【十八】仮面の者


「うぅっ」


 目覚めた瞬間、左肩に激痛が走り、顔を歪めた。

 翼は左肩を抑え、包帯のようなものが巻かれていることに気がついた。上半身裸だ。誰かが手当てをしてくれたのだろうか。


 いったいここはどこだろう。家なのか。木の家。倉庫だろうか。動物の毛皮らしきものが床に敷かれている。

 まさか狼の毛皮か。翼は立ち上がろうとして、痛みに崩れ落ちた。


 ダメか。思ったよりも傷が深いようだ。

 ここは安全な場所なのだろうか。誰かが狼から救ってくれたのだろうか。それとも、狼たちがここへ連れて来たのか。

 よくわからない。頭もなんだかクラクラする。


「あっ、目が覚めたの。よかった」


 今の声は。

 声のしたほうを見遣ると巫女姿のヒカリがいた。

 違う。これは巫女の衣装ではない。似て非なるものだ。巫女姿にしては露出が多い。なんて格好している。目のやり場に困る。袴が短すぎだ。


 へそ出しで、胸のあたりも……。

 まずい、エッチな気分になってきちまった。こんなときに変な気を起こすんじゃない。ヒカリとやっと会えたんだぞ。


「どうかした」

「いや、別に」

「別にって。私、待っていたんだからね。助けに来てくれるのを」


 ヒカリが涙目になり突然抱きついてきた。

 ふわりとヒカリから漂う匂い。


 んっ、これって何の匂いだ。ヒカリってこんな匂いをしていただろうか。シャンプーのいい香りだったらよかったけど、なんか違う。嫌ではないが、いい匂いではない。汗臭いわけでもない。いったい何の匂いだろう。


 翼は首を捻り、ヒカリの様子を窺う。

 どうみてもヒカリだ。ヒカリだけど、なんだろう。何かが違うような。


 ずっとここで過ごしていたんだ。変わってもおかしくはないのか。いつも使っていただろうシャンプーもないだろうし。


「会いたかったんだからね。五年だよ、五年」

「ごめん」


 ギュッと抱きしめてくるヒカリ。ぬくもりとともにヒカリの胸があたる。

 まずい、まずい、まずい。

 いや、まずいなんってことはない。ヒカリは自分と同じ気持ちだったのだろう。なら、ここで結ばれたって。


 気づくとヒカリの顔がすぐ目の前に。

 心臓がドクンと跳ね上がる。ヒカリはこんなにも積極的だったろうか。この地がヒカリを変えたとも考えられるのか。


 ヒカリの唇が近づいてくる。


 うわわわわ。

 馬鹿、何を狼狽うろたえている。こうなることを望んでいただろう。


 ヒカリの潤んだ瞳、柔らかそうなピンク色の唇。

 自分の中のマグマが熱を帯び始めている。一気に噴火してしまいそうだ。


 ヒカリの唇に自分の唇をそっと重ね合そうとしたそのとき、柔らかな風がヒカリと自分の間を通り過ぎていった。


 うっ、臭い。

 思わずヒカリを押し退けてしまった。


「なによ、翼。私のこと好きじゃないの」

「あっ、いや、その。そういうわけじゃなくて」

「それなら、ねっ、いいでしょ」


 おかしい。なぜだろう。さっきまで噴火寸前だった自分の中のマグマが冷え込んでしまっている。臭いのせいか。そうだとしても臭かったのは一瞬だけだ。今は感じない。


 なんだったのだろう。何かがおかしい。その何かがわからない。


 あっ……。

 ヒカリの唇が。


 ああ、心がとろけてしまいそうだ。キスってこんな気分にさせてくれるのか。


 ヒカリ。

 あれ、ヒカリは。


 抱き寄せていたはずのヒカリがどこにもいない。その代わり変な仮面を被った怪しげな者が目の前に立っていた。


「ふん、これでおまえは我の操り人形だ」


 操り人形。

『どういうことだ』としゃべろうとしたのに言葉が出てこない。その代わりに何か別のものが出てきそうだ。ムカムカする。気持ちが悪い。


「おまえの言葉は封じた。おまえが口を利くときは我の言葉しか出てこない。そう思え。それとそこの風の神よ。そこにいるのはわかっているぞ。我の邪魔をするとは小癪こしゃくな真似をひねりつぶしてやる」

「ぐぅぇっ」


 えっ、何。

 何もないところから突然呻き声があがり肝をつぶした。もしかして風の神なのか。風だから見えなかったのか。


 ちょっと待て。神様を捻りつぶせるこの仮面の者は誰だ。神様よりも力があるというのか。

 翼は寒気を感じて、ブルッと震えた。


「我もまだまだのようだ。古の神々すべてを掌握しょうあくできる力を手にしなくては。アラハバキが信用出来ぬ今、このままではすべてが水の泡となってしまう。日向ひむかの力は思ったほど役に立たなかった。ミサクチを探さねば。ヒカリも我の血肉となってもらわねば」


 こいつは何者だ。ヒカリの名前を口にした。今の感じだとヒカリはどこかで生きているってことか。こんな奴にヒカリを奪われてなるものか。なんとかしなくては。


「ふん、なんだその目は。ツバサとか言ったか。所詮、人の子。おまえらには何もできまい。足掻あがいても無駄だ。おまえにはしっかり働いてもらわねばな。ヒカリを誘い出すエサとしてな」


 高らかに笑う仮面の者。仮面の下はどんな顔があるのだろうか。

 恐ろしい化け物の顔なのだろうか。それとも美しい顔があるのだろうか。どちらにせよ危険だ。さっき一瞬感じた異臭はこの者の真の姿を現したものなのかもしれない。風の神が忠告してくれたのかもしれない。


 その忠告も無駄に終わってしまった。

 色香に騙されてしまった。情けない。


 なんとかしたいが、何もできない。声も出ないし、身体も思うように動かない。

 ヒカリと再会したことで舞い上がってしまっていた。冷静ではなかった。怪しいところは多々あったはずなのに。


 とんでもない奴がヒカリに化けているなんて思いもしなかった。

 キスだぞ、キス。しかも抱きしめられてのキスだぞ。気持ちがロケット噴射しないわけがないだろう。その結果が操り人形だ。わけのわからない怪しげな奴の操り人形だ。


 仮面の者はすぐ目の前で何も言わず立っているだけだった。


 うっ、気持ち悪い。

 えっ、なんだこれ。手が、手が、紫色になっていく。

 もしかして毒に侵されているのか。死ぬのか。まさかゾンビ化するとか。そんなの嫌だ。


 どうしたらいい。このままではすべてこいつの思う壺だ。ヒカリも危険にさらしてしまう。自分のせいで。


 誰か助けてくれ。巨大猫でも来てくれないのだろうか。狐でも狸でもいい。お願いだ、頼む。うずくまったまま祈り続けていたら、ふいにヒカリの顔が浮かんだ。


『ヒカリ、俺、もうダメかも』


 気持ちが沈んでいく中、ヒカリの微笑む姿がふと浮かぶ。


『頑張ってお願いだから。諦めないでね』


 励ます声まで届いてきた。

 今のはなんだ。幻覚か。幻聴か。


 毒に侵されているせいだろうか。いや毒だと確定したわけじゃない。気持ち悪さは少しあったが特に痛みや苦しみはない。ただ肌の色が変色していっているだけだ。何かしらの術をかけられているだけだろう。


『諦めないで』か。

 これこそヒカリらしい言葉かもしれない。遠いどこかで本当に励ましてくれたんじゃないかと思いたい。そうだとしてもこの窮地をどうやったら抜け出すことができるのか。


 翼は大きく息を吐き項垂れる。

 あれ、なんだかおかしい。頭が朦朧もうろうとしてきた。やっぱり何かしらの毒なのか。



***



「我は天魔だ。覚えておけ。これでおまえは我のしもべだ。おまえにはきっちり仕事をしてもらう。拒否はできぬから、そう思え。ツバサ」

「はい、天魔様」


 頭を垂れてひざまずく翼の姿に天魔は頷いた。

 これでいい。あとはミサクチとヒカリを呼び込むエサとなってもらうだけだ。天魔は翼の頭に手を置くと頬を緩ませた。


「ツバサ、おまえにはこれを授けよう。鉄隕石で作った隕鉄剣だ」


 嘗めるように剣を見遣り天魔は微笑んだ。なかなかいい出来栄えの剣だ。綺麗な龍紋が浮き上がって、いまにも龍が飛び出してきそうだ。


「ツバサ、美しい剣であろう。おまえはこの剣でこの地の王になるのだ。我のための王にな」


 この者もまさかヒカリを殺めることになるとは思っていないだろう。

 自らの手で愛する者を殺す。素晴らしい。ヒカリの驚愕きょうがくする顔が目に見えるようだ。悲劇のヒロインの誕生ではないか。

 ニヤリとして、すぐに真顔に戻す。


「誰かおるか。こやつを御弥山の麓に連れて行き、どこかの樹木にくくり付けておけ」

『ミサクチ、今度こそ息の根をとめてやるからな』


 んっ、なんだ。ほんのわずかだが空気の流れを感じた。

 戸口に目を向けて顔を歪めた。まったく性懲りもなく邪魔をしようっていうのか風の神。息の根を止めたと思ったが、そう容易たやすくはなかったか。なかなかしぶとい奴だ。


「おい、そこの者。そやつを連れて行くのはやめだ。倉庫に閉じ込めておけ」


 おそらく風の神に話を聞かれただろう。待ち伏せされても困る。もう一度、策を練ったほうがいいだろう。

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