第6話 誇り
アグリシアが湖に落ちてから三日が経った。
その間、一度も目を覚ましてはいない。
医者は命に別状はないと言う。怪我などもないし、頭を打った形跡もない。
目を覚まさない理由が分からないと、匙を投げてしまった。
医師としてできることはない。後は本人が目を覚ますことを待つだけだと。
学園を休み毎日朝からずっとアグリシアのそばにいるエドワード。
彼女の手を取り、その名を呼び続けていた。
「アグリシア。早く目を覚ましておくれ。今度は君の行きたいところに行こう。君は本を読むことが好きだったから、図書館もいいな。二人で並んで本を読もう。その後で一緒にお茶をして、君は甘い物が好きだからスイーツを食べよう。早く目を覚まして、一緒に出掛けよう。僕は楽しみにしているよ」
眠り続けたまま何の反応もないアグリシアに、優しく問いかけ続けるエドワード。
手を握りしめ優しく頬にふれ、髪をなでたりしてもなお、彼女が目を開けることはない。
彼女が学園を休んでいる間、エドワードもまたずっと休み続けアグリシアのそばにいた。婚約者としての義務ではなく、自分の意思で心からそうしたいと願っての行動。
それを咎める者は誰もいなかった。
アグリシアが眠り続けて三日目の夕方。先触れもなしにコレット家へと一台の馬車が姿を見せた。そこから降り立ったのは、アグリシアと同じ学園の制服を着た令嬢であった。
「突然の訪問をお許しください。どうか、アグリシア様のお見舞いをさせていただけないでしょうか」
兄のリチャードが対応し、話を聞いた。
令嬢の名はアメリア・セルデン。セルデン伯爵家の令嬢である。
アグリシアと同じクラスメイトだが、今まで親しくしていたわけではないという。
アグリシアに憧れ、密かに目で追い続けていたという。
学園を休んでいるアグリシアは、事故で湖に落ち具合を悪くしたためしばらく休むことになっている。
それでも婚約であるエドワードまでも学園を休んでいることから、重病で見舞っているのだろうと噂が流れ始め、心配で無礼を承知で見舞いに来たのだとアメリアは語った。
「シアはどこも悪くはないのです。ただ、眠り続けているだけで。今にも目を開けて、いつものようにお兄様と声をかけてくれそうなほどに、変わらずに眠っているんですよ」
リチャードはアメリアにそう説明をし、顔を見ていきますか?と声をかけ、アグリシアの私室に向かった。
アグリシアの部屋にはエドワードが彼女の枕元でずっと手を握りしめ、そばを離れない。
突然の来客に「君は?」と、エドワードが声をかける。
同じ学園の制服を着た令嬢。彼の中ではアグリシアに友人がいた記憶はない。
いつもアグリシアをからかっていた令嬢達とは別人のようだが、それでも警戒をしてしまう。ここに来てまで蔑み、話題のネタを探しに来たのかと?
「彼女はアメリア嬢だ。シアのクラスメイトだそうで、心配してお見舞いに来てくれたんだ。少しいいだろう?」
リチャードの言葉に一抹の不安を残しつつ、エドワードはアメリアを見つめる。
「あなた様はアグリシア様の婚約者様ですよね? 学園内でお二人が話されているのを見かけたことがあります。
私はアグリシア様のクラスメイトでアメリア・セルデンと申します。
アグリシア様にずっと憧れていて、いつかお声をかけさせていただけないかと思っていたものです。突然押しかけて無礼は承知しております。でも、一目だけでもお顔をよろしいでしょうか?」
エドワードはリチャードに目配せで確認をする。優しい眼差しでアメリアを見つめるリチャードは「心配ないと思うよ」そう言って深く頷いた。
その言葉を受け、エドワードは握りしめるアグリシアの手をそっと放し、席を譲った。
アメリアはおそるおそる近づき、アグリシアの枕元に膝をついた。
エドワードがそうしていたように、彼女の手を取り確かめるようにそっと握る。
「アグリシア様。同じクラスメイトのアメリアです。アメリア・セルデンです。
あなたは私のことなど覚えていないかもしれませんね。私は目立たない子ですから。
いつも背筋を伸ばし凛としていて、それでいて誰ともつるんだりせずに自分をしっかりお持ちのあなたが、私には眩しくてずっと憧れていたのです。
声をかける勇気がなくて、今までまともにお話もできなかったけれど、私はあなたをずっと目で追っていました。
アグリシア様は覚えていらっしゃらないと思いますが、一度だけ私の刺繍を褒めてもらったことがあるんです。いつも違う刺繍のハンカチは誰が刺しているのですか?って。
それくらいしか取り柄のない私の刺しゅうを気にしてくださって、お上手ですねって……。とても嬉しかったんです。
今日はアグリシア様のイニシャルをハンカチに刺してまいりました。
アグリシア様、これを持って早く学園に来てくださいね。そしたら、今度こそ勇気を出してあなたに話しかけます。ぜひ、ランチをご一緒させてください。
色々な話を沢山しましょう。あなたの事も、私のこともいっぱい、いっぱい。
私、きっとあなたの良い友人になります。友人にさせてください。
だから、一日も早く元気なお姿を見せてください。
アグリシア様、だから、だから……」
最後の方は涙で言葉にならなかった。
令嬢として資質が欠けているとエドワードは自身の母から聞かされていた。しかし、そんな事は決してなかったのだ。確かに刺繍は出来ないかもしれない。誰とでも気さくに打ち解けられるわけではないかもしれない。
けれど、貴族令嬢としての真の心は失っておらず、気高い思いは誰にも恥じることは無い。そしてそれをそばで気が付いてくれる本当の友人がこうしていてくれる。
エドワードはアグリシアへの想いをさらに募らせ、胸がいっぱいになった。
そして、兄リチャードもまた、自分の妹を思いこうして見舞ってくれる友人を有難く思い、妹を誇りに思った。
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