お兄ちゃんは甘えん坊さんだね。

「陽一お兄ちゃん、真美のお願い。聞いてもらえるかな?」


 ――あの夏の日のままで、少女は僕に語りかけた。


 この暑さだというのに、思わず背筋に冷たい物が流れるのを感じる。

 幽霊? タイムトラベラー? それとも並行世界で暮らすが起きなかった別の彼女なのか!? 

 小首をかしげ、不思議そうにこちらを見る笑顔がうすら寒く思えた。


「……お願いって、お前。そんなことをいう前にやることがあんだろ!!」


 僕の大声に真美の細い肩が、びくっ、と震える。

 思わず語気が荒っぽくなってしまった。


「陽一お兄ちゃん、ごめんなさい、ごめんなさい!!」


 必死に謝る彼女の姿に、苦い過去が蘇る。何をやっているんだ。駄目だ……。

 これじゃあ同じだ。彼女がいなくなるルートじゃないか!! 

 優しく声を掛けようとした僕はその行動が出来なかった。表通りから鋭いクラクションの音が鳴り響き、真美と僕の再会に水を差した。


「ヤバい、道路の端にバイクを止めっぱなしだ!!」


「あっ、陽一お兄ちゃん、待って!!」


 自分の乗って来たバイクは路肩に停めたが、たぶん向かいの家が車庫入れの邪魔に感じたのだろう。案の定、初老の男性が腕組をしながら僕のバイクの傍で仁王立ちしている姿が目に入った。


「おいおい兄ちゃん、困るよ。こんなところにオートバイを置いて。車が入れられないだろ!!」


 この顔には見覚えがある。ひとを見下したような張り付いた薄ら笑い。がっしりとした体躯。年齢に似合わない派手なアロハシャツ。

 思い出した!! いつも僕たちが向かいの公民館で遊んでいるときも、うるさく注意してきた近所のおっさんだ。歳はとったが相変わらずの性格のようだ。


「……すぐにバイクを移動します。ご迷惑を掛けて誠に申し訳ありません」


 深々と相手に頭を下げる。睨みつけられながらバイクを県営住宅の入り口に移動させた。故郷を飛び出した頃の、触る物みな傷つけた僕なら喧嘩上等と食って掛かっただろう。

 売れないカメラマンのフリーランス生活で身につけた小賢しい処世術だ。


「……ま、まあ、分かればいいんだよ。兄ちゃん」


 上からマウントを取りたがる輩には下手したてに出るのが一番だが、必要以上に謝りすぎるのも逆効果だ。

 短い言葉で誠心誠意に謝るをする。長々と謝ると相手に接ぎ穂を与え、どんどん要求がエスカレートしてくるからだ。

 相手が車を車庫入れするまで見守り、完全に家に入ったのまで確認してやっと安堵の息を漏らす。


「……陽一お兄ちゃん」


 心配して追いかけてくれたんだろう。真美が僕を待っていてくれた。

 県営住宅の砂利だった入り口部分は舗装に変わっている。地面のアスファルトから立ちのぼる熱気で、僕のバイクの傍らに立つ真美の姿が蜃気楼のようにぼやけて見えた。

 汗が目に入ったからだ。自分に都合よく言い聞かせる。彼女が夏の魔物の仕業によって僕の前に現れた幻じゃないことを心の底から祈った。目に眩しいほどの白い肌が懐かしくそこに存在していた。なぜ真美は汗ひとつも浮かべていないんだろう……? 


「……真美」


 まるで軽い熱射病になったかのように言葉が出ない。スローモーションのように真美の姿がぼやけた。視界が暗転しながら歪み始めるのが分かる。


「陽一お兄ちゃん、なんで泣いているの?」


 真美が心配そうな視線をこちらに向けた。僕は自分で気がついていなかった……。言われて初めて頬を涙が流れるのを感じた。止めどなく溢れる涙が堪え切れない。


「……真美、これから情けないことを言ってもいいか?」


「いいよ、陽一お兄ちゃん、何でも私に話して……」


 昔と同じ少女の姿でも、真美は何だか年上の女性みたいだ。

 そんな彼女に甘えてしまう。ずっと言えなかった言葉が僕の口を突いた。


「僕はいまだに真美を忘れられない……。あの日、身代わりになって彼女は消えちまったんだ!! 僕が消えれば良かったのに、僕が……」


 両手で顔を覆い、激しい感情を吐露とろしてしまった。その場に膝から倒れ込みながら泣き叫んでしまう。

 次の瞬間、頬に暖かな感触を感じた。驚いて上を見上げると、真美が僕の頬を両方の手のひらで優しく包んでくれていた……。


「陽一お兄ちゃんは、あれからすごく頑張ったと思うよ……。私のことも。お兄ちゃんの家族のことも。そして東京に行ってからのお仕事も。そのことは絶対に誇りに思っていいんだよ。真美ね、じつは内緒で見守っていたんだよ。ずうっと忘れないでいてくれたことも知ってるから」


 真美は、まるで母親のような慈しみの表情で僕を見据えてくれた。


「陽一お兄ちゃんは、あの日も私のことを全力で助けようとしてくれたじゃない……」


 彼女がほほ笑みながら僕に語りかける。


「あのとき、で傍にいてくれて本当に幸せだった。ああ、私には陽一お兄ちゃんがいてくれたんだって。真美ね、すごく嬉しく思えたよ……」


 その言葉を聞いて自分の中で何かがはじけた。

 僕は赤ん坊のように真美の胸に顔を埋めて泣いた。県営住宅の前を通り過ぎる車の音を背中に感じながら。その場で真美の身体を夢中で抱きしめた。


 もう彼女を絶対に離したくない!!


「陽一お兄ちゃんは甘えん坊さんだね。こんなに大きくなったのに……」


 真美の水色のワンピースは懐かしい夏の匂いがした。




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