第8話 過去編 【室町時代 山城国 陰陽寮 安倍有重】其五
安倍有重と土師勤介は、埃を吸い込まないようにと、口周りに手拭いを巻いた。
重い檜で造られた頑丈な引き戸を身体ごと押すようにして開けると、中から外に古い匂いが這い出てきた。勤介の顔が歪んだが、有重は気づいていないふりをして部屋の中へと入った。勤介も仕方なく入ってきた。
有重は陰陽寮に入ったばかりなので、書庫に入るのは初めてだ。そのうちここに入り浸って膨大な知識を得たいと思っている。
陰陽寮の書庫は想像以上に大きく、様々な資料が揃っているようだ。
本棚は地震にも耐えられるように引き戸と同じ檜で造られた重々しいもので、背も高く横に長い。その中に本や書状がぎっしりと詰め込まれている。本は見た感じ時代ごとに分けられてはいるので、部屋の中をあてどなく彷徨う心配はなさそうだ。
それにしても広い。
何しろ、見える範囲でさえ、本棚の列は二十を超えており、その奥にもまだまだ続いている。
ここは、陰陽寮の歴史そのものなのだ。陰陽寮に所属した文官たちが、日々の記録とその考察を後世に記す事で、この膨大な書庫を埋めていったのだ。
この場所には、歴史と叡智が眠っている。
それを思うと、少なからず感動を覚えるが、隣の土師勤介はそうではないようだ。わざとらしく咳をして、早くここを出たいと訴えている。この程度の者がよく試験を通ったと思えるが、勉強ができる事と仕事ができる事が比例しないのは、世の常だ。
二人は、入り口からもう少し中へと入った。
書庫に漂うカビ臭さと古い建物特有の匂いが予想以上に酷い。
隣の勤介は、目を細めてため息を漏らしている。
それなりに虫干しや風通しをしているはずなのだが、効果が出ていないとしか思えない。保存のやり方を変えるべきだと思う。有重は何かの機会にそれを提案しようと決めた。
ただ、これは、積もり積もった歴史の匂いでもある。余りに嫌っては失礼というものだ。何しろ、この部屋には六百年以上も前の資料すらあるのである。古い匂いが定着してしまっていても不思議ではない。
「では、手分けをして探しましょう。私はこの列の棚を見ます。勤介さんは手前のこの列をお願いします」
「私がこれを?こっちはお前がやってくれ。私がそっちをやる」あからさまに嫌そうな顔した勤介が逆を主張した。
「良いのですか?こちらはあらゆる宗派の記録と歴史、そして陰陽寮の独自考察資料が多い印象です。手前は単純な統計資料が多いのですが…」
「何?そうか。じゃあ、お前こっちをやれ。私は手前をやる」
「分かりました」
日本の危機を回避する為の資料探しと言ってあるので、普通なら馬鹿にするなと怒りそうなものだが、やる気と気力が足りていないこの男は、より楽な方が良いのだろう。
結局、勤介は連れてくるだけ無駄で全く役に立たなそうなので、有重の担当書棚を調べた後、もう一度、勤介担当の書庫を調べる事にした。この手間を考えれば、最初からこの男に頼まなければ良かったと思えてきた。
有重が担当した本棚には、九尾の狐に関連していそうな本が数冊あったが、見てみると、どれも単なる伝承が書かれているだけで『獣狩り』について記載されている本は一冊もなかった。そもそも『獣狩り』の記述がこれほどないのは、当時の陰陽寮が、『獣狩り』の存在自体を歴史から抹消したからだ。
それを考えれば、仏教関連や神道関連の本に出てこないのは、まあ、当然だろう。
だとすれば、注意すべきは陰陽寮の遺した書物だ。
そんな事を考察していると、奥から服をパタパタはたきながら勤介がやってきた。
「こっちには何もなかった。なあ、これ以上探しても無駄だぞ。私も明日までに仕上げなければならない仕事があるんだ。今日はこのへんでいいだろ?」
九尾の狐が京に攻めてきても、お前はそう言えるのかと言いそうになったが、有重は自重した。あまりやりすぎると後々面倒になるからだ。それに、この男を戦力外にしたら、奥の手を使えばいい。
「分かりました。では、ご自分のお仕事をなさってください。私は、ここでもう少し探してみます」
あからさまに、解放されたという顔をした勤介は「そうか。じゃあ、頑張ってな。まあ、『獣狩り』なんて単なる伝説だと思うけどな」と言うが早いか書庫を出て行ってしまった。
残念ながら有重には陰陽寮に頼れる人間がいない。しかも、見たところこの件に関してやる気のある人間もいなかった。となれば、頼りになり、非常に仕事に前向きな助っ人にお願いするのが最良の手だ。
そういう当てが一人いるのだ。
今も昔も変わらないが、日本の女官は非常に優秀だ。学もあるし交渉も上手い。古くは卑弥呼という日本で最も有名な女性がいた事からもそれは間違いない。ここ京には天皇家のために働く女官が多数おり、その中でも人事を司る者や、天皇家の儀式に奉仕する者は特に優秀で、知的好奇心に溢れている。
有重は、御所へと向かった。
御所には、顔見知りの門番がいる。彼は有重の顔を見るなり、悪い笑顔を作った。
「お前も頑張るねえ。しかも、夜でもないのに」
「ええ。でも、今日は彼女に仕事を頼みたいのです」
「仕事?楽器でも弾いてもらうのか?」
「いえ、書物のことで相談があるのです」
「ふーん。よく分からないけど、戻る時間は守ってくれよな」
「はい。分かりました」
門番は、頑張れよーと言って御所の中へ入れてくれた。本来なら有重ごとき身分の者は門前払いなのだが、この門番の基準では色恋沙汰は別物らしい。
有重は、女性しか出入りの許されない禁裏の奥へと向かった。
禁裏の奥の裏口から中をみると、そこで働く唯一の男子である、児と呼ばれるお手伝いの少年が見えた。しかも、彼は有重の知っている児だった。これ幸いと、有重は児を手招きした。
この児の本名は分からないが、皆から六助と呼ばれているので、有重も六助と呼んでいる。
周りを見て誰もいないのを確認した六助が、有重のところへと走ってきた。
「有重さま。あまりここに来られては困ります」と六助は渋面で言った。
「いや、申し訳ない。今回は本当に困っているのだ。そこでだ、すぐに頼子さんを呼んでもらえないだろうか?」
頼子は、とある貴族の娘で、女官のみで構成される内侍司(ないしのつかさ)の下級女官である女嬬(めのわらわ)として働き、書物と楽器を扱う職の書司(ふみのつかさ)をしている。非常に頭が良く、様々な書に通じており、琵琶の演奏も上手い。
そして、ここが重要だが、顔が可愛い。
「うーん。頼子さまは、今日は楽器の手入れをしているので、あまり時間がないと思いますよ」
「そこを何とか言って、連れてきてほしい。そうだなあ…砂糖饅頭でどうだ?」
六助の渋面が、あっという間に悪ガキの顔へと変わった。子供はこれくらいで丁度良いと思う。
「分かりました。この六助、命に替えても頼子様をお連れします」
「うむ。お願いした。頼子さんには、日本の未来の為に、九尾の狐に関する本を読みたくないか?と伝えてくれ」
「はい。しばしお待ちを」
風のような速さで六助は屋敷に消えた。
どうやら、六助は、日本の為に働いてくれるようだ。
有重が木の影に隠れて待っていると、六助に袖を引っ張られた頼子が不承不承といった感じで裏口へとやって来た。
「ご苦労さん」と有重は六助に言った。
「砂糖饅…いえ、日本の未来の為です」
真面目な顔でそう言い、六助はそのまま飛んで行きそうなほど上機嫌で禁裏の奥へと走って行ってしまった。
「ふーん。砂糖饅頭ね。私には?」
まだ給料もさほど高くないので、少し考えたが、ここはケチらない方がいい。上機嫌の彼女の仕事ぶりは、恐らく右大臣をも凌駕する。
「頼子さんには、蒔絵の櫛を贈れればと思いますが、まずは、西陣の小袖でどうでしょう?この仕事がうまくいけば、もちろん蒔絵の櫛も差し上げますよ」
頼子は、満足そうに笑って有重の肩をばんばんと叩いた。
櫛という言葉が効いたのかもしれない。櫛を送るという事は、結婚を申し込むという事になるからだ。
ただ、貴族である彼女が誰に嫁ぐかは父親が決める。そこを掻い潜るには、これから自分がどれだけ実績を上げられるかにかかっている。
九尾の狐を退治したという実績は、それは即ち特大の実績だ。
「うふふ。それなら手伝ってあげてもいいわよ。うふふ」
「では、陰陽寮に向かいながら説明します。このまま陰陽寮に向かいましょう」
「ええ!このまま?」
頼子は、誰かに向かい先を言おうか迷ったようだが、どうせ門番に話す事になるので、このまま行くことに同意してくれた。
御所の玄関では、先ほどの門番がニヤニヤしながら出迎えてくれた。
「昼間からお出かけとは、いいご身分ですなあ」
「まあ、そういう身分になれるよう頑張るよ」
横で頼子がボソッと「頑張るんじゃくて、なるのよ」と圧力をかけてきたが、とりあえず聞かなかった事にして、有重は御所を出た。
道すがら、頼子に九尾の狐が復活したことと、獣狩りのことを説明した。彼女は真剣な表情で話を聞いてくれた。
「その『獣狩り』の資料は葬り去られたけど、有重くんは何かあると踏んでいるのね?」
「はい。役人が資料を完全に消すというのはしないと思います。何らかの形で残しているのではと考えています」
「ふむふむ。まずは行ってみないと何とも言えないわね」
頼子は真剣な顔を前に向けた。
二人で陰陽寮まで輿で移動すると、有重は頼子を陰陽寮へ入れた。
「へえ。ここがあの有名な陰陽尞なのね。へえ」
頼子は、屋敷の構造にも興味があるようで、目を皿のようにして全方位を見ながら歩いた。
長い廊下の奥に、あの書庫が見えてきた。
「あそこ?うふふ。燃えてきたわ」
頼子の顔が、研究者の顔になっている。この顔こそ頼子の一番輝いている顔だ。
有重は、再び書庫の引き戸を開けた。
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