11
意識が浮上して、ゆっくりと目を開けた。見知らぬ天井。眠っていたのは、随分柔らかな布団のようだ。いや、これはベッドか。
視線を動かすと、そこがかなり広い洋室だと分かる。ホテルの類いでは無さそうだし、使っている形跡は無いが、どこかの屋敷の客室のひとつ、といった所だろうか。フレスティアの大屋敷の客間にも負けずとも劣らない。
また別の場所に視線を向けると、人の背中が見えた。後ろ姿でも分かる。彼は、自分が愛する人だ。
起き上がって、改めてその姿を見つめる。彼の前の机には紙が山積みになっていて、ブツブツと何かを言いながらそれを処理しているようだった。
ふと、三日前に聖から缶コーヒーを一つ渡されていたのを思い出した。片付けたままで放置していたそれは、片手をひらりと返すとその手の中に現れる。
集中しているのか、ベッドから降りる時の衣擦れの音にも気付いていない様子で彼・桂十郎は作業を続けていた。
服も手袋もそのままだ。ただ襟巻きを外されているだけ。その襟巻きも畳んで枕元に丁寧に置かれている。刺した筈の胸元には、傷ひとつ無い。そう言えば、ネックレスが千切れて石は落としていたんだった。それなら剣でなんて傷を負うわけがない。思考が歪んで忘れていた。となると、倒れた原因は心理的なものか。
……その石は、今はまたエミルの胸元で輝いている。誰かが鎖を直して、首に掛け直したのだろう。
声も無くひとつ息をついて、動かない背中に向かって歩く。彼の斜め後ろに立つと、持っていた缶コーヒーを机の上に置いた。
「! ああ、起きたのか」
「……」
振り返った彼に、返事は出来ない。ただ一方的に気まずくて、視線を背ける。
「シカトは辛いなー」
どうしてこんなにも優しいのだろう。仮にも自分に刃を向けた相手に、どうして笑いかけられるのだろう。
愛してはいけない、愛される筈のない存在を前に、どうして。
すっと、身体ごと桂十郎がエミルを振り返りながら立ち上がった。視線を合わせないエミルを、ぎゅっと腕の中に閉じ込める。
「! な、何?」
「セレン」
「っ!?」
ビクリと肩が跳ねた。
どうしてその名を呼ぶのか。それを知っているのは、聖だけの筈なのに。
いや、あの日あの崖下でたった一度、聖がその名を呼んだ。その時確かに、桂十郎も居たのではなかったか。まさかそれだけで、それが本名だと気付かれたのか。
「好きだ」
はっきりと、すぐ側で、間違いなく聞き取れる声量で言われた、ただ一言。それを処理しきれなくて、エミルの思考は止まった。
「…………え?」
「や、聞き返されると小っ恥ずかしい」
ぎゅうぎゅうと抱き締められていて、顔が上げられない。
理解出来ない。彼は今、何と言った? 好きだと? 誰を?
今この場に居るのは、エミルと桂十郎の二人だけ。宛のない言葉ではなく、目の前に居る人物に向けられた言葉。
「そんなわけ……無いじゃない……」
有り得ない、と思う。
「だってあたしは、誰にも愛される筈なんて無い……誰かを愛する資格も無い……」
存在そのものが罪だというのに、どうしてそんな惑わせるようなことを言うのか。
「そんなことは無い。俺は愛してる」
「どうして……」
「あー……何でだろうな? その辺は俺にもさっぱり」
いつから泣かなくなったのだろう。覚えてはいないが、聖に引き取られた時には既に「泣いてはいけない」と思っていた。最後に泣いたのは、家族が死んだあの日だ。それすらもしばらく振りだった。
だというのに、涙は容易に溢れてきた。
「俺は、セレンに生きてて欲しいよ。出来れば俺の傍で」
「っ……けい、じゅ……」
知らなかった。泣くと、声が詰まるのか。
「好きな子に好きになって欲しいって、生きてて欲しいって思うのは、俺のワガママなわけじゃないと思うんだよ」
そんなこと、今まで誰も言わなかった。
親の愛すら不確かなセカイで、聖も海斗も、そして悠仁も大事にはしてくれたけど。責任だとか、そういうものでしかない筈で。
愛してるという言葉を、まっすぐ受け止められなかった。生きていて欲しいなんて、言われたことは無かった。
「っ、あ……たし……」
ボロボロと溢れる涙が止まらない。これまで泣かなかった十年分、決壊してしまったかのようだ。
「けぃ、じゅ……ろ、さん……好、きで、いて、いいの?」
「そうだと嬉しい」
「生きてて、いい、の?」
「だから、生きてて欲しいんだって」
頭上で、彼が笑った気配がした。
両手を上げて、その背に回す。その手に力が入るのを止められない。
「っ、ふ……う、うわあああん!!!」
ヒュペリオン体質の目いっぱいの力で握り締めたら、骨だって折れてしまいかねない。分かっているから加減をしなければいけないのに、普段は加減出来ているのに、今はそれが出来ない。
縋るように桂十郎を強く強く抱き締め返し、しばらくの間泣く。
やがて泣き疲れて、桂十郎に寄りかかったままでエミルは眠った。
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