3 乳房
俺はただ一人、冬山を登り続けていた。
今日は結婚式だった。
俺の双子の弟健志と幼なじみのまりなの。
隣の家に住んでいて、いつも3人で仲良く遊んでいた。
気がつけば俺がまりなのことを好きになっていたように、健志もまりなのことを好きになっていたようだ。
一卵性双生児の俺と健志。
何もかも一緒だった。
ずっと同じ学校で、会社も同じ系統の同じぐらいの規模の会社に就職した。
何もかも同じ双子の兄弟の二人、だが一つだけ違うことができてしまった。
「兄貴、俺、まりなと結婚することになった」
どん底に突き落とされた。
俺だってまりなを愛している。
一体俺と健志、何がどう違うって言うんだ、俺でもよかったはずだ。
どこで違いが起きてしまったか。
それは大学のある時、たまたま健志が家にいた時にまりながおすそ分けを持って尋ねてきて、大学に入ってから距離があった二人の距離が縮まった、そういうことだった。
その日、家にいたのが俺だったら。
だが事実はそうではなかった。
二人の結婚式を見届けて、
「休暇取ったついでに山行ってくる」
そう行ってここへ来た。
このままこの山から落ちて死んでやろう、そう思って。
そうして気がつけば、なぜかゆるい温かな川をゆっくりと下り続けていた。
(どこなんだここは)
頭の方からゆっくりゆっくりと下り続け、ある場所に来た時、俺の頭は分岐点に当たり、そのまま右の支流にも左の支流にも行けずにその場でゆらりゆらり、ゆられ続けることとなった。
――ごくたまにこんなことがある――
そんな声が頭の中に流れてきた。
――おまえはどちらに行きたかったのだ――
どちらってなんだ?
――自ら死を選んだのか、それとも事故か――
声に言われて思い出した。
まりなを失った俺は、死ぬつもりで山に登り、最後の崖からぶら下がって、そこから手を放した、つもりだったようだ。
――同時だったのだ――
――手を放したのと崖が崩れたのが――
――自ら死を選んだものはこの先の崖から落ち、永遠の闇に飲み込まれる――
――望むことなく命を落としたものは再生の輪に戻される――
――どちらなのだ――
そう言われても俺にも分からない。
自分では手を放したつもりだったが、放していなくても俺はあそこから落ちて死んでいたのだそうだ。
(分からない)
――困ったことだ――
――かといって永遠にそこに留めておくわけにはいかぬ――
俺の左右には次々に人らしきものが流れていく。
同じように頭から流れていき、俺の体を避けるようにある者は右へ、ある者は左へと。
どちらが闇への滝へつながっているのは分からないが、ここで振り分けられずに止まったままなのは俺だけのようだ。
――困るのだ――
俺だって困る。
――どちらに行きたい――
俺は死ぬつもりだったんだ。
――どちらに行きたいのだ――
死ぬつもりだった。
だがそうはならなかった、俺の意思は死にすら裏切られたのだ。
――この場合はやり直すしかなさそうです――
――どうしても選べぬ場合はやり直してその先でもう一度流れを選ばせるしかない――
――おまえはおまえの行きたい場所からやり直すしかない――
俺が行きたい場所。
まりなだ、まりなのところだ。
そう考えた途端、俺の意識は白いモヤに飲み込まれていった。
温かい。
心地よい温かさの中、俺はゆっくりと目を開けた。
「目が覚めた?」
そう言って覗き込む顔を見て驚いた。
俺が誰よりも会いたいと思った人、行きたいと思った場所、まりなのところへ来ている。
うれしさのあまり涙がにじむ。
顔は喜びの表情を浮かべながら。
まりなは聖母のような、菩薩のような笑顔で俺の顔をじっと見つめている。
ああ、俺は俺の望む場所へ来たのだ。
そしてこれからやり直すのだ。
落ち着いて周囲を覗うと、どうやらここは病院らしい。
消毒のにおいがうっすらと鼻孔に届く。
あの崖から落ちて生き延びたのか?
それでここに運ばれたというのだろうか?
軽く困惑していると、
「目を覚ましたんだな」
そう言ったその声、覚えのあるその声。
健志の声だ。
なんでおまえがここにいる!
まりなの隣にいるのは俺だ!
おまえは邪魔だ、邪魔者なのだ!
俺は頭に来て健志をそう怒鳴りつけようとした。
思いっきり腹の底から怒りの声をぶつけた。
「あらあら、ほらあ~だめよ、ほら、貸して」
ふんわりとしたまだ若い女性がそう言って、男の腕から小さな存在を取り上げた。
「きつく抱いたんじゃないの? ほら、こんなに嫌がって」
「そいつ、俺が抱くと泣くよな、なんでなんだ?」
男は不満そうにそう言う。
「さあ、なんででちょうね~パパが乱暴なのよね~」
「だから、そんな抱き方してないって」
「なんにしても、抱き方を練習してちょうだいね」
「腹でも減ってるんじゃないの」
男、健志は不服そうにそう言った。
「そうなのかしら? おっぱいでちゅか~」
まりなは豊かな胸を露わにし、乳首を我が子に吸わせる。
生まれたばかりの男の子はそれだけが命の綱とでもいうように、必死に乳房に吸い付いた。
他のことは何も見えぬように、ただひたすら乳房を吸う。
「本当にかわいい、かわいいかわいい私の赤ちゃん」
父である健志は母と子にまぶしそうに不安げな視線を向けるだけであった。
二人だけの世界を作る聖なる関係に。
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