13
カフェスペースに戻ったエミルは少しの間菖蒲と桂十郎と談笑して、用事があるからと先にその場を離れた。
二人になったその場所で、穏やかな様子で菖蒲は紅茶を飲む。そんな菖蒲を見て、桂十郎は椅子の背もたれから身体を起こした。
「ちょっと聞きたいんだけどさ」
「はい?」
「君たちにとって『エミル』って、どんな存在なのかな?」
何となく、エミルは去る者を追わないような気がしていた。例えば、進学して学校が離れると、例えば、就職でもすると、そのまま疎遠になってしまうのではと。
だったら、進学で別れたらしい菖蒲がまたエミルに会うのは、彼女にとってどうなのか。本人がそうなのだとすれば、周りから見た彼女はどう見えているのか。そう感じるのは桂十郎だけなのか。
ふ、と息をついた菖蒲の口元が、僅かに緩んだ。
「じゃあ、少し昔話をしましょうか。わたしは、中一の時にエミルちゃんの居る学校に転校したんです。中途半端な時期だったし、前の学校で色々あって……ちょっと人間不信になってた頃だったな。朝の集会で同級生に紹介される予定だったけど、目立つの嫌いだからそれが嫌で。先生に無理矢理引っ張られて行くと、ちょうど講堂の入り口の辺りで、遅刻してきたエミルちゃんと鉢合わせしたんです」
* * *
『センセ? どうしたんですかー? その子誰?』
甲高い声はよく目立ち、ステージに向いていた生徒達の視線が一気にエミルと菖蒲、そして菖蒲を連れてきた男性教師に注がれる。何と無く場の空気でそれを感じ取った菖蒲は、顔を耳まで真っ赤にした。目立つのは嫌いなのに。
『っ……放して! わたし、帰る!』
しっかりと腕を掴んだ教師の手を振り払おうと抵抗しながら、いやいやと叫ぶ。だが大人の男性の力は強く、簡単には振り払えなかった。
何を思ってか、エミルが歩み寄って菖蒲に視線を合わせるように軽く膝を折った。
『……ガッコ、嫌い?』
『嫌い!』
『何で?』
問いかけに、叫ぶように返す。本当はこんな問答だってしたくない。
口を挟もうとした教師を睨みつけ、エミルが黙らせたことに、菖蒲だけは気付かなかった。見えていないから。
『きっと誰も、わたしとなんて関わりたくないもん! わたしだって嫌! 世界が見えて幸せな人たちに、わたしの世界なんて分かるはずない! 見えないわたしの気持ちなんて、分かる筈なんかないんだもん!!』
先と変わらず叫ぶようにそう言いながら教師の腕から逃れようと激しく動いたせいで、かけていた大きなサングラスがカシャンと音を立てて落ちた。
それを静かに拾い上げたエミルは、サングラスを持っていない方の人差し指を菖蒲の額に添える。力を入れられているようには感じないのに、菖蒲の顔はまっすぐエミルに向いて動かなくなった。同時に、ずっと暴れていた体の動きも止まる。
両目の義眼がエミルを見つめていた。
『くだらない』
先の少女と同じ人物から発せられたとは思えない低い声で、エミルはそう言い放つ。
一瞬、何を言われたのか分からなかった。混乱する菖蒲の様子にはお構いなしに、エミルは淡々と続ける。
『目が見えるから「幸せ」なの? 見えないから「不幸」なの? 何その馬鹿げた理屈、初めて聞いた。アナタ自分が「一番不幸」だなんて思ってない? そんな個人のモノサシ一つで変わるものに振り回されてるんじゃないの? いい? 一番なんて居ないの。誰もがその人の世界の中では一番であって、大きな世界の中では小さなものなの』
『っ、でも! 目が見えてれば不自由しないじゃない!』
『だったら教えてあげる。あたしは、四つの時に家族を殺されて聖に保護してもらった。咄嗟に母が物陰に隠してくれなかったら、あたしもその時に死んでたでしょうね。姉の友人は両親から虐待されてて、しょっちゅうあたしのうちに逃げてきてた。見る度に新しい痣や傷があって、痛々しかった。その上たまたま「その日」にうちに居たものだから、あたしの身代わりになって死んじゃったの。今一緒に住んでる空目はずうっとネグレクトにあってて、揚句の果てにはお金に困った親に風俗に売り飛ばされそうになったところを聖に保護されたの。その聖だって、仲良しだったお兄さんと喧嘩別れした矢先に事故で先立たれて、ほんの数年前には恋人まで目の前で殺された』
淡々としたエミルの言葉を理解するのに、菖蒲は時間がかかった。まるで物語の中の話みたいに、現実味が無くて。
『あたし達は「不運」だった。でも「不幸」だなんて思ったことは無いよ。だってあたしは、聖に逢えて良かった。空目に逢えて良かった。皇に来られて、良かったって思うもの。……ねぇ、アナタの目が見えないのも、「不運」なだけなんじゃないの? 今まで理解してくれる人にたまたま出会えなかったのも、「不運」だったんじゃないの? 「不運」は全て「不幸」に繋がるの?』
彼女は今まで、どんな思いで生きて来たんだろう。無意識に、義眼の奥からはボロボロと涙が溢れ出てくる。ふるふると首を振って、ごめんなさいと呟いた。
前の学校では目が見えないからと、面倒くさがられていた。教師は仕方なく菖蒲をフォローし、生徒なんて、彼女とは関わろうとしなかった。だけど家はそれなりに裕福で、家族はとても優しかった。嫌なことばかりに気を取られて、自分がこんなにも幸せだったことに気付けなかった。
泣きじゃくる菖蒲を宥めるように、エミルは今度は優しく彼女を抱き締める。強引な教師の腕から軽い動作一つで引き離して、彼女を守るように。その腕の優しさに今まで抱えてきたものが溶かされていくようで、余計に涙が止まらなくなった。
『見えないのなら、見えるあたし達が助けてあげれば良い。それは当たり前のことで、面倒くさいなんて思う奴が馬鹿なんだって思えば良いの。これからは、あたしが守ってあげる』
『うん……うん……っ!』
冗談めかして笑うエミルの声も、ひどく優しい。彼女は絶対に自分の味方になってくれるんだと、菖蒲は心からそう思った。
* * *
「これは後から聞いたんですけどね、それまでのエミルちゃんって、ほとんどの生徒にあんまり好かれてなかったんですって。滅多に学校に来ないし、秘密主義みたいな感じだし、外人で目立つしって。それに、どんなに無視されてても明るく笑ってたりするから、悩みなんて無いように見えてたみたい」
懐かしむように顔を上に向けて、菖蒲はそう言った。
「だからやっぱり、わたしのあの馬鹿な言動がきっかけだったのよね。みんながエミルちゃんを慕うようになって、彼女の周りにはいつだって笑顔が溢れるようになったんです。みんな、エミルちゃんが大好きなの」
サングラスに隠れて、目元は見えない。だが彼女が満面に笑みを浮かべていることは、見えずとも分かることだった。
それから後も、別の生徒と言い合いや問題があったらしい。だが全てにおいて、エミルは自身で解決した。
自分のことには無頓着なくせして、人のことになると途端に熱くなる。目の前で起こっていることなら、誰であろうと助けに入る。
彼女を知る誰もが、エミルを好きになった。少なくとも菖蒲には、そう映った。
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