第二幕
01
真白い和装を返り血に染めて、静かになった崖の上、エミルは空を見上げた。ゆっくりと、目を閉じる。
――『…………エミル……』
信じたくない。そんな言葉が聞き取れそうな桂十郎の表情が、脳裏に焼き付いている。もしかしたら本当に、気付いていなかったのかも知れない。
そういえば初めて悠仁に正体がばれた時も、同じような表情をされたなぁ。なんて思い返しながら、その時より酷く胸が痛んでいることに気付いていた。何故だか分からない。ただどうしてか、桂十郎が怖かった。
泣かない。目を閉じたまま、涙が零れ落ちないようにぎゅっと唇を噛み締める。髪を揺らす風が、やけに冷たく感じられた。
忘れないでと、心の中で繰り返す。
自分は『氷の刃』。冷酷無慈悲、残虐非道の殺し屋。依頼があれば、報酬さえ充分なら、誰だって迷わず殺す。
そう、例え、桂十郎でも。
――『殺したくない』
口にはしないながらも、ずっと願い続けている言葉がまた脳裏を過ぎる。でも、もう遅い。自分の手はとうに酷く汚れてしまっている。だから。
人と同じ幸せなんて、望んではいけない。
「もう……全て、手遅れなの」
誰が聞いているわけでもないのを分かっていて、アイスはそう、独りごちた。
崖の端に鉤爪を引っ掛け、結んでいたロープを伝って崖下に降りる。降り切ったところで勢いをつけてロープを引き、鉤爪を崖から引き離しては袖の中にしまい込んだ。
振り返るとそこには、先と変わらず桂十郎が居る。
「あら、まだ居たの」
冷酷な殺し屋を演じることには、とうに慣れた。自我を失いかけたこともある。それでも『自分』のままで居られたのは、いつだってすぐ近くに聖が居たからだ。
どこに居ても何をしても、例え暗闇の中でも手を引いてくれていた聖の姿が、今はどうしても見えない。物理的にではなく、聖の支えが感じられない。こんな時彼は何と言うだろうか。それが分からない。
「……これに懲りたら、もう無闇にあたしに関わらないでちょうだいね」
「エミル、」
「あたしはね、存在するだけで罪なの」
皇に来てからは耳にすることのなかった言葉が、今更に蘇る。
産まれてきてはいけなかった。存在が罪だ。
思うに、聖はずっと、敢えてそういった言葉を避けていたような気がする。まだ海斗が子供だった頃、彼がエミルを否定するようなことを言った時にも大袈裟な程怒っていた。
普段怒らない人だけに、それはそれは怖かったのだろう。以後、海斗は否定の言葉を無闇に口にすることは無くなった。
だけど言葉の呪縛は、十年経ってもエミルを解放してはくれなかった。
「あたしの身代わりにならなければ、あの子が死ぬことはなかった」
温もりを失った『エミル』の小さな身体を、その感触を、今も覚えてる。
「あたしが殺さなければ、守れていれば、聖は恋人を亡くさなかった」
目の前に飛び出してきた彼女を、迷わず斬り裂いた。本当は刃を止めることも出来たのに、出来なかったと言い訳をして止めなかった。
「分かるでしょう? あたしに関わり続けると、アナタも不幸になるわよ」
ふふ、と小さく零した笑みから、その笑いが大きくなる。
何もかも、棄ててしまいたかった。自分の人生の全てを。ただ生きることが苦痛で。忘れかけていた自分の「業」を思い出したことでそれが増したような気さえした。
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