野球部でいじめられ、彼女に振られと散々な僕が転校したら〜転校先の隣の席の美少女はなぜか僕のファンでした〜

佐藤湊

第1章

第1話 去る者あれば追う者あり

 春休みに入りたての頃。

 夕陽に紅く染められた野球部グラウンドの、バックネット裏にある監督室で、村雨むらさめ慎吾はある封筒を監督の八木に差し出していた。

 まるで卒業証書でも渡すかのように、頭を下げて両手で。


「辞めたら学校に居られなくなるぞ」


 封筒に書かれた「退部届」の文字をちらと見やってから、八木は言った。

 その言葉は慎吾への脅しでもなんでもなく、単なる事実だった。

 彼にとって野球部という肩書きは、この学校での身分証明書に等しかったから。


 部活動の軟式野球より、レベルが高いと言われる硬式野球のシニアリーグ。

 その中でも神奈川県内では強豪と名高いシニアチームでエースを張っていた慎吾は、当然の如く引く手数多。


 2強として神奈川を引っ張る海王大付属高校と山吹実業高校、そのどちらからも誘いはあったが、慎吾は山吹実業を選んだ。

 近年の戦績こそ海王大付属が上回っているものの、かつて甲子園で躍動した山吹実業のグレーのユニフォームが、幼心に焼きついていたためだ。


 しかし、慎吾の山吹実業での生活は挫折に塗れた。

 きっかけは、中学時代に完治しなかった右肘の怪我。


「なんで試合でまともに投げられないやつが、推薦枠を使ってんだ」


 そんな風に、一部の部員から白い目で見られるのは避けられなかった。

 そして、そうした周囲の視線が、慎吾をより焦らせることになった。


 慎吾は痛みを隠しつつ、無理してマウンドに上がった。

 おかげで、余計に怪我を悪化させた。

 そこからはもう、とんとん拍子に悪循環が進んでいった。


 治らない怪我に、部内での立場の悪化。

 気の弱い慎吾は、寮の同部屋の1年生・中谷と、その子分格の大田・小谷野という3人の部員から、次第に陰で虐められるようになった。


「村雨ェ、洗濯物頼むなあ」

「そんな! 僕一人でこの量は——」

「うるせえ! どうせお前は野球じゃ役立たずなんだから、寮生活くらい役に立てよ。それがチームワークってもんだろ?」

「野球で役に立ってないのは、その通りだけど……」

「へえ、分かってんじゃん。なら、やってくれるよな? 俺らの分も」

「……」


「おい、やめろ。自分の分の洗濯物くらい、自分でやれよ」

「……チッ、晴山かよ。しゃあねえ、みんなずらかるぞ」


 中学時代のチームメイトだった晴山洋平が、たまたま通りかかって味方してくれることもあった。


「ありがとう、洋平」

「いいんだよ、このくらい。それより、慎吾もあいつらに言い返せよな。ここじゃ実力が全てなんだ。言い返さねえと、いくら俺が庇ったところで意味ないぞ」

「ごめん……」


 しかし、その洋平も万能ではない。


「……へへっ、ここなら誰にも見つからねぇな。よし、バレねぇように、服の中をやれよ」

「はは、そうだな……あらよっと!」

「ぐっ!」


 虐める側の方でも他の部員に見つかるリスクを考え、人に見えないところで虐めるようになった。

 時には暴力紛いの行為もあり、慎吾の精神はますます追い詰められていった。


 とどめとなったのは、教室で起きたとある事件。


「えー! 南雲って村雨と付き合ってんの!?」

「ち、ちがっ! 私、こんな人と付き合ってなんかないから!」


 同じクラスだった中谷の、揶揄うようにして投げかけられた言葉。

 それを中学時代以来の恋人だった南雲朱莉が、あろうことか真っ向から否定したのだ。


 彼女が何を思っていたのかは分からない。

 もしかしたら、その時だけ強がってしまったのかもしれない。


 ただ、仮にそうだとしても。

 当時どん底にいた慎吾にとって、朱莉の言葉がナイフのように胸に突き刺さったのには変わりなかった。


(……辞めよう。誰にも必要とされてない僕が、ここにいる意味はない)


 慎吾は、そう決意した。そして、今に至る。


「……もう、なんでもいいんです。とにかく、これ以上ここにはいたくない」


 梃子でも動かないぞという慎吾の宣言に、八木は「ふうむ」と腕を組んだ。

 どう言えば彼を上手く丸め込み、野球を続けさせられるかと考えているのだろう。


 しかし、慎吾にとってみれば、この八木こそ信用ならなかった。

 なぜなら八木は、彼がいじめられている現場を一度目撃していたから。


「おう、お前ら。じゃれ合いもほどほどにしろよ」


 明らかにじゃれ合いには見えない一方的な光景を前に、八木はそう口にした。


 見てみぬふりをしたのだ。

 いじめの主犯格・中谷の父が野球部OB会の会長で、多大な寄付金をくれるから。

 もちろん、部の不祥事として大事になるのを避けるという理由もあったが。


 だから、慎吾の気持ちは、今更八木になんと言われたところで変わらない。

 変わらないが、もし八木が慎吾のいじめがあったことについて認め、謝ってくれたのなら……。


「何か、ここに居たくなくなることでもあったのか? 今からでもよければ、俺が話を聞くが」


 八木のその猫撫で声を耳にした瞬間。


(ああ、やっぱりこの人は……)


 慎吾は完全に、心を閉ざした。


* * *


 寮の荷物をまとめた慎吾は、足早に校舎を出た。

 こんなみっともないところを、誰にも見られたくなかった。


 既に親には連絡した。

 電話口に出た父には何も言わず、一言「やめる」とだけ伝えた。

 言えなかった。言えるわけがなかった。いじめを受けていたなんて。


 父は慎吾に、ただ一つの質問を除いて何も聞かなかった。その質問というのも、


「お前はお前なりに、筋を通したんだな?」


 というシンプルなものだった。電話越しに、慎吾は首を縦に振った。


「なら良い。後は勝手にしろ」


 父との会話はそれで終わった。

 慎吾の父は普段から無口だったが、それは息子が学校をやめるという状況でも全く変わらなかった。


 今、慎吾は誰にも見つからずに校門を出ようとしているところだ。

 振り返って、ちょうど1年ほど通っていた校舎を振り返る。

 一時は輝いて見えたコンクリート建ての真新しいその校舎は、今の慎吾の目には、冷たく無機質なもののようにしか見えなかった。


 校舎に背を向け、彼がその場を去ろうとしたその時——。


「おーい、慎吾ぉ」


 寮の方から人影が一つ、慎吾に迫ってきた。

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