小椋夏己のア・ラ・カルト

小椋夏己

  1 起点・終点

 父が死んだ。

 

 会社の事務所の引っ越しで、たまたま休日出勤した土曜日の夕刻、作業を終えてみなでお疲れ様の食事会でも、そう言っていた解散の場で、いきなり倒れて病院へと運ばれた。

 荷物運びをしたワイシャツの袖もまくったまま、会社の人とお疲れ様を交わしながらいきなり倒れたそうだ。


 私はその日たまたま父が運ばれた病院近くに出かけていたもので、母からの電話で一番に駆けつけた。

 まだ父は救命室にいて、締め切った扉の内側で必死の救命をしてもらっているところであった。


 それからほどなく今度は母が病院に着いた。家からタクシーを飛ばしてきたのだ。

 その時もまだ父の命はかろうじてこの世に繋ぎ止められていた。


 次に来たのは隣町に住む妹だった。妹は結婚をして家から離れていたが、その日たまたま家にいた夫に子どもを預け、こちらもタクシーを飛ばしてきた。

 そして妹が到着して間もなく、私たちは医師の淡々とした死亡宣告を聞くことになった。


 遠方に住む兄だけはやっと到着したのがその夜、父が家に帰ってきてからだった。妻と子ども2人と一緒に車を飛ばして帰ってきた。


 そうして実感のないまま通夜、葬儀を済ませ、家には母と私の2人になった。

 今もまだ父は会社にでもいるような気がしている。


 大きなピースが欠けた後も生活は動いていく。

 私は3日の忌引休暇を終えた後、またいつものように仕事に出かける。

 まだ呆然としている母のそばには、最初のうちは妹が小さな子どもと一緒にいてくれてた。


 だが日が経つと、さすがに妹もいつまでも家を空けるわけにはいかず、少しずつ落ち着いた母を一人家に残し、私はバスと電車を乗り継いで仕事へ向かう日々となった。


 今朝の電車も人でいっぱいだ。

 一時は時差出勤、リモート出勤ということでかなり人が減っていたのに、このところは元に戻ってきている。


 私はドア近くの手すりにもたれ、ぼんやりと人を見ながら進む電車に身を預けていた。


 この人たちの中にも私と同じような喪失感を抱いている人がいるのかな。

 この人たちの中にも父と同じく夜にはいつもと同じように帰宅できなくなる人がいるのかな。

 この人たちの中にも目の前でいきなり誰かが倒れてそのまま命を失うという経験をした人がいるのかな。


 何を見ても、誰を見てもそんなことを考えてしまう。


 私が生まれてから先日まで、ずっと私の世界には父がいた。

 だがもう戻ってくる日は来ないのだ。


 そのことが静かに、だが深く心臓をキリキリと刺し貫いてくる。

 

 ずっとずっと昔に見た映画を思い出した。

 少し年上の少女が少し年下の少年にこんなことを言っていた。


「あなたが生まれてからずっと私がいなかった時間はないのよ」


 はっきりとは覚えていないが、そういうことを言っていた。

 確かに自分より年上の人間は、自分が生まれた時にはすでにこの世に存在している。

 うちの両親、祖父母、そして兄は私の起点とも言える生まれた瞬間を知っている、存在している。

 

 それからあの日までずっと私の世界には父が存在し続けていた。

 だがもういない。

 帰ってくることもない。


 映画の少女は病で命を落とし、少年は大人になって、それからずっと少女がいない時を過ごしていた。

 もう少女が帰ってくることはない。

 少年は少女の終点を見てしまったのだから。


 父の葬儀にいなかから祖父母、兄弟姉妹が出てきていた。

 父の起点を知っている人たちが。

 そして彼らは父の終点も見届けたのだ。

 父の人生の始まりから終わりまでを。


 長い長い時の流れの中、父という人物が存在していた数十年、その時を切り取るように知っている人たち。

 一体どういう気持ちなのだろう。

 私はまるで他人事ひとごとのように考えていた。


 ガタンガタン、電車の揺れに身を任せながら、あっちこっちに揺れる体が、まるで起点と終点を行ったり来たりしているようだ。


 親より先に死ぬのは親不孝と言われるが、その意味では父は思い切り親不孝をしたことになる。

 私はその意味では親孝行なのではあろうが、いきなりのこと、心の準備をさせなかったこと、それを思うと父は思い切り子不孝をしてくれたのかも知れない。だがそれでも、やはり親不孝をしなかった事実の方が大きいように思えた。


 人生の起点と終点、両方を見せる相手に不孝をすることになるのだな。

 なんとなくそう思った。


 人間は年の順にこの世を離れるわけではない。

 結局は孝行だの不孝だのと言ってもどうにもならないことではあるが、できれば起点を見てくれた人の終点を見守り、自分の起点を見てくれていない人に終点を見てもらうのが順当なのだろう。

 

 私の人生はまだまだ続いている。

 揺れる電車のように揺れながら、それでもやはり終点に向かって進んでいるのだ。

 その時には誰がそばにいてくれるのだろう。

 それとも誰もいないのか。

 

 駅に着くたび、誰かが降り、誰かが乗ってくる。

 人生も同じく誰かが降り、誰かが乗ってくる。

 最終電車に最後の最後まで一人乗っているとしても、それでもいつかは終点に到着するのだ。

 

 その日まで人生は続く。

 電車が終点に着くまで。

 乗っている電車が走り続ける限り。

 最後の駅に着くまでは。


 ガタンガタン、今日も私は電車の揺れに身を任せている。

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