第2話 聖女サマは貰ってくぜ

 水上都市イスラ・レウス。海の女神ルーテリエルを信仰する大きな神殿が建つこの都市は、ここから北西にあるオルトリス王国から「祝福の道」で繋がった自治区でもある。

 円錐形の都市の頂きには、荘厳な純白の巨大神殿と白い花を付ける神木、フィロスの樹。そこから海へ向かって伸びる石畳の街路は全部で四つ。そのうちのひとつ、神殿の正面から伸びる道の両脇には多くの住民が集まっていた。


「フィロスの聖女様、ばんざーい!」


 集まった人々が、白い花びらを空に投げて祝う。ひらひらと舞うフラワーシャワーの中、神官たちに守られて聖女――メルヴィオラは厳かに階段を下っていく。

 白地に青い糸で刺繍を施したワンピースと同じ意匠の外套を羽織り、頭には鈴飾りのついた白いヴェールを被っている。

 まるで花嫁衣装を思わせる純白は、青い空の下によく映えた。


祈花きかの旅が無事に終わりますように」


 メルヴィオラを見送る人の列は、そのまま街路の先にある港まで続いている。眩しい陽光のように直視できない人々の笑顔に、メルヴィオラは少しだけ憂鬱な気分になってしまった。


 ――祈花きかの旅。

 マノール海域に四つあるフィロスの樹に、花を咲かせる儀式の旅をそう呼ぶ。すべての樹に花を咲かせることで、メルヴィオラは正式な聖女として力を受け継ぐのだ。

 国も人々も、メルヴィオラにそれを望んでいる。もちろんメルヴィオラも聖女として生まれたからには、それを自分の宿命として受け入れているつもりだ。

 でも。


「……あぁ、面倒臭い」

「聖女様?」

「っ、いいえ。なんでもありません。少し日差しが強くて……」


 思わずこぼれた本音が、そばに控える神官の耳に届かなくてよかった。そう胸を撫で下ろすと、前を行く神官長が呆れたように溜息をつく音が聞こえた。


「聖女メルヴィオラ。あなたはこの旅で聖女の自覚と品格も養って来るように」

「げ」

「げ、ではない。羽目を外さないよう、護衛の海軍大佐にもしっかりとお願いしている」


 高齢であるというのに、彼の声は小さくてもよく通る。幼い頃から何度も叱られてきたためか、大人になった今もメルヴィオラはこの神官長が少し苦手だ。

 旅に出ることも聖女であることも、どうせやめられないのだから、少しくらいのわがままは許して欲しい。そう思っても、きっとこの神官長には伝わらないのだろう。それがわかるから、メルヴィオラは口を噤んで耐えるしかないのだ。


 どぉん、と。派手な音を上げて空砲が鳴る。港に停泊している海軍の船からだ。旅の無事を祈って捧げられる空砲の大きな音に、集まった人々をはじめメルヴィオラもびくんと体を震わせて顔を上げた。

 その視界が大きく揺らぐのと、二発目の空砲が鳴り響いたのはほぼ同時だった。


「きゃっ!」


 階段を踏み外すという生易しいものではない。何かに衝突されたように背を押され、メルヴィオラの体は前方に勢いよく吹き飛ばされた。


「うそ……っ」


 落ちる。そう思った瞬間、メルヴィオラの視界に黒銀色の大きな狼が滑り込んだ。

 群衆の悲鳴が聞こえる。階段の上の方では神官長たちがメルヴィオラの名を呼んでいる。思ったほど痛みを感じない体に目を開けば、メルヴィオラは自分が狼の背にうつ伏せに乗っていることを確認した。


「狼!?」

「悪ぃな。聖女サマは貰ってくぜ!」

「喋った!?」

「舌を噛みたくなかったら黙ってな」


 そう言うが早いか、黒銀色の狼が群衆の中を突っ切って街の東へと走り出した。手を離すという選択肢を与えないほどに素早く、かつ走るスピードは弾丸のように速い。これでは逃げるどころか、落ちないようにしがみ付いている方が利口だ。


「メーファ。船は?」

「予定通り」


 誰に喋っているのかと思えば、答える声は意外と近い場所から聞こえた。目を開く余裕はないが、メーファと呼ばれた少年の声はメルヴィオラと並走しているようだ。このスピードについてこれるのだからよほどの俊足なのだろう、と。そんなことを暢気に考えていると、背中に軽い衝撃を受けて思わず目を開く。何かが……多分メーファが背中に乗っている。


「おわっ! 急に乗るんじゃねぇよ。重量オーバーだ」

「疲れた」

「疲れたって、お前飛べるだろうが!」

「魔法は体力使うんだよ。僕の仕事は終わったから、もう休んでいいよね?」

「ちょ……っと、人を間に挟んで普通に会話しないでよ! っていうかどこに連れて行くつもり!? いい加減、降ろして!」


 手を離すという選択肢もなければ、今は背中にもうひとり重石の役割をしたメーファがのし掛かっている。狼が足を止めてくれなければ、メルヴィオラはどうすることもできない。


「俺はお前を奪ったんだ。奪った宝を手放す海賊なんざいないだろ」

「海賊ですって!? 何で……」

「あー、お姉さん。そろそろだから、気をつけて」


 気怠そうな声が背中から聞こえたかと思うと、視界が急に開けた。というか、目の前が崖だ。


「はぁ!?」

「お前ちょっと黙ってろ! ホントに舌噛むぞ!」

「ちょ、待って待って! まさかとは思うけど、このまま突っ込むの!?」

「しっかり掴まってろよ、聖女サマ」


 狼の走るスピードがぐんっと上がる。景色が流れ、視界に映るのは晴れ渡った空の青と、紺碧の――海。


「……っ、嘘でしょ」


 何の迷いもなく、メルヴィオラを乗せた黒銀色の狼が、崖を突っ切って海へ飛ぶ。そこで、メルヴィオラの意識が途切れた。



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