第36話

「……いや、聞いてないんだけど」


 突然の発言に皆が困惑する中、信一が答えていた。


「えっ、なんでよ」


「なんでよじゃないし。そもそもどうやって知ったのさ」


 眉間に皺を寄せた景子に同じく怪訝そうな表情で信一は返している。


「どうやってって出張前に家賃手渡しに言った時言われたのよ。その後皆には連絡するって言ってたはずだけど……」


 そこまで言って、景子は口を止める。

 そしてゆっくりと目を閉じて、しばしの逡巡の後、


「……あのジジイ。忘れやがったな」


 舌打ち混じりに毒づいてから、


「しょうがない。そういうことになってるから」


「しょうがないってそれじゃ済まないでしょ」


 大きくため息をついた景子に、信一が非難する。

 このアパートの大家は八十近くのおじいさんだった。

 奥さんの姿はなく、いつも一人。愛想が悪く、外で会った時挨拶をしてもだいたい返事は無い。

 年相応に小柄で腰の曲がった、信一曰く偏屈爺との事だ。家賃も振込ではなく手渡ししか受け付けていないため、毎月必ず景子、ないしは顕志朗が支払いに行っていた。

 と言っても大家の自宅はここからすぐの一軒家だ。昔はここの最上階に住んでいたらしいが歳を理由に引っ越していた。

 それにしても、

 まじかぁ……

 そんな感想しか光秀の頭には浮かんでこない。

 突然のこと過ぎて実感が湧いていなかった。どこかでどうにかなるのではという楽観もあった。

 景子と信一が言い合っている中、他の人達はただ呆然と立ち尽くしていた。

 その中で一人、 

 

「そ、そもそもいつなんですか?」


 由希恵が話しかける。

 彼女も混乱しているようで、ちょっと上擦った声になっていた。

 それを聞いた景子は、


「今年度いっぱいよ」


 短くそう答える。


「なんでなんですか?」


「理由は二つ。元々学生用のルームシェアだから二人が卒業したら出ていって欲しいってのと──」


 景子がそこで一息入れる。

 そして伏し目がちに言葉を発する。


「──子育ては駄目だって」


 その一言に、ざわめきが生まれる。

 光秀は顔を動かすことが出来ずにいた。

 動かしたら、恵美を見てしまいそうだったからだ。

 彼女のせいでは無いことは誰しもが分かっている。景子の言う通り、どうしてもお金に不自由のある学生へ向けた物件だとすれば、いい社会人が住み続ける方がおかしいのだ。現に自由に使えるお金も貯金もこの二年足らずでそこそこな額になっている。

 ぶっきらぼうながら意外と篤志家だったのかもしれない、と光秀はあの気難しそうな大家の姿を想像する。そのような理由がある中で卒業した後も最大三年間置いておいてくれているだけ温情だとも言える。

 だから恵美の妊娠はただの付随した問題のひとつにもならない。それでも彼女を見てしまったら自分のせいかと気にする可能性が脳裏にチラついて、光秀はただ地蔵のように静かに直立するしか無かった。

 こればっかりはどうにもならないな、と諦めの言葉が浮かぶ。

 それでも予想だにしない解法を思いついたりしないかと助けを求めて周囲を見渡す。

 

「そんな、どうして……」


 由希恵は床を見つめながら零すように呟いていた。

 それが聞こえたのかは分からないが一番後ろから見ていた顕志朗がゆっくりと話す。  


「仕方ないな。そういう事情ならこちらが譲歩するしかない」


「それでいいんですか?」


 それを聞いて光秀は反射的に手が伸びていた。

 ただ由希恵に触れる前に、


「……嫌だ、と思う」


 苦虫を噛み潰したように歪めた顕志朗の表情を見て、由希恵は驚いて一歩引いていた。

 光秀はゆっくりと彼女の肩に手を当て、


「由希恵」


「……ごめんなさい」


 そして由希恵は小さく頭を下げる。

 まさかなぁ、と光秀は彼女を引き寄せながら思う。

 どうしようもない、仕方ないと判断したら感情よりそちらを優先する。顕志朗ならそんな合理的な思考をすると思っていたからだ。

 感情的になるのは人に任せ、話が脱線しないように舵取りをする。自分の内心は置いてそうするだろうと想定していたのに、一番に意志を示したことが、由希恵にもどういうことか伝わっていた。

 ぐっと固くなった彼女の体は、石のように冷たい。その肩を数回叩きながら、大丈夫、と声を掛けるとその緊張も少しづつ解けていった。


「しかし、そうなると取れる手段は二つだな。同じようなところを探すか、全員別れるか」


 代わりに、現実的な提案をしたのは聡だった。

 その事自体珍しいことなのだが、

 それは駄目だろ……

 光秀は変な頭痛を感じて目頭を押さえる。

 聡の言っていること自体は間違いでもなんでもない。

 ただ、


「相原さん、空気読めてないっす」


 詩折の言葉に、聡は首を小さく傾げて、


「ん? でも事実だろ?」


「うちらは元からそうするつもりだったからいいっすけど皆は今日突然なんすよ? 言うにしても本人達が言うことっす」


 聡以外の総意を代弁した発言に、言われた方は惚けた顔をしていた。


「んーそういうもんか?」


 聡からしてみれば話を早く進めた方がいいと思っただけなのだろう。

 

「とにかく、まだ時間は……なくはないから考えておいて。私は寝る!」


 今結論を急ぐことは無いと意味を伝えると、景子は足早に自室へと向かっていった。

 残された七人は互いに顔を見合って、

 どうしようかねぇ……

 何から決めていけばいいかも分からず、ただ暗い息を吐きつづけていた。

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