一章 御弥山の神隠し
【一】不思議な狸
風が気持ちいい。
自転車を
あれ、なにか光った。山で光ったのだろうか。気のせいだったろうか。
「ねぇ、ヒカリ」
「んっ」
隣で並走するマキを横目で見た。
「あのさ、こないだヒカリの家に来ていた。えっと、あの」
何、口籠って。なんかマキの顔がほんのり赤いみたい。
「どうしたの、なに」
「だからさ、あのさ。カッコイイ人が来ていたじゃない」
カッコイイ人。誰のことだろう。
「親しそうに話していたじゃない。親戚かなにかなの」
親戚。えっと……。もしかして。違うか。かっこよくはない。
聞き間違いだろうか。ヒカリは首を傾げた。
感じ方は人それぞれだし、マキにはかっこよく見えるのかも。思い浮かぶのはひとりしかいない。
「ツバサのことかな」
「えっ、ツバサっていうのあの人」
んっ、マキの顔が赤みを増した。
「もしかして、マキ。好きになっちゃったとか」
「えっ、な、なに言ってんのよ。そんなこと。ヒカリのバカ」
やっぱりそうなのか。わかりやすい。
「そうか。好きなのか」
「だから、もう。そんなんじゃないって。えっと、あのさ、そのなんていうか。ところで、あの人、ヒカリと付き合っているってわけじゃないよね。ねっ」
「えっ、うん、まあね。家族ぐるみの付き合いで優しいお兄さんって感じだよ」
優しいお兄さんか。
あれ、なぜだろう。気持ちが上擦ってきた。なんか胸の奥がほんのりあたたかい。
どうしたんだろう。ツバサがなんだっていうの。
「よかった」
「えっ」
マキと目が合ったら、頬の赤みが更に増した。もうマキったら。
「そんなに好きなんだ」
「もうヒカリったら、ヤダ」
「うわわっ」
突然マキに押されてハンドルが揺れる。
ヤダ、ヤダ。助けて。死ぬ。
蛇行する自転車をどうにか制御しブレーキをかけて、足を地面につけた。
助かった。
心臓がバクバクいっている。
「もうマキ。危ないじゃない。死ぬかと思ったじゃない」
「ご、ごめん」
びっくりした。本当に止まれてよかった。
ああもう。マキったら、そんな顔しないで。怒りたくてもこれ以上怒れないじゃない。マキの申し訳なさそうな顔をまじまじと見て、どうにか笑みを浮かべる。
「おや、おや、お嬢ちゃんたちは中学生かい」
突然の声にヒカリは振り返る。
おかしい、確かに声がしたのに誰もいない。風に踊らされている枯葉がカサカサと音を立てているだけだ。
「おや、この感じは……もしや。匂う、匂うぞ」
また聞こえた。笑い声も。誰もいないのに。
いったい何が臭うっていうの。ヒカリは脇の下を嗅いでみた。臭くはない。
嫌だ、なんで脇の下なんて嗅いでいるの。マキに見られたんじゃないかと気になったが、マキのほうを向けなかった。
それにしても誰なの。臭うだなんて失礼なこと言う人は。
うっ、な、なに。
腕がジンジンしてきた。袖を
痣を見入っていると、なぜか生まれてきたときの自分が見えた気がした。
確か、この痣は生まれたときからあるって両親から聞いた。なんなのいったい。落ち着いてきていた心臓が再び鼓動を速めていった。
あれ、なんで。一瞬、
「みつけた。報告だ」
まただ。声のしたほうに目をやると一匹の狸と目が合った。
「ふむふむ、なるほど。
ヒカリは狸をじっとみつめた。
狸がしゃべった。
嘘、これって夢。違うとすぐに頭を振る。
それじゃなんだと言うの。まさかこの狸は化け物とか。妖怪かも。
あっ、神様とか。
ない、ない。狸が話すはずがないし、妖怪とか神様とかありえない。
それなら今の状況をどう説明したらいいの。どうしよう。頭がおかしくなっちゃったのかもしれない。
まさか、いつの間にか異世界に紛れ込んじゃった。
馬鹿、馬鹿。そんなことありなえないでしょ。漫画や小説じゃあるまいし。
けど……。
あたりに目を向けたがどう見てもいつもの通学路だ。異世界のはずがない。
「なあ、星那ヒカリって名前だけど。いい名前だよな」
んっ、えっ、なに。まだ聞こえる。
ああダメだ。パニックになりそう。頭を軽く叩きどうにか冷静さを保とうとする。そういえばなんでこの狸、自分の名前を知っているの。
違う、違う。そういうことじゃない。なぜ、話せるの。
ヒカリは寒気を感じて身体を震わせた。
「ねぇ、どうかしたヒカリ」
不意に声をかけられて我に返った。
一緒にいたマキがすぐ横で不思議そうな顔をしている。
ヒカリは空を見上げて、深呼吸をした。
どうかしている。
きっと変な妄想をしていただけ。狸はしゃべらないし、自分の名前も知らない。
大丈夫。大丈夫。
今は学校から帰る途中の道にいる。隣にはマキがいる。一人じゃない。何も怖いことは起きない。
もう一度、深呼吸をしてマキに微笑みかけた。マキは小首を傾げていた。
「ねぇ、なんか変だよ。ヒカリ、大丈夫」
「うん、大丈夫。あのね、そこに……」
言葉を話す狸がいる。そんなこと言えない。
そうそう、そこにいるのはただの狸でしょ。
「えっ、何」
「ほら、狸よ、狸」
「狸? あっ、本当だ。この辺にも狸がいるんだね。んっ、いてもおかしくないのか」
おかしくはない。きっと向こうに見える山から来たのだろう。それとも近くの森にでも住んでいるのか。
あっ、あそこは森じゃなくて古墳か。ただ人の言葉を話す狸にお目にかかるのははじめてだ。またそんな妄想して。狸は話さない。空耳だ。
本当にそうだろうか。妄想と言っていいのだろうか。
なぜか、そうとは思えない。
そうじゃないでしょ。どう考えたって妄想。自分の作り出した妄想。そうそう、そう思えば一番納得がいく。
狸はこっちに目を向けてニヤリとすると、お辞儀をして道路を渡っていった。
嘘でしょ。今笑った。しかもお辞儀をした。
やっぱり普通の狸じゃない。まるで人みたいじゃない。
「ねぇ、今、狸が笑ったよね。お辞儀もしたよね。マキも見たでしょ」
「またまたヒカリったら。狸が笑ったりお辞儀をしたりするわけないじゃない」
「したって。見なかったの」
「見なかったよ」
もう、ちゃんと見ていてほしかった。絶対に笑ってお辞儀をしたのに。
止まってくれてありがとうとでも思ったのだろう。違うか。
なんだか後継者がどうのとかって。意味がわからないけど、凄く嬉しそうな感じだった。狸ってあんなに感情豊かだったろうか。そう考えて急におかしくなって噴き出してしまった。
もう何を考えているの。
真顔に戻して小さく息を吐く。
狸は話したりお辞儀をしたりしない。もちろん、笑ったりもしない。全部、妄想。
しっかりして。狸は狸。ただの狸。
そういうこと。もう何も考えない。全部、終わり。
なんだかちょっとクラクラする。考え過ぎちゃったかも。
「なに、どうしたの。やっぱり変だよ、ヒカリ」
「いや、ちょっとね。頭がね」
「変なの」
「そうなの、私、頭が変みたい。って、そうじゃないでしょ。もうマキのバカ」
「ごめん、ごめん。冗談だって。そんなに怒らないでよ」
「冗談ね。わかっているわよ」
ヒカリは大きく息を吐き出し、狸が歩いていった先に目を向けた。
狸はどこかの草むらにでも入り込んでしまったのか、どこにも姿がなかった。狸の消えた先にあるのは古墳だ。やっぱりあの森に住んでいるのかもしれない。
んっ、いま何か聞こえたような。
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