのか。こういう言い方はなんだが、ロレンツォはかなりの女好きで、あんな男に引っ掛かってしまうリゼットもリゼットだと思った。きっと今に別れることになるに違いない、と。


 いや、むしろ別れろ。


 そう毎日念じていたある日。ヘイカーがアンナの家でロイドとボードゲームをしていると、リゼットがやってきた。その顔は酷く落ち込んでいる。


「どうしたの? なにかあったの?」


 アンナが問いかけると、リゼットは小さな声でこう言った。


「ロレンツォと別れてしまったわ」


 と。

 それを聞いたヘイカーは、飛び上がって喜んだ。


「よっしゃーー!!」

「なに喜んでるんだよ。ヘイカーの負けだよ」


 ロイドに呆れ顔で言われる。アンナはそんなヘイカーをひと睨みして、リゼットを連れて別室に入っていった。

 ヘイカーの思った通りである。僅か一年で二人は破局を迎えていた。ヘイカーが小躍りするのも無理はない。


 しかしそのさらに一年後のこと。

 リゼットがミハエル騎士団の隊長になってしまうという、予期せぬ出来事が起こった。弱冠二十三歳での隊長就任だ。幼い頃からあのアンナの指導を受けて育ったリゼットには、順当な出世と言えるのかもしれない。

 が、ヘイカーは項垂れた。元々貴族であるリゼットと、一般庶民であるヘイカーでは釣り合いが取れない。さらにミハエル騎士隊長と言えば、この国においてトップクラスの権限がある人物である。チーズ屋の息子とは、わけが違うのだ。

 ヘイカーは大きく息を吐いた。


「どうした、ヘイカー」


 アンナが相変わらずのオンモードで聞いてくる。


「いや、なんでもないっす」


 その隣にはリゼットもいる。ここに来ればリゼットに会えることが多いので、ヘイカーはロイドに会うのを口実に、暇な時は必ずこの家に来ている。


「ヘイカー、将来のことは考えているのか? 中学を卒業したらどうするつもりだ」


 どうしようかな、とヘイカーはぼんやり考えた。

 トレインチェでは高校に進学する者が多いが、正直ヘイカーは勉強が好きではない。加えて、いつかは北水チーズ店を継ぐんだろうなという漠然とした思いもある。高校に進学する意義が見当たらない。かと言って、若くしてチーズ職人としてずっと働くのも嫌だ。まだまだ青春を謳歌したい。


「どーすっかな……」

「ヘイカー……」


 鋭い視線が突き刺さり、ヘイカーはシャキッと背筋を伸ばす。


「いや、まだ決めかねてるっす!!」

「エイベルさんはなんと言っている?」

「え、父ちゃんは別に……特に話し合ってないっつか」

「ちゃんと話し合え」

「ハイ! わっかりました、アンナ様!」


 そのアンナとのやりとりを見ていたリゼットがくすりと笑っていて、ヘイカーは少し頬が温かくなる。


「あなたはどうするの、ロイド」


 しかしリゼットが問いかけたのは、ヘイカーではなくロイドにだった。


「俺はもちろん士官学校に行くよ。騎士になるつもりだしね」


 ロイドは、トレインチェの中学生の中でも群を抜いて強い。周りと比べて三歳も年が下であるにも関わらず、だ。

 比べてヘイカーの剣の腕はへなちょこだ。ただ、魔法だけで見るとそれなりの好成績ではある。このトレインチェでは魔法よりも剣が重視されるため、魔法の成績が良くとも見下されている感があるのだが。


「ヘイカーは騎士になるつもりはないの?」


 今度はヘイカーに問いかけてくれた。好きな人に珍しく話しかけられ、ヘイカーは内心ドキドキとする。


「騎士になるつもりないってか……考えたことねーっていうか」

「ミハエル騎士団も、魔法職を取り入れるべきだという考えが広まってきつつあるわ。あなたが十八、九になる頃には、その受け入れ体制も整っているかもしれない」

「……へぇ」


 騎士職というのは、給金が結構いいらしい。それこそちまちまチーズを作るより、いい稼ぎになるに違いなかった。


「けど、騎士団の中で魔法職なんて、肩身狭そうだな」

「団長のアーダルベルト様は平等に扱ってくださる人よ。それにもし何かあったなら、私を頼ってくれればいい。まぁ、あなたが入団したらの話だけれど」


 リゼットは剣の腕も立つが、治癒魔術師でもあるのだ。思うところがあるのだろう。だからそう言ってくれただけに過ぎなかったのだろうが、それでも頼っていいのかとヘイカーは単純に喜んだ。騎士団に入ったら、の話ではあったが。


 その晩、ヘイカーは父エイベルに、士官学校に入りたい旨を伝えた。ガタイの良い父親に殴り飛ばされるかと思ったが、そんなことはなく、エイベルは静かにヘイカーの話を聞いてくれた。


「そうか。お前の好きなようにするといい」

「え? いいのか? 士官学校って結構金が掛かるって話だけど」

「まぁなんとかなるだろう。気にしなくていい」


 センター中学に行きたいと言った時と同じく、快諾してくれたのは嬉しいが、ちょっと悔しい。エイベルは自分を、北水チーズ店の跡取りとして考えてくれていないような気がして。

 しかしヘイカーはそれには触れずにエイベルに礼を言った。

 こうしてヘイカーは、士官学校に入学することになったのだった。

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