第153話 美羽の春休み

「ん……」


 美羽の春休みは、頭を撫でられる心地良い感覚から始まる。

 決して飽きる事のない、骨ばった男らしい手の優しい触り方に、再び眠ってしまいそうだ。

 しかし最近の生活リズムからすると、あと数時間も経てば昼になってしまう。

 美羽を微睡みへと誘う手に撫でられながらも、これ以上寝てはいられないと必死に目を開ける。

 ぼんやりとした思考のまま顔を上げれば、愛しい彼氏が優しい微笑を浮かべていた。


「おはよう、美羽」

「おはよぅ、ゆぅくん」


 美羽が悠斗を抱き締めながら寝る時もあるが、目を覚ますと悠斗は必ず美羽を抱き締めてくれている。

 低めの聞き取りやすい声に挨拶を返すと、悠斗の指が頬に触れてくれた。

 寝起きの美羽を気遣うやんわりとした触り方に、美羽の唇が弧を描く。


「起きるか?」

「……もうちょっと、いい?」


 朝食兼昼食の用意をしなければと思うものの、この温もりがあまりに魅力的で、いつまでも触れ合っていたい。

 何とか起きはしたが、美羽の意思はあっさりと折れた。

 起きてすぐに大好きな人の顔を見る事が出来る。抱き合っていられる。

 これを幸福と言わずして何というのだろうか。

 ただ、いつも悠斗が優し過ぎて、くっついている時間が日増しに伸びているのだが。

 今日も今日とて怠惰なお願いをすれば、美羽の好きな顔が柔らかく笑む。


「好きなだけどうぞ」

「えへへー。ありがとー」


 美羽が離れられないのは、悠斗が甘やかしてくるせいなのだ。悠斗がこんなにも温かくいい匂いなのが悪いのだ。

 責任転嫁と分かっていつつも適当な理由をでっち上げ、悠斗の胸に身を寄せる。

 すりすりと頬を擦り付けると、頭上から呆れ交じりの溜息が聞こえた。


「最近は美羽の方が起きるのが遅いなぁ」

「……だめかな?」

「いや、別に。俺が寝ている間にあれこれ用意させてたのが申し訳なかったからな。むしろどんどんやってくれ」


 朝早く芦原家に来ていたのは昼食の準備だけではないのだが、悠斗が気付いていないのなら知らなくていい。

 この春休みの夜は悠斗の寝顔が見放題なのだから、早起きもなくなるというものだ。

 仁美が知れば顔を真っ赤にして怒りそうだなと思いつつも、止めるつもりはない。

 悠斗が許し、ここに他の人がいないのなら、美羽とて欲望に素直になる。


「流石悠くん。だいすきだよ」

「こんな事で喜んでもらえるのは複雑だけどな」

「私にとっては最高のご褒美なんだから、いいの。でも、心臓がどくどくしてるよ?」


 これまでの美羽からすればありえない生活だが、それが良い。

 胸元に顔を寄せているので悠斗の心臓の鼓動が早いのが分かり、くすりと笑みを零す。

 美羽をしっかりと抱き締め、髪に顔を埋めている彼氏の体が固まった。


「……当然だろ。彼女と一緒なんだから」

「それは嬉しいけど。ちゃんと起きてるとまだ緊張するんだね」


 眠気が来ている時は大丈夫のようだが、起きている時にここまでの密着をすると、悠斗は毎回心臓を激しく鼓動させる。

 未だに変わらない彼氏をからかえば、くしゃりと髪を乱暴に撫でられた。


「緊張するさ。多分、これはいつまで経っても変わらないだろうな」

「……ずるいなぁ」


 この先何年経っても今の気持ちを忘れないという決意に、美羽の胸が温かなもので満たされる。

 美羽とて悠斗と居ると落ち着くだけでなく、心臓の鼓動を乱される事もあるのだ。

 決してこの気持ちを忘れはしないと内心で誓いつつ、ぽつりと呟く。

 大きな愛情を向けてくれる彼氏へのお返しは、既に美羽の中で決まっていた。


「じゃあ今日は私が甘やかしてもっと慣れさせないとね」

「……しまった。そうなるのか」

「当然だよ。でも、今は甘やかしてもらおうかな」

「はいはい。仰せのままにってな」


 例え二人で居る事に慣れきっても、こうした触れ合いを続けているのが予想出来る。

 すりすりと頬を擦り付けつつ、頭を撫でてくれる悠斗の手つきを時間ギリギリまで堪能するのだった。





「今日はここで本を読んでいい?」


 悠斗の許可なくしっかりと筋肉のついた膝へと乗り、真上にある顔を見上げる。

 付き合う以前の美羽の特等席はベッドだけだったが、今ではここが第二の特等席だ。

 決して嫌がらないと確信しつつも尋ねれば、穏やかな顔に苦笑が浮かぶ。


「ゲームしてるから気を付けろよ?」

「はーい」


 悠斗がゲームをしていると手がよく動くので、読書をするには向かないのだろう。

 ただ、それでもくっついていたいのだ。

 何よりも、美羽を離すまいと腰に腕を回し、抱き枕のように包まれているのが堪らない。

 時折美羽の髪に鼻を当てて匂いを嗅がれるのは恥ずかしいが、これくらいの羞恥は耐えてみせる。


「……っ」


 もぞもぞと悠斗が体を動かし、僅かに腰を引く。

 その行為に気付き、僅かに頬が熱を持った。


(もう、するのかなぁ……)


 曲がりなりにも、学校では周囲に大勢の人が居るのだ。

 当然ながら知識を得たのは女性からだが、生々しい事も知っている。

 散々悠斗を美羽に慣れさせているとはいえ、女性と意識してもらえるのは嬉しい。

 しかし今からするとなると、美羽の心には嬉しさだけでなく、どうしても恐怖が沸き上がる。


(……それでも、悠くんなら大丈夫)


 きっと悠斗は優しくしてくれるだろう。ただ、気を遣わせ過ぎるのも問題だ。

 何にせよ求められたら断れないだろうと思いつつ、悠斗の動きを見て見ぬフリするのだった。





「よーしよし」


 夜も更け、悠斗を寝かしつける。

 普段は頼りになる彼氏だが、今だけは小さい子供のようだ。

 美羽の胸へ甘える姿に、頬がだらしなく緩む。


(可愛いなぁ。毎日寝かしつけたいなぁ。もっと甘えて欲しいなぁ……)


 最近は素直に甘えたり大胆な事をしてくれるようになったものの、悠斗が一番甘えてくれるのはこの時だ。

 悠斗に抱き締められるのも捨て難いが、毎日悠斗を抱いて寝たくもある。

 もっともっと悠斗を甘やかし、溺れさせたい。いっその事、美羽が居なければ何も出来ないくらいに。

 恋人になってから、そんな醜い独占欲が沸き上がってきている。


「おやすみ。悠くん」


 リズム良く背中を叩いていると、悠斗の呼吸がゆっくりになった。

 念の為に暫く待ち、完全に寝たのを確認してからが美羽の最高の一時だ。

 胸元から悠斗の頭を離し、暗闇に慣れた目で見つめる。


「ふふ。ずっと見てられるなぁ」


 このせいで最近の美羽は夜更かしなのだが、一向に構わない。

 悠斗の寝顔が見放題など、むしろお釣りがくる。

 安心しきった寝顔を美羽がもたらしたと思うだけで、興奮に心臓が跳ねた。


「ねー、悠くん。待ってるからね」


 いつになるかは分からないが、いつかその時は来る。

 しかし、焦る必要はない。今までと同じように、ゆっくり進めばいい。

 取り敢えずはこの愛しい寝顔を堪能しようと、今日も今日とて飽きもせず寝顔を眺め続けるのだった。

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