35

 「そうか」と天使が言った。「なら明日病院に行け」


 気がつくと、彼は姿を消していた。

 ぼくは呼吸が落ち着くのを待ちながら、あぐらをかいて屋上からどこでもない街の彼方を眺めていた。

 何だったんだあれは……。

 剝き出しの昇降機を降りながら、ぼくは出来事の意味を考えていた。

 どうしてこんな目に遭うんだ……。

 夜の住宅街の家々の間を抜けて、歩いて家へ帰った。

 そして朝になると、肝心なことをすべて忘れているのだった。


 そうして今、ぼくは真夜中のコーヒーショップに来ていた。


 ここへ来る途中にあの夜と同じ道を通り、あの夜見かけた三階建ての戸建ての上半分に、今は乗用車がユニバーサル・スタジオ・ジャパンのように突き刺さっていて、いよいよぼくのズレた感性もある意味ノーマルで正常なものに思えてくる。

 店内にはダルなBGMがかかっていた。ぼくは前にだれかとここに来たことがある。

 深夜シフトは人型アンドロイドで、心の通じない会話が響く。

 「ご注文は?」


 こうしてぼくは小説が書けないでいる。

 「どうもこんにちは、ズドン。銃声が鳴り響きます。ご、ご、ご注文は?」

また目の前をいつもの少女が駆け回っては、ぼくにがらくたを渡してくる。だが今ぼくはそれどころではない。

 「夢も見れない夜でしょう。アンドロイドが催促します。ご注文はいかが、ご、ご、ご注文はいかがでで、ご、ご、ご注文は、ご注文は」

 タバコの煙がくゆる。いつから全席喫煙になったのか?店内を黒猫がうろついている。ぼくのことが見えているか?

 「人々が逃げまどいます。ミサイルが降り注ぎます。ご注文はうさぎですか?町が吹き飛びます。鳥の群れが襲います。ゴ注文ハ?」

 この瞬間にも、ぼくの身体を素粒子が貫通していく。

 「あなたはスターバックスに来ています。あなたの隣にだれかいます。人々は指をさしてきます。あ、あなたはテレビに出ていましたね。今や世界の恥さらしです」

 そこへアンドロイドが聞きに来る。「ご注文は?」

 「あなたは中華街に来ています。雑踏で子供が生まれます。ついでにセットのダークコーヒーもいかがで。そして顔にパイをぶつけられます。ご注文は?」

 店内のメニューはハイパーインフレーションを起こし、ぼくのお札は紙くずになりつつある。

 「空からレーザービームが降って湧きます。あなたの身体は一瞬で消されます。事故を装って。理想郷へあなたをゴ注文ハ?」

 ぼくは小説が書けないでいる。

 「繰り返します。電気信号が。破滅。そしてそして。どうして?」

 ぼくはこれまでのことを考えている。

 「あ、またそうやって人の前からいなくなるんですね。期待外れ。オイ、ご注文してみ?」

 ぼくの旅も終わろうとしているのか、とぼくは考えている。

 「トランス状態の涙が蒸発します。星が降るでしょう。地上に。世界は燃えています」

 また明日もこうしてやってくるのだろうか。こうして何も手に着かないまま。

 「あなたは東京都府中市に来ています。太古の神社の封印が解かれます。麒麟が雷を呼び、狛犬が阿吽の呼吸で踊り、龍がわなないて飛び立ちます」

 ぼくはパソコンをへし折りそうになる。

 「おい、ご注文は?掣肘(せいちゅう)はあなたの喉を貫通します。苦しさにまぎれます。ここはどこ?真夜中のコーヒーショップに来ています」

 今年もこうして暮れていくのか。だれかと並ぶ初詣もわるくなかったな。

 「鯰(なまず)が地球を揺らします。獏(ばく)があなたの脳を嚙み潰します。鵺(ぬえ)が襲います。八咫(やた)烏(がらす)が舞い降ります。金鵄(きんし)が揃います。知りすぎて命を狙われます」

 世界の崩壊が進む。

 「バット・ハードディスク・トランスコンチネーターが回ります。どうも波浪。土砂降りの雨です。押し流されて。ご注文は?」

 ぼくは頭が割れそうだ。

 「ご注文は?エーテルが口と鼻に押さえつけられます。強く。あなたは気を失います。オイ、ゴ注文ハッツッテンダロ」

 だれかの嫌いがぼくの好きなものを打ち消そうとしている。

 「あなたはクトゥルフの宮殿に来ています。古墳から砂の巨人が出現します。触手で絡めとられます。キリエロイドがあなたのお部屋の暗がりにいます」

 ぐるぐるぐるぐる。めらめらめらめらめら。

 「出直して来てはいかが?ひどい顔ですよ。どの面下げてるんですか?大地が割れます。丘が吹き飛びます。早クゴ注文シロヨ帰れねえだろ」

 ぼくはパソコンを閉じた。


 そのとき頭と胸がズキン!と疼いた。まさか……!?


 店を出て、暴動が起きて車が燃やされている道を、人を押し分けながら歩いて家に帰ると、天使が窓から空を見上げていて、「明日だ」と言った。

「明日終わりが来る」

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