死者との密約

本庄 照

彼への復讐

 スマートフォンが震えた瞬間は、まさか自分の方が震えることになるとは思ってもいなかった。彼氏が送ってきた、今から家に帰るというLINEの通知だった。真面目でマメな性格の彼は、同棲しているマンションに帰宅する前に必ずLINEをくれる。


美玲みれいへ。ちょっと忘れ物したから家に帰るね。十分くらいで着くと思う」


 柊介しゅうすけが今帰ってくるだなんて、完全に想定外だった。だって彼は今出張中なのだから。私はちょうど昼食を食べに出ていて、部屋の中はとっ散らかっている。その中に、彼に決して見られてはいけないものが紛れ込んでいた。


 それは三カ月に一度、隣の市の病院でもらう、処方薬の袋だった。普段なら自室の鍵付きの床下収納に必ず隠しておくものだ。完全に油断していた。


 なぜならその袋には「尾崎おざき香澄かすみ様」と書かれているからである。しかし柊介は私のことを尾崎とも香澄とも思っておらず、小田美玲だと思っている。そりゃそうだ。私は彼に偽名を名乗って近づいたのだから。


 まずい。彼が言うにはあと十分で家に帰る、と。柊介のことだから、時間には正確だろう。しかし私が今いるこの店から、かなり急いでも十五分はかかる。もし彼が先に帰ってきたら、袋の名前を見られてしまう。そして確実に本名を知られてしまう。


 いずれ全てを明かすつもりだったが、まだ知られるわけにはいかない。私は入ったばかりの飲食店の席から立ち上がり、店員に謝って店を出た。駐車場で車のエンジンをかけたとき、ハンドルを握る手が震えていることに気が付いた。


 このまま別れ話になるのだろうと考えると、家までの距離が短くなるにつれて気が重くなる。油断を後悔してももう遅い。彼が戻ってくる前に、あの袋は消しておくべきだったのだ。たった紙一枚、それを軽んじたがために今私は窮地に陥っている。


 車で交通違反なんて初めてやった。心臓が異様にバクバク音を立てる。私の心の中で何かが沸き上がるのを必死で抑え、ハンドルを握った。

 制限速度を無視して、赤信号をぶっちぎって、車をそこらへんに停めて、オートロックを破壊する勢いで開けて、部屋の鍵を開けたら誰もいなかった。安堵のため息を一つついて、慌てて薬の袋を細かく破いて捨てた。間に合った、と床に崩れ落ちた時、ドアが開く音がする。

 振り返ると、スーツを着て銀縁の眼鏡をかけた男が立っていた。柊介だった。


「お帰り」

 急にバクバク高鳴り始めた心音を耳の後ろに聞きながら、私は笑顔を作る。

「ただいま。……美玲、仕事は?」

 しまった、今日は平日だった。私はぎこちない笑顔を作る。

「こないだの休日出勤の代休なの」


 嘘だ。柊介と顔を合わせないようにわざと出張中に取った有給だ。昨日の夕方彼を送り出してから、私は既に休みだったのである。

「ふうん」

 柊介はそれで納得したらしく素直に頷いた。正直、ほっとした。


「そうだ美玲、なんか違う人の手紙が届いてたけど、心当たりはある?」

 彼は仕事用の鞄から一封の封筒を取り出す。宛名は柊介の名前だった。

 ……しまった。私宛の手紙は届かないようにしていたのもあって、ポストの方はノーマークだった。スーツを脱いでハンガーにかけ、ラックに掛ける柊介の背中を見ながら、私はあくまでしらを切りとおす。


「さあ、知らない。間違って入ってたんじゃない?」

 それでもどこか後ろめたくて、私は柊介に背を向ける。そのまま部屋を出ようとして、私はドアノブに手をかけたがふとその手が止まった。


 ……何かおかしい。忘れ物を取りに帰ってきただけなのなら、スーツを脱いでハンガーに掛けるわけがない。それに気付いた時には私は柊介に右手を取られていて、あっという間に左手も取られて、両手を掴んだ柊介は後ろから私の肩に顎を乗せた。柊介はスーツを脱いでいるのだから下着にワイシャツ一枚という滑稽な恰好に違いないが、普段こんなことをしない彼の異変に私は笑ってなどいられない。


「君は美玲じゃないんだな」

 一瞬でも、流してくれるかと思って期待した私が馬鹿だった。

「これ、一昨日ポストに入ってたんだ。宛名が俺だったし、何気なく開けた。そしたらこれが入っていたんだ」

 私の両手首を右手で掴んだまま、柊介は左手で中の半ペラを見せる。


 尾崎香澄様。

 事故の償いが終わる時期が近づいていますね。

 彼氏さんと仲良くお過ごしください。


 活字でたったそれだけ書かれた怪文書だった。なるほど、私の正体がわかるわけだ。誰が送ってきたのか知らないが、悪意にせよ善意にせよ迷惑すぎる。


「美玲、いや尾崎香澄。君は尾崎晴哉はるやの妹だな」

 ……私がさっき道路交通法に違反しまくったのは全部無意味だったのか。最初から詰んでいた。もっと前に消しておくべきものを消し忘れたせいで。


「俺を殺しにでも来たのか」

 柊介は冷静に尋ねた。

「……場合によっては」

 どうして柊介は今私の手首を押さえているのだろう。殺されるのが怖いのだろうか。そんなのずるい。恨まれていたら、殺されたって仕方ないのに。


「俺を殺したいのなら好きにしていい。でも、美玲に殺される前に聞きたいことがあるから、それだけ聞かせてからにしてくれないか」

「今すぐ殺すわけじゃないから離して」

 柊介の手が緩んだので私は振り返る。ワイシャツの下から見えるボクサーパンツにため息をついて、私は柊介の手を振り払って、部屋の隅の洗濯物の山の中から部屋着を引っ張り出して投げてよこした。


「……柊介も有給取ってたんだね」

 出張なんて嘘だったのだ。私はまんまと騙されていた。

「こんなの見せられて、暢気に会社になんて行けないよ」

 柊介は部屋着を履こうと机に怪文書を置いた。私はそれを取って怒りに任せてぐしゃぐしゃに丸めて投げる。怪文書の主の強い悪意なんてどうでもよかった。私の計画が崩れたことに比べれば。


「……柊介の彼女になって、こっそり晴哉お兄ちゃんの事を調べようと思ってた。この変な紙のせいで、計画がめちゃくちゃになっちゃった。でも手間が省けた。今、直接聞くわ」


 上半身もダサい部屋着に着替えた柊介の腕には、生々しい傷跡がある。三年前の事故のものだ。尾崎晴也と森川柊介は、三年前に群馬の山奥でバイクと車の事故を起こし、兄は死んで柊介は生き残った。


「柊介、お兄ちゃんが死んだのをいいことに、警察に嘘ついたでしょ? 自分の過失が低くなるように」

 柊介はそれを聞いて大きく長く息をつき、そして頷いた。

「うん」


 銀縁の眼鏡が逆光に光る。元々薄い表情が更に薄くなったような気がした。それがずいぶん不敵に見えて、私はぐっと唇を噛む。

「柊介も知ってのとおり、私もお兄ちゃんと一緒に事故に遭った。お兄ちゃんは死んで、私は生き残った。全員意識不明だったけど、一番最初に目を覚ましたのはあんただった。そして、あんたはお兄ちゃんが死んで私が昏睡なのをいいことに、自分に有利なように過失割合を決めた」


 私は事故の衝撃で全身を打って意識を失っていたから、事故の記憶は正直ほとんどない。ドライブレコーダーも壊れていて、証拠なんて現場のブレーキ痕くらいしかなかった。でも覚えている。法令違反をしていたのはお兄ちゃんではなく柊介の方。だからどう考えても私たちが悪いことになるはずはなかった。


 しかし目が覚めた時にはすべての決着がついていた。柊介は弁護士をつけて、保険会社も味方につけて、あり得ない比率の過失割合で、何もできない私たちを殴った。私たちは損害賠償を支払う側になり、柊介は不起訴になって、私たちの元にはお兄ちゃんの骨以外何も残らなかった。


 私は森川柊介という名前を絶対に許さなかった。社会復帰できたのは、皮肉にも柊介のおかげだった。

 ありがとう。恨みでリハビリが進んだよ。

 

 私は柊介の手を取った。

「お兄ちゃんを返して」

 柊介の顔が凍り付いた。ああ、その顔が見たかった。

 だから私は柊介の彼氏になったのだ。柊介に近づいて、復讐するために。


 あの事故から三年、ついにその顔を見ることができた。尋常じゃない苦労だった。リハビリは辛かった。でも常人に溶け込まないと柊介に疑われるかもしれないから私はやってのけた。交通事故に遭ったことを柊介に隠すため、車を必死で練習して無理やり事故のトラウマを克服した。


 やっとその顔を見られた。思わず笑いがこみ上げる。柊介に近づいた甲斐があった。

「……申し訳ありませんでした」

 柊介はあっさり土下座してフローリングに頭をこすりつけた。


「もっと見せてよ、その顔」

 私は土下座する柊介の髪を掴んで無理やり持ち上げた。背の高い柊介の顔を見下ろすのは、もしかすると初めてだったかもしれない。


「……いいよ。殴ってくれても、殺してくれても。でも美玲が殺人犯になるのは嫌だから、殺した後はちゃんと隠してくれ――」

 不愉快なことを言うから殴った。鈍い音がした。きっと腫れるだろう。でも痛くないだろう、あの事故の怪我よりは。


「真面目なふりしないでよ。今更、いい人ぶらないでよ。真面目でいい人はね、過失割合を都合よく捻じ曲げないし、損害賠償をふんだくったりしないのよッ!」

 同じところをもう一度殴った。柊介はされるがままだった。


 柊介は彼氏としては完璧だった。真面目でいい人でマメで几帳面で優しくて、いいところを挙げたらきりがない。それがかえって許せなかった。柊介は完璧な彼氏になれるほど元気になった。お兄ちゃんは完璧な彼氏を演じることも、心を入れ替えることも出来ないのに。


「教えてよ」

 柊介の髪を掴む私の手が緩む。柊介の頭がそのまま地面に落ちる。それと同時に、私の体も地面に崩れ落ちた。涙がぽろぽろ出てきた。いつもならすぐに涙を拭いてくれる柊介は、私の顔を黙って眺めていた。

「柊介、なんであんたは過失割合にあんなにこだわったの? お兄ちゃんに事故の責任を押し付けたの?」


 付き合い始めたのは今から一年ほど前だった。付き合えば付き合うほど分からなくなった。復讐のために近づいたが、柊介のあまりの人間性の良さに混乱ばかりが進んだ。完璧な彼氏に、私の心の一部は既にほだされている。悔しさと同時に疑問が浮かんだ。そんな人間性に優れた男が、なぜ兄に事故の責任を押し付けたのか。


 一方の口が塞がれた事故では、過失割合が口の開く方に有利に設定されるのなんてよくある。それは知っている。でもなぜ、よりによって柊介がそんなことをするのか。自分の罪に向き合ってくれないのか。私には分からなかった。


「……晴哉さんに言われたんだ」

 柊介はゆっくりと口を開き、兄の名前を出した。柊介の目からぼろぼろと涙が零れ落ちていた。

「……は?」

 突然、兄の名前が出てくるとは思わず、私は思わず大きな声を出した。


「譲ってくれたんだ――」

 柊介が意味が分からないことを言い出した。彼に近づく前の私なら言い訳だと一蹴していただろうが、今の柊介を知る私は逡巡する。

 柊介の部屋が急に静かになった。外の方から音がしていることに今更気が付いた。雨だった。小綺麗な柊介のマンションにこんなに雨音が響くのだから、きっと外は大雨になっているに違いなかった。


 思い出した。そうだ、三年前のあの日も大雨だった。


「俺に、過失割合を」

 柊介がぽつりぽつりと語り始めるのを私は呆然と聞いていた。

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