18

 数日後。地方の視察という名目を持った仕事で外に出ていた桂十郎は、目の前に聳える崖を見上げた。


「……これは?」

「うん、一言で言うなら、書類不備だね」


 共に来ていた遊亜が軽い口調で言う。

 途中からおかしいとは思っていた。いくら何でも山が深い。だが記載された住所は確かにその先で、これまでこういった形での書類の不備など無かった。

 元々、書類関係は桂十郎の手元に行く前に遊亜が確認することになっている。彼がこんな単純なミスをするなど、普通は考えられないのだが。

 一人崖の方に歩み寄って辺りを見回す遊亜を見ながら、違和感を募らせる。何かの意図があるように感じる。だがそれが何なのかが分からない。

 そう考えていたところで、


「『夢幻桜』……!?」


 崖の上から、そんな声がした。聞き覚えのある声。たった二度会っただけの、ずっと会いたかった人の。

 まさか、と思う。微かに聴こえてくる声が、何の話をしているかは分からない。だがどうやら、複数人の話し声のようだ。見上げるも、その先は見えなかった。

 集中して何とか声が聞こえる程度で、話の内容までは分からない。それなりに崖も高い。人影など見えようも無かった。

 上で何が起こっているのか。何とか聞き取ろうと意識を集中しかけて、


!!」


 悲鳴のような声と共に、頭上に影が出来た。追うように、白い影が現れる。先の影と白い影が重なって、落ちてくる。


「っ……!」


――ドサッ


 間一髪でかわした桂十郎が直前まで居た場所に、その影は墜落した。それは、二人の、人。


「……っ、ぅ……」

「! ! 大丈夫か、おい!?」

「…………る、さい……わね……」


 勢いよく起き上がった男性――悠仁の体の下には、見間違いようも無く、アイスの姿があった。痛みに耐えるような表情で、片目を何とか開いて悠仁を見上げる。

 そこに居るのは、アイスだ。だが悠仁は今、何と呼んだ? エミルを呼ぶ時と同じように、「姫さん」と。


「アナタは、無事?」

「オレは何とも……。それより姫さん! オレを庇ったせいで、怪我……!」

「うるさい。大したこと無いわよ。ただの打撲と擦過傷。このくらいの傷は日常茶飯事よ」


 素っ気なく、冷たく、それでも優しい言葉をかける。それからアイスはキッと、悠仁を睨みつけた。


「とにかく、まずそこを退いて。重い」

「! わ、悪い……!」


 落ちてきた体勢のままアイスに乗っているのに気付いた悠仁が慌てて飛び退くなり自分も起き上がって、アイスはようやく桂十郎と遊亜が居るのに気付く。同様に、悠仁も気付いたようだ。

 あちゃ~、と後ろ髪を掻いて、アイスに視線を送る。だが当のアイスは、何てこと無いような表情をして桂十郎を見ていた。


「流石に今ので確信出来たかしら? まさか今の今まで本気で気付いてなかったなんてことは無いわよね?」


 挑発するように、だが自分からは核心を突いた言葉は言わず。

 本気で気付いていなかった、なんてことは言えない。普段の桂十郎なら気付いていた筈だった。


「…………エミル……」

「……」


 ふっと、アイス――エミルが目を細める。無言の肯定を、ただそれだけで示した。


「……姫さん」

「遅かれ早かれ知られること。たまたま今だっただけよ」


 淡々とした口調で告げて、アイスは崖の上を見上げた。その先で、終わっていない仕事がまだ残っている。始末をつけて来なければ。

 一度桂十郎を振り返り、アイスは酷く冷たく、完璧な微笑みを満面に浮かべて見せた。


「だから言ったでしょ。『深入りしないで』って」


 ただそれだけ言って、アイスは地を蹴った。崖の出っ張りに手や足を引っ掛けて、器用に登っていく。

 そのまま姿が消えて――しばらく後。バタバタと重い雫が落ち、それは一瞬で地面を紅く染めて終わる。血の雨とはこんな風に降るのかと、場違いにぼんやりと考えた。

 消えたアイスの背を追うように崖の上を呆然と見つめる桂十郎を見て、悠仁と遊亜はため息をついた。


「こんな風に、傷付くような気がしてたんだ」

「……」

「姫さんはさ、案外、脆いんだぜ?」


 聞いているのかいないのか分からないような桂十郎に、淡々と悠仁は言う。

 脆い、少女。まだ『エミル』なら理解出来たかも知れない。でも『アイス』となると。身近に居るいくつかの前例を知っているのに、想像もつけられなかった自分が憎い。

 背格好も、髪も目も、そう言えば同じだ。気付かなかった自分が馬鹿馬鹿しい。

 何故気付かなかったのか。のか。


「きっと今頃、涙を堪えて泣いてるとこだ」


 顔を上げ、悠仁も崖の上を見る。


をちゃんと泣かせることも出来ないなら、ここで手を引いてくれ」


 これ以上、傷付ける前に。『エミル』が壊れる前に。

 正体を知られることが『傷』になるのは、彼女が優しいからだろうかと、回らない頭で考えた。

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