【二十】闇から迫る者
日が暮れてしまった。
星の瞬く濃紺の空を見上げて、小さく息を吐く。月も綺麗。
女王か。ここに来て、女王らしいことはやっていない。こんなんで大丈夫なんだろうか。
なぜ自分が選ばれたのだろう。凄い才能が眠っているとか。まさかね。
ヒカリはなかなか眠れずに星たちを眺め、いろいろと考えを巡らせていた。
やっぱり帰りたい。どうやったら帰れるのだろう。
今だったら皆に気づかれずに吊り橋のある森へ行けるかもしれない。
ダメだ。道がわからない。どうやってここへ来たのかさっぱりわからない。無理だ。それにもしも襲われたら……。
背筋がゾクゾクッとした。ここで頑張るしかない。そうよ、日向を見返してやるんでしょ。そうは言ってもやっぱり自信はない。
まったくダメだ。こうなってしまったのも全部自分のせいだ。時間を巻き戻して学校から帰るところからやり直したい。それができたら帰り道を変えてしゃべる狸とも出会わないようにすればいい。そうそうショッピングモールに行っちゃえばいい。
あのときマキの言葉に頷けばよかった。簡単なことだ。
わかっている。でも、時間を巻き戻すことは簡単じゃない。できるわけがない。
ふとマキの顔が浮かぶ。
『ごめん、マキ』
今更遅いか。後悔先に立たずだ。
翼の顔も浮かんできた。
きっと心配しているだろう。絶対にみつけるって御弥山を捜索しているかもしれない。危ないからって皆にとめられて
翼はそういう人だ。いつも守ってくれた。頼りがいのある人だ。
もしかしたらここに助けに来てくれるかも。
ううん、それは無理。無理に決まっている。そう簡単にここへ辿り着けない。それどころか命を落とす恐れだってある。そうなったら自分のせいだ。
こうして生きているのは運がよかっただけ。
ヒカリは頭を振って「違う」と呟いた。自分は神獣に導かれてここに来た。そう日向の後継者にさせるために。そうだとしたら翼がここへ辿り着ける確率はゼロだろう。神獣たちは翼を必要としていないもの。
帰りたい。皆に会いたい。
父さん、母さんに会いたい。マキと遊びたい。翼の笑顔を見たい。いくらそんなことを思ってもやっぱり無理だ。
帰れない。絶対に帰れない。
帰ろうとすれば命を奪われるかもしれない。
ナゴもコセンもムジンも優しそうだけど、それはきっと女王としての務めを果たすという条件付きでのことだ。拒否した時点ですべてがなくなる。そう思ったら胸が苦しくなってきた。
馬鹿、馬鹿。何をマイナスなことばかり考えているの。もっとプラスなこと考えなきゃダメ。わかっている。そんなこと。
どうしても、マイナス思考に引っぱられてしまう。マイナス思考になるのはこの暗さのせいかも。きっと、そうだ。ちょっとでも明かりがあればいいのに。
もう寝よう。寝てしまえば、嫌な考えも消え去るはず。
身体を丸めて掛布団を頭まで被る。
『マキ、翼、お父さん、お母さん、お祖父ちゃん、お祖母ちゃん。誰でもいいから迎えに来て』
ヒカリはそう念じて、息を吐く。眠れない。
んっ、なに。今、気配を感じた。誰かいるのだろうか。さっきまで誰もいなかったはずだ。足音だってしなかった。
どうしよう。
ヒカリは意を決して呼びかけた。
「ナゴなの。それともコセン。ムジン」
返事はない。
気のせいだったのだろうか。
掛布団からゆっくり顔を出し、目を凝らす。誰もいない。やっぱり気のせい。本当にそうなのか。見えないだけかもしれない。暗過ぎる。月明かりもないみたい。
なんだろうこの胸騒ぎは。
虫の音が微かに耳に届く。心地いい音色だと普段だったら癒されるはずなのに妙に落ち着かなくなる。やっぱり
月は雲に隠れてしまったのだろうか。
夜ってこんなにも怖いものだったのか。ちょっとガサッと物音がしただけで身体が強張る。身体中が脈打っているみたいにドクンドクンとの音が鼓膜を震わせる。
大丈夫、大丈夫、きっと誰もいない。何も起きない。さっき感じた気配は気のせいだ。
「ふふふ」
えっ、嘘。笑い声がした。空耳じゃない。やっぱり誰かいる。
後ろだ。ヒカリはごくりと生唾を呑み込みゆっくりと振り返る。
闇の中、淡い光りを帯びた不思議な存在がそこにいた。
何、あれは何。
宇宙人。そんな馬鹿な。あっ、わかった。あれは土偶だ。
でも、でも、でも。
なんで動いているの。土偶が動いている。
魔物? まさか本当に宇宙人?
どこから入り込んだというの。コセンは結界を張ったって。ここは守られているはずだ。
なぜ、どうして。ちょっと待って。敵とは限らない。もしかしたら味方かもしれないじゃない。そうだ、きっとそうだ。だから結界の中に入れたんだ。
ヒカリは首を傾げて、土偶をみつめた。
やっぱり、どう考えても怪しい。
「おまえは
いったい何を言っているの。
「鎮めるって」
「ふむ、なるほど。そうか、おまえはまだ目覚めていないのか。異国の者が守っているようだな。気に食わぬ。ここは古くから我らの土地であった。侵略することは許せぬ。だが、おまえの心根は今までの王とは違うようだ。期待したいところだが目覚めておらぬとは残念だ。遅い、それでは遅過ぎる。もう我には止められぬ。おまえには死が待っているだろう。いや、まだ間に合うだろうか。真実を見極め鎮めることができればもしかしたら」
さっきから何を話しているの。真実ってどういうこと。
「いったい、あなたは……」
「いいかよく聞け、喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、憎しみ、怨み、辛みと感情はいろいろあるが負の感情に囚われるでないぞ。しっかり見極めてこの地に
もちろん死にたくない。でもどうすればいいの。『目覚めるのだ』って言われてもわからない。
あっ。
ヒカリは土偶の背後に
「ヒャッ」
「ふん、
半分に割れた土偶が粉々に砕け散り光の
ヒカリはハッとした。
何かが自分の中を通り抜けていき「人とは哀れな生き物よのお。だが……」との言葉を残していった。
えっ、何。ちょっと待って。何が言いたかったの。全部言って。
『だが』のあとに何が続くの。
気になってしかたがなかったが続きの言葉は聞けなかった。いったい何者だったのだろう。
ドンと目の前で地響きがして我に返る。
今度は何。
「くそっ、取り逃がしたか。まあいい。あの者がいなければここまでの力を手に入れることはできなかったからな」
「だ、誰なの」
「ふん、死にゆく者が我の名など知る必要はない」
闇の中にカッと見開かれた真っ赤な瞳が浮かぶ。
息苦しい。胸を押さえヒカリは
深呼吸をしようとして、吐き気が込み上げてくる。
何、この臭い。焦げ臭さがどんどん増してくる。昼間に感じた嫌な臭いと似ている。
金木犀は。ヒカリは金木犀が飾られた壺に目を向けて
金木犀が枯れている。あれ、暗いはずなのになぜ見えるのだろう。
あっ、焦げ臭さが近づいて来る。もしかしてこれは死臭。ふとそんな言葉が浮かんだ。
嫌だ、来ないで。死にたくない。
誰か、誰か来て。
そう叫びたいのに声が出てこなかった。
「助けに来る者はいないぞ。ふふふ」
ドクン、ドクン、ドクドクドク。
心臓の鼓動が速まっていく。嫌だ、絶対に嫌だ。どうにか助けを呼ばないと。
ナゴの愛らしい顔が不意に浮かび、少しだけ気持ちが落ち着いた。
大丈夫、大丈夫だから。きっと助かる。そうでしょ。
ヒカリは迫りくる真っ赤な瞳から逃げようとゆっくり後ろへと移動する。
「ふふふ、捕まえた」
足首をひんやりする手にギュッと掴まれた。
「イヤァーーーーー。やめてーーー。誰か助けて」
声が出た。もっと叫んで助けを呼ばなきゃ。
「誰かいるのか。大丈夫かーーー」
誰か来た。
この声は誰。ナゴでもコセンでもムジンの声でもない。誰だろう。どこかで聞いたことがある声だけど。
あれ、森が見える。何かがおかしい。
ここは寝殿の中のはず。一瞬だけ懐かしい街並みが目に留まる。あそこに飛び込めばもしかしたら帰れるかもしれない。期待とは裏腹に足をグイグイと引っ張られて、森の景色から離れていく。
「助けてーーー。お願い」
「ヒカリーーー。どこだーーー」
あっ、この声。
「ヒカリーーー」
やっぱりそうだ。翼だ。翼はあの森にいる。なぜかわからないけどこの世界と翼のいる世界が繋がっている。
あっ、光る花だ。そうか、あの花が繋げてくれているのか。
痛い、やめて。帰らせて、お願い。
ひんやりする手の力が増してどんどん引っ張られていく。
「ツバサーーーーー。助けてーーー」
もとの世界に戻らせて。お願いだから。
「ふん、馬鹿が。おまえは帰れない。おまえは我の一部になるのだからな。うっ、だ、誰だ」
誰だって何。誰か来たの。もしかして翼が。
うわっ、何、耳鳴りが。ヒカリは目を閉じて
びゅおう、びゅおう。
突然、唸り声が響き渡り髪を掻き乱す。
風だ。物凄い勢いの風が舞っている。何がどうなっているの。
うわわっ、寝殿が揺れはじめた。建物が崩れてしまいそう。ああ、ダメ。森の景色が薄れていく。
「ツバサーーーーー」
そんな……。景色はもとの闇に戻ってしまった。
もうダメだ。このままここで殺されてしまう。
風の唸り声とともに「馬鹿者、しっかりしろ。やっぱりおまえは乳臭い小娘なのか」との怒声が耳を打つ。
えっ、この声って。
あっ、誰かの手が触れた。やめて放して。死にたくない。
腕をギュッと強く握られて引っ張られる。痛い。やめて。ヒカリは抵抗しようともがいたが引っ張る力のほうが強かった。ダメだ。もう逃れられない。
終わりだ。諦めの気持ちが増していく。
「私って役立たずね。ごめん、みんな」
もう終わりだ。きっと。
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