第11話 母

 津久見と別れ、帰宅した。いつもの通り部屋は真暗だ。電気を手探りで点けると急に明るくなって、目がくらんだ。柱の時計は七時を指していた。

「早く夕飯の準備をしなきゃ」

 母は何時に帰ってくるかわからない。が、その時すぐに食事ができるようにしておきたい。長年の習慣だ。


 食事の準備が整っても、母は帰って来ない。仕方ないので一人で食べ始めた。

 部屋は静寂に満たされていた。テレビは一応あるが、観ない。音楽も流さない。ただ黙って食べ物と向き合っている。


 宿題も終えて正に布団に入ろうとしたその時、鍵を開ける音がした。すぐに玄関に駆け付けた。ドアを開けて母が入ってくる。

「ただいま、キョウちゃん」

 彼女の笑顔を見るとほっとする。部屋は電気が点けてあり明るいはずだが、彼女の笑顔がこの部屋をより明るくしてくれる。いつまでたっても小さい子供みたいな反応をしてしまう自分を、心の中で笑った。


「キョウちゃん。今日は、何かいいことあった? 私はね、会社の人からおいしいお菓子をもらって食べたよ」

 疲れていても彼女は恭一との時間を作ろうとしてくれる。恭一は微笑んで、

「いいことあったよ。悪いこともあったけど、もういいんだ。いいことに変わった」

「へえ。それは良かったね。で、何があったの?」

 上着を脱ぎながら、恭一をじっと見る。


「えっと……僕、この前電話で話した人たちとバンドをやることになったんだ。僕が歌うんだよ。それで、今日初めて歌って、全然ダメだったんだ」

 あえて、『津久見』という名字は出さなかった。母の笑顔を消したくなかったからだ。母は恭一の言葉に笑い、

「あら。ダメだったんだ。キョウちゃん、小さい頃は、歌うの上手だったわよ」

「そうなんだ。覚えてないや」

「覚えてないよね。だって、すごく小さい時だもん。まだ、幼稚園にも行ってない頃、一緒に歌ったんだよ。可愛かったな、キョウちゃん」

 昔を懐かしんで、遠い目をしていた。恭一は肩をすくめた。

「ごめん。こんなに大きくなっちゃって」

「そんなことないよ。今のキョウちゃんだって、私にとっては可愛いんですからね」

 彼女の顔に微笑みが戻ってきた。

「母さん、ごめん。僕もう寝るよ。夕飯作ってあるから、温めて食べてね。じゃ、おやすみなさい」

「おやすみ、キョウちゃん」

 母の声が、恭一の心を温かくした。


 布団に入り目を閉じてから、そう言えば、いいことの方を話さなかったな、と思ったが、まあいいか、と諦めた。

 幸せな気持ちに満たされてまま、眠りに落ちた。

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