第25話 過去編 源翁心昭 可毗禮山 其四
花粉の効用で目が見えないが、足元の感触が変わったのは分かる。
これまでの花粉を撒き散らす植物が無くなり、どうやら土と芝の場所へと入ったようだ。ようやく花粉とはおさらばできそうだ。
土は硬く痛そうなので、源翁は芝が生えた場所にへたり込んだ。しばらく身動きすら出来なかったが、源翁はなんとか座禅を組んだ。
こうして花粉が落ちるのを待つのだ。
目と鼻が効かなければ、とてもではないが九尾の狐の元には辿り着けない。それと同時に菩薩に祈ることで、怪異に切られた背中の痛みを軽減するように努めた。ただでさえ違う怪異に斬られていた背中を、鬼と化した隼の怪異に斬られたのだ。この尋常ではない痛みは、精神集中によってしか抑えられない。
先の現場で背中に血止めの布を巻いたが、肉を抉られた事もあり完全に傷が塞がる事はない。満身創痍と言われればそうかとも思うが、身体が動くうちはそんな事も言っていられない。
座禅を組んでから一刻が経った。
薄手の布と軟膏のおかげで、背中の傷から流れる血はある程度止まったように感じる。花粉も大方落ちたようで、喉の痛みも少し和らぎ、涙の量も減ってきた。
まだ先は長いので、少しでも進んでいかなければならない。
心の中でイタタタと言いながら、私は座禅を解いて立ち上がった。まず口から息を吸い込んでみた。この山の霊気で喉が痛むが、花粉による痛みはかなりましにはなった。これならばと思い、声を出してみる。
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時」
声がガラガラなのは相変わらずだが、発声はできた。これは非常に嬉ばしい。声が出るのと出ないのでは術式の強度が違うし、万が一誰かと会った時の会話がままならないのは、間違いなく困るからだ。
声が出たので次は目だ。
私は涙が溜まった目をゆっくりと開けてみた。
まだ若干滲んでいるものの、うっすらと周りの景色が見えた。思わず安堵の息を吐いた。
目が見えないままでは、何もできないと言っていい。あれだけずっと流れていた鼻水も止まってきたので、周りの匂いも分かるようになってきた。
人間は、五感が揃って初めて活動できるのだと、改めて感じた。
思い出してみると、とんでもない花粉だった。
あの花粉を心無い誰かが戦争に利用すれば、多くの犠牲が出るのは間違いない。そんな白い花を、この山から出ないようにしなければならないと思うが、それは次の機会の話だ。
目もかなり見えて来たので、腕や足を見てみる。まずは手を開いたり閉じたりする。思ったよりも擦り傷は少ないし、きちんと指も動いた。足は擦り傷だらけだったが、これも動くので良しとしよう。ただ、草履に付いていた大量の草は、一つ一つ丁寧に取り除いた。これでかなり歩き易くなる。
そうこうしていると、目が完全に見えるようになった。目視できる範囲にこれほど多くの物があるのかと、世界が広がったように感じた。
身体を見回せば、緑色に染まった肌に泥が付着して苔の色に近くなっていた。何より気になるのは、隼の怪異にやられた傷が痛すぎて気づいていなかったが、あの見たことのない蜂に何箇所か刺されていた事だ。蜂に何度も刺されると、突然死すると言われている。身体に変な毒が回っていなければいいがと思うが、今は確かめようがない。動けるのだから大丈夫だと思うしかない。
兎に角、九尾の狐に会うまでは何があっても死ねないのだ。
ここから先は、虫にも気をつけ、より考えた戦いをしていかなければならないと強く思う。
身体が動く事を確認できたので、私は山登りを再開する事にした。
現状把握の為に周りを観察する。ここはそういう場所だったのかと、顔が渋くなった。危機は依然として継続していたのだ。いや、逆に増したとも言える。
何か抜け道がないかと思い、私はゆっくりとその場で回転しながら周囲を観察した。しかし、誰がどう見てもやれる事は一つしかないと言える場所であった。ここは例えて言えば、あの植物の海の真ん中でポツンと一つだけ取り残された植物のない島だ。
後ろを見れば、花粉を撒き散らすあの植物の群生地。前後左右は、切り立った崖に挟まれていた。ここから出で回り道をするには、またあの植物の群生地に入らなくてはならない。蜂のこともあり、次は命を落としかねないので、できればあの植物の群生地には入りたくはない。そうなると、崖を登るしかなくなる訳だが、これも問題がある。崖はほぼ垂直に切り立っている上、高さがかなりあるのだ。深傷を負った今の身体では、途中で力尽きてしまうかもしれない。
そう思ってから、いや、と源翁はそれを頭の中で打ち消した。
ここは弱気になってはいけない。できると信じてこそ奇跡は起きるのだ。これまでも心の持ちようで様々な窮地を切り抜けてきたではないか。と自分に言い聞かせた。
そう。やれる可能性のある事はやるのだ。
私はこの崖を登ってやると気合を入れた。
途中で落ちれば命はない。しかし、ここを登らなければ九尾の狐へと辿り着くこともできない。
この崖は、ざっと見積もっても自分の身長の十倍以上…いやもっとあるだろう。良い話があるとすれば、ゴツゴツした岩がいくつも飛び出ているので、掴むところと足をかける場所が多くあるところだ。これが無ければ、有無を言わさずあの花粉を撒き散らす植物の植生地へ戻るしかなかった。それを考えると、まだ天に見放されてはいないと思える。
源翁は岩肌を触ってみた。ぬるっとした感触があった。思わず違う岩を何箇所か触ってみたが、やはり全て同じ感触だった。これは…と、少しだけ決心が鈍った。
雨が降ったわけでも湧水があるわけでも苔が生えているわけでもないのに、全体的にぬるぬると滑っていたのだ。手や足を一度でも滑らせたら、崖下への落下は免れない。
途方に暮れる私の耳に、風に乗って九尾の狐の笑い声が聞こえた。これを聞くと無性に反抗したくなるのは、私の修行が足りないからだろうか?
余計な考えを頭から追い出し、源翁は早速崖に指をかけた。
ぬるぬると滑るが、決して手で掴めない訳ではない。慎重に慎重を期して登れば大丈夫だと言い聞かせ、丹田に気を溜める。いざという時、この気を解放する事で、一度なら危機を脱すことができるはずだ。
あとは私の精神力の問題だ。
壁にへばり付く蛙のように、源翁は崖を少しずつ登っていった。
うふふふ。カッパがヤモリになったよ。
あれならすぐ斬れます。
斬るまでもなく落ちるかもしれないよ。それはそれで面白いねえ。
でしたら、落として斬ります。
それじゃつまらないじゃないか。瀕死のヤモリが足掻いているのがいいんだよ。
九尾の狐さま。趣味が悪いです。
そうかい?あれ?おりん?
ぬるっとした岩に手を掛け、ガッチリと掴んだ後に、足場の岩場を移動する。これの繰り返しだ。
登ってみると分かるのだが、思ったよりも足場の滑りが酷い箇所が多く、落ちないように方向転換を何度も繰り返しさなければならない。それでも試行錯誤しながら崖の三分の一ほど上がった。まだまだ上があるというのに、私の手の握力が怪しくなってきた。
やれやれ、年は取りたくないものだと思うが、年を取った分諦めも悪くなっている。私は手に布を巻いて、その布が引っ掛けられるところは布で、どうしても手で掴まなくてはならないところは握力を使って登った。
上まではまだあるが、ようやく半分くらい登っただろうか。
私はお腹を見るような感じで下を見てみた。下から上がってくる風が顔を叩き、地面は遥か下にあることが分かった。すでに驚くほど高い場所にいたのが分かると、何か下半身が言いようのないムズムズに襲われた。要するに、このような場所では下など見ない方がいいということだ。
決して高所恐怖症ではないが、人間には恐怖の限界というものはある。
落ちた時のことは余り考えたくはないが、有重が揃えてくれたお札の中に、万が一足を滑らせてもその神通力で少なくとも一回は危機を乗り越えられる物がある。切り札として九尾の狐との戦いに取っておきたいが、万が一の時は躊躇なく使うと決める。そうやって、先のことも考えなければならないが、身体の限界が近いのも事実。もうずっと背中の傷は痛いし、貧血気味なのか頭がくらくらして、ぼーっとしてしまう事もある。
それでも、私は精神力の僧だ。一度決めたことは意地でも貫き通す。
歯を食いしばって、崖の溝や岩のヘリに手を掛け、足を別の岩に掛ける。これを根性で繰り返した。無心でやっていたせいか、半分意識が飛んでいたのかは定かではないが、気づけば、間も無く崖上というところまで来ていた。
あと少しだ。
自分に発破をかけて、慎重に上がっていく。手に当たる陽の光が段々と橙色になってきた。思い起こせば、草地で時間を取られ、あの隼の怪異と戦った。しかも、一刻ほどの間、座禅を組んで傷を癒した。この崖も、大凡ではあるが六刻ほどの時間をかけて登っている。
一日のなんと短いことよ。
陽が落ちる寸前の時間になったが、私の目が崖の上の木立とその根を捉えた。あそこまであと少しだ。
私は最後の気合を入れ、崖を登る。
闇に包まれ、怪異が跋扈するまでに登り切らなければならないが、慌ててはいけない。ここまで来て下に落ちる訳にはいかないからだ。
気にしない事にしているが、もう手の指の爪は全て剥がれてしまっている。剥き出しの肉は痛み、風を感じただけでしみる始末だが、もう終点が見えている以上、痛覚など二の次だ。背中の傷の方が痛いと思えば我慢できる。
私は愚直に足場を確保し、震える手で岩を掴み、身体を持ち上げた。
本当の本当にあと少し。
いよいよ、私は崖の天辺に右手をかけた。足場も何とか確保できた。
崖の際に生えている木の根に左手を掛け、最後の力を振り絞って重い身体を引き上げようとした瞬間、ゾワッとする殺気を感じた。
慌てて上を見ると、先日の女児が薄ら笑いを浮かべ、あの青龍刀を振り下ろすところだった。
仕方なし…
源翁は崖から手を離し、滑っとした足場を思い切り蹴った。少女に気づいたのが遅く、青龍刀に左腕を斬られたが、肉を少し斬られた程度で済んだ。
ふわりと中空に浮く感覚は、地獄に落ちていくような感じがして二度と味わいたくない。私は懐に手を突っ込み、目黒大鳥神社のお札を手に取った。日本武尊に祈り、お札の神通力を解放した。
瞬間、お札からとてつも無い強風が噴き出した。その強烈な風に乗って、源翁は女児の遥か上を通り越して崖の上へと落下した。何とか受け身は取ったものの、結構な高さから落ちたので、一瞬、身体が悲鳴を上げた。おまけに背中の傷がまたばっくりと開いた。
しかし、痛がっている暇はない。すぐさま身体を起こし、驚きの顔を向けている女児に向かって真言を唱え、血だらけの手で手印を切った。急遽の術式なので威力はないが、青龍刀を吹っ飛ばすには充分だ。青龍刀は女児の手から離れ、崖下へと落ちていった。
「く、小癪な…」
女児の呆気に取られた顔が怒りに満ちた顔に変わる。
すると、また声だけが聞こえた。フフフ。いやあ、いいものを見せてもらったよ。道具も使いようだね。もう少し楽しめそうだから、おりん戻っておいで。
おりんと呼ばれた女児に、呪殺されそうな怒りの目でギロッと睨まれた。まだやるのかと私が構えると、おりんは「ふんっ」と言ってこの場から消えた。
ふう…
私は、精魂尽き果ててその場にへたり込んだ。
暫く伏せっていたかったが、周囲は暗くなり、すでに怪異が集まり始めている。おりんとの対決はまたの機会となったが、今ここにいる怪異は待ってくれない。もう辺りは暗くなっている。私は手で膝を持つようにして何とか立つと、何度練ったかわからない気を丹田で練り始めた。
左腕の傷に手拭いを巻いている間に、日は完全に落ちた。
小さな怪異が何匹も私の周りの宙空を飛び回って威嚇してくる。
全くもって難儀な山だと思いながら、まずは小さき怪異を気で吹っ飛ばした。そして、今夜の寝場所を探す。
傷が痛すぎて、空元気だけでも出そうと、遠くからの視線に向かって
「私は負けんよ」
と言うと、せせら笑う声が聞こえたような気がした。今のうちに笑っておけと、私は心の中で呟いた。
老体に鞭打って山を少し登ると、奥に岩場が見えて来た。嬉しい事に、そこから湧水が湧き出ているではないか。湧き水は沢を作っており、その横にはおあつらえ向きの巨木があった。
今夜の寝床はここだと即決した。
少し広めに結界を張るため、源翁は袋から紐を出した。細長いが、神聖な糸を稲穂結びにして作られているので、非常に丈夫にできている。この紐を近くの木に四角形を作るように引っ掛け、それぞれの木にお札を貼った。これで、この中に小さな怪異が入る事はない。禁足地の作り方の応用だ。
石を拾い集めて竈を作り、その中に木を入れると、すぐさま火を焚いた。これで灯りと暖が作られた。
ようやく安全な環境を作り上げたので、私は早速沢の水で身体を洗った。
痛さと痒さでどうにかなりそうな身体を洗えるのは助かる。何より緑色の肌をなんとかして人間の色に戻したい。
裸になって、汚れた僧服をジャバジャバと洗う。透明な水が一瞬汚れで濁る。僧服に付いたこの緑色はなかなか落ちそうにないが、ゴシゴシと擦っているうちにかなり薄くなったように感じる。そのまま僧服を乾かすため水を絞って、竈の上に伸びた木の枝にかけた。火の灯りだけでは暗いので、どこまで緑色が落ちたのか分からないが、半分も落ちていてくれれば緑がかった僧服のように見えるはずだ。
そして、ここからが大変な作業だ。
私は、それこそ精神統一をして、全身を水の中へと入れた。冷たい水で緑色になった身体を擦り、頭から水を被り、身体中の花粉と汚れを水で流した。背中の傷が恐ろしいほど染みて、思わず「うっ!!」と悲鳴を上げたが、膿んでもいけないので兎に角洗い流す。
他の傷もえぐい程痛んだが、身体中についた緑の色素肌はほとんど落ちて、肌が元の色に戻っていく。そして、目や鼻がいつもの通りになった。ここまでスッキリとしたのはいつ以来か?と思えるほどスッキリした。
河童から人間に戻った気分で岸へと上がると、源翁は手拭いで身体を拭いた。
僧服は朝まで乾かすので、今日はふんどし一丁で寝るしかない。全身蚊に刺されるのは嫌だが、死ぬよりはマシだろう。
あーあ。河童から人間に戻っちゃったよ。ちょっと残念だね。
面白く無いので今すぐ斬りましょう。
駄目駄目。あいつそこそこ強かったでしょう?油断してはいけませんよ。
次は斬ります。術式も使います。
うふふ。あいつの死体は鶴岡八幡宮のど真ん中に放置しましょう。鎌倉公の顔が楽しみですね。うふふ。
九尾の狐さま。趣味が悪いです。
そうかい?うふふふふ。
また、笑われたようだ。
それでも、身体はすっきりとしたし、傷が膿む心配も少なくなった。
火の近くで私は自分の身体を観察した。手の指の爪は剥がれ、おりんに斬られた左腕の傷は生々しく、他にも無数の生傷とあざが全身にあった。背中の傷は見えないが、相当痛々しい傷になっているのは間違いないだろう。何せ、僧服の背中の部分が竜の爪で切られたような切れ込みが入っていたからだ。
この状態でよくあの崖を登れたものだと思う。
今思えば、九尾の狐を祓うという目標がなければできなかったように思う。自分に課された使命は、斯様に重いものであると改めて感じいった。
さて、少しでもこの傷を癒やし、体力を回復させるには食事しかない。幸いな事に、この場所には今までのような見たこともない変な植物もないので、山菜の類もあるはずだ。
源翁は火の明かりを枝に移し、結界から出て、周りを探索した。
普段は大人しい精霊の類が威嚇しながら飛んで来たが、怪異と違い、私が息を吹くだけで飛ばされていくので、軽く追い払った。幸い、近場に多くの山菜を見つけられた。最大の戦利品は大和芋で、掘り起こすのに多少時間がかかったが、これで栄養はかなり取れる。
手を山菜で一杯にして、これを調理しに結界内へと戻った。
山菜も様々で生で食べられるものもあれば、煮焼きしなければならないものもある。その見分け方は、寺院を各地に開創した際に世話になった天台宗の修験から教えてもらった。腹を壊さず食べられるものほど有難いものはない。
窪んだ石に水を入れ、火にくべた。すぐに水が温まる。これに山菜と大和芋を入れ、懐から出した塩を少し入れた。本来は清めに使うものだが、塩を取らなくては身体がおかしくなってしまうので、少しくらいは許容範囲だ。
芋と山菜がいい具合に煮立ったので、温かいうちに食べる。
ああ…生き返るとはこのことだ。
討伐が長丁場になってしまった今、食事を蔑ろにしては最後まで戦えない。思わずふうーと長い息を吐いた。腹も膨れ、水と塩分を補強し、身体も洗った。
よし、これからだと私は山の上を見た。
そちらには相変わらず黒い気が頑然とある。そして、山に入った時よりもそれは確実に近くにある。
私は、必ずやそこに辿り着くと自分に言い聞かせ、木に登り、身体を休めた。
遂に山に入ってから六日目を迎えた。
日が昇ると同時に、私は結界を解いて山を登り始めた。
周りは私が見知っている山の風景で、見たことのない草が群生してはいない。全身の傷が完全に癒えていないので、このまま上へと行ければ非常に有り難い。
雑草の類が少なく、獣道もあるので、これまでが嘘のように上に向かって登っていける。しかし、普段よりも多くの湿気を感じるのが不安でならない。
雨が降らなければいいと思っていたが、肌で感じる湿気は嘘をつかなかった。程なく雨が降りだした。
雨が木の葉に当たる音が一斉に響く。普段であれば恵の雨だが、現状はそれとは程遠い。
瞬時に、かつて山での過ごし方を教えてくれた修験に言われた事を思い出した。
山の雨が一番恐ろしい。
彼らは口を揃えてそう言ったものだ。
修験達は、己の修行の為に山に入るのはもちろん、水銀、鉄、金などの鉱脈を見つける責も負っている。だから、普通の人間が到底入っていかない場所までも足を伸ばす。そうした経験で、彼らは山の隅々まで知り尽くしているのだ。
そんな修験の全員が全員、山の雨には気をつけろと言っているのだ。ここは慎重に進むべきだろう。
まずは、水の通り道である窪地から遠ざかった。水の道にいては絶対に助からない。
雨は悪戯に勢いを増していく。霞がかって見えるほどだ。
上には常緑樹の葉があるにも関わらず、大きな滴が身体のあちこちに当たり、前も見えにくい。地面はすでに水浸しで、泥という泥が草履に付いた。嵐でもないのに、これほどの量の雨は未だ体験したことがない。
せっかく乾いた僧服はすでにずぶ濡れになり、その水分で重い。身体も急激に冷え、私は思わず手で身体を抱き込んだ。
寒さで身体の動きが鈍くなる中でのこの豪雨…あまりいい兆候ではないと思う。
雨は更に勢いを増す。
桶に汲んだ水をざばざばと勢いよく掛けられているような感じだ。目に入ってくる雨は痛いくらいで、目も開け辛い。花粉とはまた違う見え辛さだ。
手で目に入る雨を防ぎつつ前進する。
「ふう。寒い。流石にこれはたまらんの…」
思わずそんな事を言った瞬間、私は遠くに何かの音を聞いた。今は薄く聞こえるだけで何の音か分からないが、心の中で最大級の警鐘が鳴る。
源翁は足を止め、耳を澄ましてその音を聞いた。音は徐々に大きくなってくる。
まずい!!
前が見えないなどと言っている場合ではない。私は大きく目を見開いて、安全な場所を確認した。
雨で霞んではいるが、近くに高台が見えた。
あそこなら…まだ間に合うはずだと、私は心の中で呟き、そして菩薩に祈った。
源翁は、鬼から逃げるように全速力で走った。
生き延びるためには、あそこまで走りきるしかない。地面が滑って上手く前に進めないが、兎に角走った。目標の高台の下に着くと、角度のきつい斜面を四つん這いになって必死に登った。
山の雨は怖いという修験の話を思い出したばかりではないかと悔やみながら、私は歯を食いしばって登る。雨で濡れた泥が滑ってうまく登れない。
あの低い音が間近に聞こえた瞬間、バキバキッ、ゴオッという音が耳をつんざいた。
まずいまずい!!
ぬるぬると滑る坂を必死になって登る。
ついに、破壊音と地響きが連鎖した地獄の叫び声の如き爆音と共に、地震のような振動を連れた恐怖の水のうねりが、目に入った。
巻き込まれたが最後の、特大の鉄砲水だ。
想像もつかない量の泥と水が、倒木と巨大な石を巻き込んだ土石流となって此方に向かって来る。あれに巻き込まれれば命はない。木という木がなぎ倒され、石と石が激しくぶつかる破壊音が耳をつんざく。
私は高台から突き出ている木の根に飛びついた。
何とか木の根を掴んだ瞬間、怒涛の濁流が私の足にかかった。
濁流の力強さは半端なく、足の先しか水に付いていないにも関わらず、身体ごと水に持っていかれそうになる。私は、必死に木の根にしがみついた。
折れないでくれと、心の中で叫ぶものの、木の根は、私の重さと水の流れる強さで恐ろしいほど軋んでいる。
火事場の馬鹿力で、私は少しずつ高台へと身体を上げて行った。水に足を取られながらも、何とか上半身を高台に乗せる事に成功した。
うふふふ。頑張っているねえ。
あそこから突き落として楽にしてやりたい。
まあまあ。ああやってヤモリが頑張っているのを見るのは楽しいよ。
ヤモリはもっと速く登れます。
じゃあ、もう少し水を増やして尻に火を付けてヤモリ並みに登ってもらいますか。
九尾の狐さま。趣味が悪いです。
そうかい?うふふふ。
何とか流されそうになるのを堪え、身体を折り曲げてようやく水から足が離れたと思った瞬間、どういう訳か、逃さんとばかりに濁流の水嵩が増した。
水に意志があるのではと疑いたくなるような増水で、その尋常でない流れが再び私の足先を飲み込んだ。
今度は水に掴まれているような感覚だ。
水に吸い込まれていくかのような力が私の足にかかる。落ちたらもう命はない。歯を食いしばって水の流れに耐えながら、両手に力を入れて身体を持ち上げた。昨日おりんに切られた左腕の傷がパックリと開いた上、背中の傷口からも血が流れたが、そんな事を気にしている場合ではない。両手が塞がりお札は出せないので、自力で這い上がるしかない。
ようやく上半身が高台に乗った。急いで全身を上げようとした瞬間、とうとう左足のふくらはぎに流木がぶつかった。
木の側面が当たっただけなのに、木槌で叩かれたような衝撃だった。あまりの痛さに、頭がチカチカして木の根から手を離しそうになったが、それでも歯を食いしばって何とか耐えた。まだ死ぬわけにはいかないのだ。
流木が擦れたふくらはぎは、水浸しなのに火傷をしたように感じたが、幸い、足はまだくっ付いている。これならまだ歩けると、なるべく前向きに考えた。
しかし、これ以上は致命傷になってしまう。
「くおおお!!」
私は、大声で叫ぶことで全身に力を行き渡させた。
覚悟を決めた源翁は、全力を以って一気に身体を高台へと持ち上げた。奇跡的に身体は高台へと上がった。水から足が出て、前日の崖よろしく私は木の根元に転がった。足が痛み息も上がったままだが、まだ安心はできない。身体が動くうちにこの濁流から離れなくてはならない。
何とか起き上がった私は、四つん這いになって這うように高台の上に広がる坂道を上がった。
草やら枝やら小石やらが膝や手にかかって痛いが、死ぬよりはマシだ。ぬかるんで滑りやすい坂を、自分でも信じられない早さで登り切り、更なる高台に倒れ込むように入った。
流石にここで身体の限界がきた。
全身が疲弊し、足の痛みも酷く、全身の傷も開いてしまった。
私はその場で仰向けになって動けなくなってしまった。ぜえぜえと喘息のようなしゃがれた息が漏れ、心臓もかつて感じた事のない速さで脈打ち、全身が軋んでいた。空から降り注ぐ強烈な雨で目が開けられない。これだけ身体が疲労し痛んだのは何年ぶりであろうか?とても今すぐ動けるような状態ではないが、また何かあってはいけない。
私は無理やり息を整えにかかった。何しろ、高台と言ってもすぐ下にはまだあの濁流が渦巻いている。更に水嵩が増せば、私はもう終わりだ。
耳には轟々と風と水の音が聞こえる。この有様に怪異ですら顔を出さない。
手の指を動かしてみた。指は動く。左手の傷と背中の傷はまた開いてしまったが、痛みは我慢できる。左足も腫れてはいるが動いたので折れてはいなそうだ。身体も問題なく動きそうだ。そう自分に言い聞かせる。
震える手で地面を付き、私はどうにかこうにか半身を起こした。
血が出過ぎてか、一気に走りすぎてかは分からないが頭がくらくらする。しかし、それを気にするのは後回しだ。左足は…くるぶしの辺りが若干抉れてはいたが致命傷ではない。打撲傷で真っ青になってはいるが、このまま足が膨れなければ骨折の心配もないだろう。
助かったと素直に思った。天はまだ私を見捨ててはいなかった。
左足の打撲部分を手拭いで縛って保護すると、近くに落ちていた木の枝を杖代わりにして何とか立ち上がった。覚悟を決めて、足を引きずりながら更に高い場所へと移動を開始する。
ガガガガッ!!ゴォ!!
すぐ後ろで、巨大な地響きがした。
慌てて振り返ると、先ほど伏せっていた場所が嵩を増した濁流に飲み込まれていた。濁流は渦を巻き、木を薙ぎ倒し、全てを流していく。
これが自然の恐ろしさだ。少しの油断が死に繋がる。ここも安全ではない。
私は後ろを見るのを止め、兎に角上へと進んだ。下では死の世界へと案内するかのような不穏な音がずっと鳴っている。
坂が急なこともあり、何度か滑り落ちそうになったが、その度に木や草に捕まって難を逃れた。もう何も考えず、私は必死に登った。死なないためには、兎に角上に行くしかない。そうやって、かなりの時間上に登った。
やがて、湿気のない風が頬を打った。そして、私は雨が当たっていない事に気づいた。
あの雨が止んだのだ。
その場で止まり、深く息をして下を見れば、濁流は急激に嵩を下げていた。濁流に飲み込まれていた場所は、多くの木が倒れ、岩が砕かれ、そこだけ何もなかったかのようにすっかり全てが流されていた。海の津波と同じだ。全てを流して破壊する。そこにあった痕跡は一掃されてしまう。
暫くその様を見て、私はゆっくりと息を吐いた。
生き延びたのだ。
いつの間にか出ていた太陽の光が私の顔を照らした。地獄のような不快な音は鎮まり、鳥達の声が聞こえる。足元の草むらでは安心した様子の大きなカエルが嬉しそうに跳ねた。
山の天気は変わりやすいというが、これほど極端な変化は流石に考えられない。まあ、要するに、これも九尾の狐の力の範疇なのだろう。そうやって努めて冷静に分析したものの、天気を操れるほどの力を持っているという事実は重い。
天変地異を起こせる程の力を持った怪異に、私は挑むのだ。
そんな事を思っていると、またどこかで拍手の音が聞こえた。無性に腹がたった。九尾の狐はよく助かったなと面白がっているのだ。
「そこで待っているが良い」
私はそう言ってから、更に上を目指した。
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