第54話 正体

 キィィ……。


「……ん?」


 トイレの洗面台で手を洗っていた俺は、不意に背後から聞こえてきた音に顔をあげる。


 洗面台の鏡越しに、ちょうど俺の後ろの個室の扉がゆっくりと開いていくのが見えた。


(うわ、誰か入ってたのか……参ったな)


 誰もいないと思ってガッツリ独り言を喋ってしまっていた。これは恥ずかしい。


 気まずい空気になる前に早く出ようと、洗面台横にあるハンドドライヤーに手を伸ばそうとした俺は。


「……!?」


 しかし、個室から出てきたその人間の風貌にギョッとする。


 そいつは、屋内だというのに頭からすっぽりと真っ黒なレインコートを着ていた。


 身長は俺よりも低いようだが、コートのサイズがブカブカなために体のラインが判別しづらく、男なのか女なのかもわからない。フードを深々とかぶっているせいで、顔もほとんどよく見えない。


 はっきり言って、「不審者」の一言に尽きる。


 そして何より不気味なのは、そいつが個室から一歩出たところで動きを止め、一言も喋らずに俺の前に立っていたことだった。


(──「X」!?)


 状況から見ても、もはや疑いようがなかった。

 

 心臓が早鐘のように鳴るのを感じながら、俺は恐怖を押し殺してレインコートに問いかける。


「きょ……脅迫状の犯人は、お前か?」


 俺の言葉が終わるが早いか、それまで微動だにしなかったレインコートが右腕を振り上げる。


 コートの袖に隠れていたその右手には、照明の光を浴びて鈍色の輝きを放つ──一本のカッターナイフが握られていた。


 バキン!!


 次の瞬間、俺の脳天めがけて振り下ろされたそれを咄嗟に回避できたのは、運がよかったというほかない。


 俺が横っ飛びにトイレの床に転げると同時、大理石の洗面台にぶつかったカッターナイフの刃が派手に折れる音が響く。折れたカッターの刃先が、倒れこんだ俺のすぐ脇に落下して「キンッ」と音を立てた。


(やばい、やばい、やばい……こいつ、やばい!)


 滝のように冷や汗を流しながら、俺はすぐさま立ち上がって身構える。


 辛うじてカッターを避けたのはいいが、咄嗟だったこともあって俺はトイレの奥側に逃げ込んでしまった。結果、レインコートに入り口を塞がれるという最悪の形だ。


(じょ、冗談じゃ……冗談じゃないぞ!?)


 生まれて初めて自分に向けられた明確な「殺意」に、体の震えが止まらない。

 大声で助けを呼びたいのに、俺は恐怖のあまり声の出し方も忘れてしまっていた。


「…………たのに」


 レインコート──「X」が、そこで初めて言葉を発した。


「……『近づくな』って、したのに」

「……!?」


 フードの下から漏れ聞こえてきたのは、若い女性の声だった。


 異様な風貌からは想像できなかったその声に驚いていると、「X」がユラリと俺の方に向き直った。その拍子に、レインコートのフードが捲れる。


「あっ……!?」


 とうとう晒されたそのに、俺は思わず声をあげた。


「──許さない」

 

 フードの下から露わになった彼女の顔には、見覚えがあったから。


「許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない」


 死人みたいに虚ろな目をして、うわ言のように「許さない」と繰り返すその少女は──。


「許さないよ……佐久原くん」


 空いた左手で印象的なを掻きむしりながら、底冷えするほど冷たい声でそう言った。


(よ……吉田、紅蘭こうらん……!?)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る